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お道と臨床と~心づくりのたね~

お道(天理教)と臨床心理学の視点を含めて,まおという人間が考える日々の通り方や考え方について綴っています.日記風なこともわりとあります.

おぢばがえり 

先日,団参バスの係員としておぢばに帰らせていただきました.車内での案内やお茶出し,会計,帰りの昼食の注文,お茶の用意などが主な役割です.それ以外は自由ですので,25日の午後からは原典研究会に出席させていただきました.数年ぶりに植田先生にお会いし,おやさまを篤く慕う方のお話を色々聞くことができとても充実した時間でした.

ある先生のご自身の体験でこんな話がありました.「元の理を毎日拝読すれば不思議な事が起こるよ」との話を聞いたことがあり,毎日読んでいたら,そのうちにすい臓ガンが見つかり,2.5㎝→5cmにとどんどん大きくなり,手術を受けても3%しかたすからないと言われたが,「私一人なら死んでも構わんが,私も小さな天理教の教会の教会長をしていていくつかの家族の運命を預かっている.私は死ぬわけにはいかん」と言って手術は受けずに,毎日,教典の元の理の拝読を続けていたところ,数年後にガンがきれいになくなっていたということです.今も拝読を続けているそうです.そして,ガンの再発もないそうです.ガンの身上者がおられると,他からも声がかかり,「何もせんでいいからただたすかった話をしてこい」と言われ,自分がたすかった話を聞かせて回っているとのことでした.

この話には元の理以外にも,我が身はどうなれども抱えている家族だけはなんとかたすかってもらいたいという誠の人をたすける心があってのことでしょうし,きっと先生ご自身たくさんこれまでおたすけもされて,伏せ込みもされて,さらには先人のご遺徳から云々・・・というたくさんの要素があってのご守護だと思いますので,元の理だけを取り上げてそれだけのお陰とすることはできませんが,たすかった種の一つではあるように思われたので,うちの教会の信者さんや知人にもガンの身上者がいますので,その先生なら真っ先に聞かせるだろうと思ったものですから,私もさっそく知人にメールをし,信者さんには帰ったらその話をさせていただきました.そして,私自身も元の理の話を毎日拝読させていただいています.

また,海外布教を長くされた先生のお話では,やはり海外の人(特に貧困な国の方)にはおさづけがよくきくとのことでした.もちろん根が切れるわけではないので,じきにぶり返すこともあるみたいですが,医療など他に頼るものがなく,素直におさづけを受けるその心に神様が働いてくださるのだろうと思いました.恵まれている今の日本の人は簡単には信じないですからね.

他にも色々な話があり,本当に時間があっという間に過ぎてしまいました.夕方,詰所に戻ってからは大教会布教部主催のよふぼく講習会があり,それに参加させていただき,おつとめについての講話を聞いて練り合いをしました.翌日はおやさまお出まし前に東回廊の回廊ひのしきんをさせていただき,おやさまをお迎えして朝づとめをつとめて解散しました.帰りのバスもバス係でしたが,無事済みました.

念願の原典研究会に参加できてよかったです.また機会あれば参加したいと思います.

三日講習会II 

先日,2月9~11日にあいこが三日講習会Ⅱを受講させていただきました.修養科は修了しておりますが,長男の妊娠を機に三日講習会も中断していたので,育休であるこの機会に行かせていただいたのです.今回は当教会から信者さん1名も受講しました.ありがたいことです.

雪で天気が荒れるという予報もあり,急遽7日におぢばに発ちました.帰ってきたのは12日ですので長男はお母さんがいない中で6日間過ごしました.初めてですね,これほど長くお母さんがいなかったのは.次男の出産で入院したときも何回か面会には行っていたのでこんなに会わないということはありませんでした.「お母さんまだ?」と口にすることはありましたが,あと何回だよと話すだけで泣くことはなくとてもいい子でした.次男も離乳食は始まっていますが,母乳のみでミルクを全く飲まないので,3日間託児所に預けられるというのは試練でした.お母さんがプログラムの合間に授乳に戻るとしがみついて離さなかったようです.教会に帰ってすぐはお母さんが見えなくなるだけで泣いてましたから,よほどつらかったのでしょう.初めてですからね,長時間引き離されたのは.

あいこはあいこで託児をしながらの3日間はかなり大変だったようで,プログラムの時間くらいしかグループの人と交流する機会がなかったようですが,三日間楽しくお道の教理を学んできたとのことでした.班のメンバーとの出会いにも縁を感じたようであり,あいこにとってとてもよい体験だったということは私にとっても嬉しいです.とにかくスケジュールがぎっしりで忙しい三日講習会では,託児の人は車で次のプログラム会場まで送ってくれたり,風呂では体を洗っている間に子どもを託児係の人が抱っこしてくれて,子どもが出ると受け取って服を着替えさせてくれたりと受講者の負担を少しでも軽くするよう細やかな配慮がなされていたようです.親心だなぁと思います.3ヶ月ある修養科ではまず見られない待遇です.

また,不思議なことにあいこがおぢばに発った日よりここしばらく悩まされていた私の身上がスパッとおさまり,夫婦はやはりつながっているんだなぁと思いました.親子もそうだと思いますので,長男のアトピーの身上もすっきりご守護いただけるよう日々勇んでつとめさせていただきたいと思います.また,寒い中でしたが誰も体調を崩すことなく無事に済まさせていただき本当にありがたかったです.

そうそう,あいこに長男に次男と,皆それぞれの立場で頑張ってる中で一人だけ試練を迎えていなかった人がいると思った方おられるかもしれないですが,それが誰かは言わないでください...

あいこの妊娠 

昨年の9月18日,長男とあいこに以下のようなやりとりがありました.

「お母さんのおなかのなかに赤ちゃんいるよ」
分かるの?
「うん」
K(末弟の嫁)ちゃんのこと?
「Kちゃんのおなかのなかにも赤ちゃんいるよ」
男の子?女の子?
「おんなのこ」
お母さんのおなかのなかは?
「おとこのこ」
長男くんの弟ってこと?
「うん」


突然言い出した長男のこの言葉に私たち夫婦は期待を持ちました.確かに末弟の嫁さんは妊娠していたのです.子どもは不思議な力を持つとも言いますし,長男の言葉通り妊娠しているということはありえると思いました.その後,何日か経った後,検査薬で陽性となり,産婦人科で妊娠が分かりました.長男の予言が当たったことに驚きましたが,それ以上に待望の第二子が授かったということで会長をはじめ私たち家族は喜びました.まわりでは,長兄と末弟の嫁さんが同じく妊娠しており,その2人は同級生となることが分かっていました.予定日が5月21日でしたので,それに次いで同級生というわけにはいきませんでしたが,長男にとっても嬉しい初のきょうだいです.

まず子どもを授けてくださった親神様にお礼を申し上げ,同時にあいこの体質を考え,毎日のおさづけが始まりました.長男のときにはひどいつわりに切迫流産,切迫早産,28週での入院,そして36週での早産という身上をお与えいただいています.たいていの人は1人目同様2人目も切迫傾向になりやすいとも言います.意外と大丈夫なのではないかとの思いもありましたが,やはりこの機会に夫婦の心づくりを神様は咳き込んでおられるようで,病院では下がりやすい体質と胎盤周りの出血を指摘され,子宮頚管無力症との診断までもらって10月3日よりあいこは自宅安静生活となりました.まだまだ甘えたい年頃の長男もいるので,入院だけは避けたいということもあって,重たいものは持たず(もちろん13kgの長男もお母さんの抱っこはなし!),食事もよほど調子のいいとき以外は3食部屋に運ぶ生活となりました.じきに台所までも歩けなくなり,部屋からほとんど出ない生活になりましたけどね.今まであいこがやっていた分のかなりの部分を私が引き受けることとなったため,私もすごく忙しくなりましたし,会長や次弟にもたくさん協力してもらうことになったのです.

神様より見せられた身上の中で私たちが悟ったことはいくつかあります.悟りは神様が身上に知らせてくださる親心を個人が自らの心の成人につながるよう解釈するということが大事であると思いますので,思案の仕方は人それぞれと思います.私たちの理解の仕方が絶対正しいということはありえませんし,また間違っているということも分かりません.大事なことは「節より思案し今よりも成人させていただく」ということだと思います.

神様は私たちに分かりやすいように悟りやすいように知らせてくださるわけですから,まずは見せられた状況自体がその鍵となると私は思っています.長男のときも同じ悟りをしたように思いますが,時間が経つと忘れてしまうもの,忘れるとまた知らせてくださる.胎児が胎児にとっての家である子宮に必要な期間おさまっているべきなのがおさまっていられるかどうか分からないという不確実な状況は,まさに私たち夫婦がゆくゆく教会を預からせていただくための心づくり,器づくりの姿に現れているのかなと思いました.そこをしっかり押さえれば守っていただけるのではないかと.おやさまの仰る優しく素直な低い心に成人させていただくことはもちろんのことですが,会社勤めをしていようとも本分は教会の御用であり,中心に置くべき部分を見誤らないことが大事なのだろうと思わせていただきました.教会におさまる,それが胎児が子宮におさまることとリンクしているに違いないと思いました.それぞれの心がけとしては言葉でつなぐこと,間をつなぐことが肝要と夫婦で話し合いました.

妊娠初期より早産を防ぐために子宮口を結ぶ手術の提案が主治医からありましたが,胎盤付近の出血がなかなかおさまらず,手術の刺激がストレスとなって流産する可能性もあり,なかなか手術に踏み切ることができませんでした.また,子宮内にポリープが見つかり,投薬でやっつけたのですが,これも流産の可能性があるゆえ丁寧に診察をする過程で見つかったことですので,大難小難,どんなことにも親神様のご守護はあるのだと思いました.出血がおさまってからもリスクはゼロではないとのことでしたので,相談した結果,手術はせずに絶対安静生活を続ける選択をしました.ただ早産の可能性は高まるし,入院しなかったら奇跡くらいに思っておいた方がいいと言われました.

18週の診察で早くも性別が判明し,なんと第二子も男の子であるという報告がありました.近所の同級生は皆女の子ですので,年の近い男の子ができるのは父としても嬉しいです.私自身男5人兄弟で育っていますので,全部男でもいいと思っていたくらいです.

元旦に20週を迎え,おぢばの大祭に帰り,をびや許しをいただく予定でしたが,長男がノロウイルスにかかり行けなくなったので会長にお願いし,帰宅後,あいこはさっそく身持ちの御供をいただきました.あいこに感染ってはいけないと実家に帰したのですが,後日あいこも嘔吐が始まり,次の診察には40mmあるのが望ましい子宮頚管が35mmになってしまいました.25mmになったら入院と主治医からは宣告されているので2週間に一度の診察はいつもヒヤヒヤものです.それでもまた38mmに持ち直し,その後は徐々に下がってきて3月下旬の段階で28mmと残り3mmにまで迫りましたが,4月5日,33週と3日の診察で30mm弱とのことで,なんとか入院せずに教会で安静生活を送ることができています.

次回は4月19日ですが,ここまで持てばもう入院せずにいけるんじゃないかとの主治医の言葉もあり,親神様のご守護に感謝すると共に,やはり家族,実家の協力なくしてはできないことですので,周りの人にも本当に感謝しています.長男も10月より抱っこしてもらえない中,よく頑張っています.随分お父さん子にもなりましたが,やはりお母さんに勝るものはないようです.

予定日は5月21日ですが,長男もひと月近く早く生まれています.36週以上は迎えたいので,十分な大きさまでおなかの中でお育ていただき,然るべきときに無事生まれさせていただけるといいです.そのためにも,引き続き神様の方に心を向けて勇んで通らせていただきたいと思います.


長男の妊娠・出産に関してはこちらをお読みください.
長男の妊娠・出産(1)
長男の妊娠・出産(2)
長男の妊娠・出産(3)
長男の妊娠・出産(4)
長男の妊娠・出産(5)
長男の妊娠・出産(6)
長男の妊娠・出産(7)

長男の身上 

24日の朝は元気だったのですが,午前中に保育園から熱発と連絡があり,あいこと相談して私が帰ることになりました.(あと40分ほどで半日有休で済んだのですが,保育園からの要請でやむを得ず,1日有休となりました.)帰りの車でじきに寝てしまい,帰宅後も寝て3時間ほど昼寝をしました.3:40に39.1℃あったので区切りのいい4時に坐薬を入れようと思い,4時に体温をもう1度測ると38.5℃でした.一応38.5℃から解熱剤の坐薬を使っているのですが,38.5℃ちょうどだからもう少し様子を見ようと思い,使いませんでした.その後,しばらく熱は測らず,おんぶしたり,静かに遊んだりしていました.

夕づとめのときに,神殿で走り回っていたので元気になったのかなと思っていたのですが,おつとめが終わってじきに自分からごろんと横になり,ボーっとしていたので「どうした?疲れたか」と声をかけると,足がピクピク震えているではありませんか.「けいれんしてる!」と私が叫び,すぐさま皆がかけより,私はすぐ救急車を手配し,会長がおさづけを取次ぎ,あいこらが長男の様子をみました.電話口で必要な情報を伝えましたが,初めてのことで皆あたふたです.やはり子育てをしているだけあって会長が一番落ち着いていたかもしれません.聞けば私と次弟がけいれんを起こしたことがあったそうです.とにかく心配で仕方ありませんでした.じきに一度おさまって泣いたのですが,救急車の中でまたけいれんを起こしていて長男も苦しそうだったので,本当にかわいそうでした.脳にダメージが残らないかとか,熱性けいれんではなく,別の原因からくるものだったらどうしようとか色々心配しました.こんなときこそ神様に凭れて案じないようにしなくてはと思いましたがやはり心配は消えませんでした.

救急室に運ばれ,医師の診察を受ける頃にはおさまっていましたが,大泣きです.医師にどのくらいの時間けいれんを起こしていて,どういう状態だったかということを細かに聞かれましたが,こちらは必死でそれどころではありませんでしたので何となくしか答えられませんでした.坐薬をちゃんと使っておけばよかったとそればかりが悔やまれました.おそらくは走り回って熱がぐんと上がってしまったのだと思います.

医師の説明では熱性けいれんの場合は数分でおさまるし,2度けいれんが起きることはあまりないので,脳が膨らんでいるとか髄膜炎とか別の病因がある可能性があるから,原因を特定するために採血や検尿,頭部CT,髄膜炎の検査などをすると言われ,その日は入院と言われました.さらに焦ったことは言うまでもありません.あいこと相談するまでもなく,一人心定めを誓い,大難小難であることを願いましたが,あいこも同じことを願っていたようです.教会では会長と次弟がお願いづとめをしてくれていました.

その甲斐あってか検査の結果はすべて良好で何も異常はなく,診断は熱性けいれんとのことでした.した.ただ再びけいれんが起こるとも限らないので,熱が下がるまで点滴を受けて入院との処遇でしたので付き添いであいこも入院です.何でもなく済ませていただいたことを親神様に深く感謝しました.

25日は私も仕事を休みました.ちょうどあいこが他科を受診予定だったので午前中は長男をみていないといけないですし,入院の手続きやら必要なものを持ち込んだりなど色々ありました.何しろ長男は一人になると大泣きなので常に誰かがついていないといけません.午後から個室から大部屋(6人)に移るともうベッドの上くらいしかスペースがないので,狭い場所でストレスの溜まった長男は機嫌が悪くて世話が大変でしてた.小児科なので他の子も多少は声をあげますが,長男の声の大きいこと,大きいこと.夜は他の方の迷惑になるので,あいこはプレイルームをあけてもらってそこで寝かしつけたようです.それでも重い病気にかかることを思えばそれくらいで済ませてもらったのですから結構なことでした.

熱がとりあえず下がったので,26日の午前中に無事退院となりましたが,ダイアップというけいれん予防の坐薬が処方され,37.5℃以上になったら使うようにとのことでした.昨日に1度,今日に1度熱が37.5℃になったので一度ずつ使いました.さらに今晩38.5℃になったので解熱剤の坐薬も使いました.こまめに熱を測らないと心配なので,なかなか安心させてもらえませんが,それだけ子どもに見せてでも親神様が私たち夫婦に求めること,成人してほしいことがあるのでしょうから,そのことをよく思案して夫婦で心を定めて通らせていただきたいと思います.

長男再び40度 

今日は長男熱が下がらず託児所お休み。

午前中はあいこが、午後は私が休んだ。私は午前中お墓地清掃、あいこは午後はおふきん手洗い。

日中なのに38度→39度と上がりしまいには39.9度に。詰所で専修科生がインフルエンザにかかっているので感染の可能性もあり、夕方教養掛の先生に付き添ってもらい、憩いの家の救急受診。

私は詰所で夕づとめ。その後もう一人の教養掛の先生の案により修練はお願いづとめということになり、座りづとめ~12下りのおつとめをさせていただいた。「長男くんの高熱、在勤者3名と修養科生の体調不良、専修科生のインフルエンザなど詰所内で身上が多いので、代表で身上を受けてくれてると思い、我が事としてつとめさせていただきましょう」とのことだった。

何回か間違えたが一生懸命つとめさせていただいた。自分の息子のことばかり考えていたことを反省して皆の身上回復をお願いさせていただいた。

長男は幸いインフルエンザではなかったが、熱が高いので一応明日また小児科を受診してとのことであった。大難小難。ありがたい。案じず神様にもたれて通らせていただきたい。


一昨日些細な理由からこの修養科の通り方での親神様との心定めを破ったことを夜に思い出し、親神様の親心はすごいと思った。どこまでも私たち子どもを育てようと思ってくださっている。明日から心入れ替えつとめを果たしたい。

長男引き続き発熱 

昨晩と今朝は一時40度まであがった。座薬を入れると一時的に熱は下がるので笑顔も見られ、遊びだすが、切れるとまた熱があがるよう。心配なので昨日に続き再び憩いの家を受診。扁桃腺炎からくる発熱とのことだった。インフルエンザや肺炎などでなくてよかった。ありがたい。

扁桃腺と言えば私の風邪は大抵は扁桃腺炎によるものである。親の特性を引き継いだのか、あるいは父親の代わりに身上を引き受けてくれたのかわからないが、いずれにせよ15歳までは親の心より見せられると聞かせていただく。思い当たる節もあるので、しっかり心低く通らせていただきたい。

今日の第五食堂は2500余食、忙しすぎたがかえって楽しかった。

今朝会長も帰参し長男に会って嬉しそうだった。また、末弟の嫁も別席に帰参。4席目を運ばせていただいた。

感話 

今日は修練の代わりに感話大会があった。

3人の修養科生が交代で20分程度の話をした。言いたいことがなかなかうまく言えない。私は近いようで遠かった修養科から始まり、あいこの身上からの心定めや自分の通り方の気付きなどについて話した。

あいこの話はいろんな身上からお手引きをいただき、そのたびにご守護いただき、今回もこうして修養科に来させていただいた。というような話だった。

最後に教養の先生がいんねんよせて~という話と家族についての話があり、親孝行の大切さ、親の伏せ込みのおかげで今の自分たちの姿があるんだということを話された。

会長からも聞かされているが大切なことなので忘れないよう胸に抱き、子どもにもまた伝えていきたい。

3日目 

修養科はクラスでの自己紹介と少年会や福祉課からの説明。

託児所は昼休みは一度子どもを引き取りにいってから食堂へ夫婦で行くので結構時間的に余裕がない。授乳も必要だしベビーカーで泣くようだと抱いて食べないといけないんで時間がかかる。しかし子どもにとっては楽しい時間だしそれを見る親も楽しい。まだ慣れない託児所では泣いていることが多いようで別れるときは元気だが迎えに行くと大抵泣いている。

思うに修養科が最初の数日早く終わるスケジュールになっているのは託児や身上や高齢などの方は環境の変化に慣れるのに時間が必要だからだろう。詰所へ帰ってもひのきしんがあるがいくらかでも休憩時間が確保できるのはありがたい。

よふぼくの心得という冊子をもらったが、何で「つくし・運び」についての章に金銭を示唆するお供えについてしか書いてないんだろうと思った。おつくしについては過去記事参照。

月次祭 

昨日は年初めの月次祭でした.家族を含め17人の参拝がありました.(夜,さらに末弟とあいすけさんが参拝に来ました.)

座りづとめが終わった頃,参拝に来ていた80代のおばあさんが体調不良を訴え,救急車で運ばれるという事態がありました.一人暮らしのおばあさんですので,もし家にいたら取り返しのつかないことになったかもしれません.教会に参拝に来て人がたくさんいて,すぐにおさづけも取り次げる環境で,大難を小難にしていただいたのかなと思いました.ありがたかったです.

直会のときに皆で景品を持ち寄ってくじをしました.その他に昨年もやりました短冊状のおふでさきを1枚ずつひくというのをやりました.

どのよふなところの人がでゝきても みないんねんのものであるから(4号 54)

何か聞き覚えがあるなと思ってよくよく考えてみますと,なんと昨年と同じうたなのです.これにはびっくりしました.何十枚もある中で再び同じものをひくとはとても偶然とは思えません.よほど私にとって大切なことなのでしょう.親神様からありがたいメッセージをいただいた気がします.昨年私は「どんな人と出会っても,皆元のいんねんをもって生まれた親神様の子どもなわけですから,陽気ぐらしに結びつくよう私自身の心を遣わせていただくように」と解釈しました.別の意味で捉えると「自分の前に現れる人は皆自分と縁のある人なのだから,その人たちが明るく陽気にくらせるよう自分の力を惜しまず遣わせていただきなさい」ということ気もします.それが自分自身の人生がよいものになっていくことにつながるのでしょう.今年はそのことを心していきたいと思います.

あいこは

なにゝてもやまいいたみハさらになし 神のせきこみてびきなるそや(2号 7)

を引きました.ちょうど38度の熱がありながらおつとめに直会にとつとめてくれたあいこです.昨年も長男の妊娠・出産にあたって身上をいただいております.受け取る側の心次第ですが,身上を通して育てられることも事実,身上に対しての心構えを教えてくれているように思います.人それぞれ境遇や特性が違うように,皆親神様から与えられる役目も違います.神の用向きに使いたい人材を神様はあの手この手を使ってお手引きくださいます.その最たるものが身上や事情であり,見せていただいたものに含まれる親神様の思いを思案させていただくことによって,さらに神様が使いやすい人材へと成人していくことができるわけです.神様が使いやすい人材とは人が使いやすい人材―素直な人,頼みやすい人,気を遣わせない人,などなどたくさんあると思いますが,要は低い心で通らせていただくということだと思います.夫婦は二つ一つですから,私もあいこもこのことを胸に抱いて日々過ごさせていただきたいと思います.

一方,まだ教会に来て日の浅いあいすけさんは

このよふをはじめた神のゆう事に せんに一つもちがう事なし(1号 43)

を引きました.「この人間世界を始めた親神の教えに千に一つも間違いはないのだから,親神様を信じきって通るように」という神様の思いがあるのだと思いました.まずは分からずとも信じきることが大事だということを教えてくれているのでしょう.

その人にとって旬の大切な言葉を引くから本当に不思議です.

長男の妊娠・出産(7) 

関連記事になります.
長男の妊娠・出産(1)
長男の妊娠・出産(2)
長男の妊娠・出産(3)
長男の妊娠・出産(4)
長男の妊娠・出産(5)
長男の妊娠・出産(6)

長男の妊娠から出産に至るまでを振り返り綴ってきました.色々なことがありましたが,おやさまが言われた通り,無事安産のご守護をいただいたことは本当にありがたいことでした.初産にもかかわらず予想以上に早い出産にしていただき,退院して間もない体力の衰えたあいこにとってはとてもありがたかったです.助産師さんや医師の働きももちろんですが,何よりをびや許しと親神様のお働きのおかげと心から感謝しました.

結婚が始まりであったように出産も1つの始まりです.今度は神様から授かったわが子を育てるという大事な御用を受けたわけです.私たちだけでなく,息子にもよい巡り合わせがやってくるよう夫婦ともどもより一層勇ませていただきたいと思います.そもそも,このお道を信仰していて何故こんな苦しい思いをしなきゃいけないんだとか,神様は私たちを懲らしめているんじゃないかと思う方もいると思うんですが,そうじゃないんですよね.子どもかわいい親心からその人の立場や魂にふさわしい器作りのためにむしろ私たちを育ててくださっているんだと思わせていただきます.何もなければ人はなかなか成長しません.節から芽が出るということばがあるように,硬い節を乗り越えるからこそ新しい芽もでるわけです.私たち夫婦は教会というたすけの道場に住まわせていただいているので,今はまだあまりないけれどもこれから神様の不思議な働きや教えを人に話していかなきゃいけないこともある,そのときに自分たちに体験がなければ人に納得してもらうことができません.話の台と言われるように,今回の身上は後々話の上でも生きてくるかもしれないです.

他にも妊娠~出産を通して,私たち夫婦は親神様を今まで以上に身近に感じさせていただきましたし,育てていただきました.また親神様に親神を信じていれば絶対である,間違いないということを教えていただいたように思います.「不思議が神」というお言葉もありますように,私たちが見せられた不思議は紛れもなく,親神様のご守護であったと確信できます.もっとも不思議だけでなく,親神様のご守護は日夜休むことなく注がれていますが.私たち夫婦は形の上では親とならせていただきましたが,長男を育てることを通して,長男に育てられて親の心にならせていただけると思いますので,これからも子育てを楽しんで勇んで日々を過ごしていきたと思います.親への恩返し,親神様への恩返しのつもりでさせていただきたいです.

出産後もまた色々エピソードがありますが,今回は出産までとしてまた機会があったらお話したいと思います.ほんとすくすくと,いや驚異的な成長を見せていただき,出産時は2500gなかったのが7ヶ月を過ぎた今は8kgを超えています.いい顔で誰にでも笑いますし,本当に陽気ぐらしのために生まれてきたんだと思います.教会も子ども一人いるだけで明るくなりますので,本当に長男には感謝です.もちろん大変な妊娠生活をたんのうしお腹を痛めて産んでくれたあいこや協力してくださった皆さんにも本当に感謝です.

未だ意識戻らず 

11月30日にくも膜下出血を起こしたあいこの祖父ですが,未だに意識が戻りません.ICUに入ったままです.

毎日あいこや私がおさづけに通わせていただいてますが,こういう状態であるということは親神様にご守護いただいた状態が今の状態なのだろうと思っています.顔色はいいですし,しっかり自力呼吸もしています.目からは時折涙も流れますし,腕を曲げることもあります.体内には血液が循環し健康なときと少しも変わらない体温を保っています.痰が詰まって肺炎を起こしたり,再度脳梗塞を起こすなどの二次障害もなくお連れ通りいただいてます.何よりこの命をつないでいただいていることに感謝です.

数日前,このような祖父の姿にも意味があるんだと思うとあいこが言ってました.最近疎遠になっていたあいこの叔父が祖父の身上をきっかけに病院にも足を運ぶようになり,父や祖母とも話すようになりました.仕事を早く切り上げてお見舞いに来てその状況を実家に報告したり目の見えない祖母が心配しないように心を配ってくれています.「おじいちゃんはお役目があってこういう姿を親神様が与えてくださったのだと思うよ」というあいこの言葉になるほどと私は感心しました.出直してしまっては関係をつなぐことも恩を返していくことも難しいですものね.祖父は命をかけて家族をつないでくれているのだと思います.

状態が悪化しないというご守護いただいていることも事実,これから快方に向かい意識が戻るよう,しっかりと神様の御用としておさづけに通わせていただきたいと思います.

長男誕生! 

5月28日午後8時21分,まおとあいこに長男が誕生しました!
取り急ぎまおが経過を綴っておきます.後日あいこが時間ができたときにあいこ目線で綴ってくれると思います!!

26日の夕方退院し,27日はひなたぼっこをしたり,美容院にいったりしてのんびりと過ごしたようです.
28日朝におしるしがあり,陣痛が始まったと実家にいたあいこより報告を受けました.しかし,「初産だし時間がかかるだろうから仕事へ行って」と言うので私は仕事へ行くことになりました.出勤前にあいこの実家に寄っておさづけだけ取り次ぎ私は仕事へ行きました.

仕事ですが,患者さんと活動をしているときはいいですが,一人の時は全然落ち着きません.11時頃一度かかりつけの病院に診せに行きましたが,まだ子宮口が2cmしか開いてないからということで帰されました.夕方,5時頃痛みが強くなってきたので両家の母親で相談して再び病院に電話しましたが,「連れてきてもいいけどまだまだだと思いますよ」とのことでした.病院に着くと子宮口が3cm開いていましたので入院することになり,陣痛室に入りました.私も仕事終わってから駆けつけました.かなり痛そうでしたが,波がおさまるとけろっとしているのでまだまだなのかなという感じでした.早くても夜中すぎとのことでしたので,あいこの母に「長丁場だから一度帰ってまた来なさい」と言われ,会長を家に連れて帰り,夕づとめ,お願いづとめなど色々やってました.

すると,19時40分頃突然あいこの母から電話があり,「早まりそうだからすぐに来て」と言われました.慌てて準備をして病院に向かいました.病院に着くとすでにあいこは一人で分娩室に入っています.急いで白衣を着て私も分娩室に入りました.なんとか間に合ってよかった!危うく肝心なときにいなかった父親になるところでした.あいこは助産師さんの指示に従って踏ん張っていました.私はあいこの横に立ち,見守っていました.何ができるだろうと思いながら時折声をかけてました.をびや許しをいただいているから絶対大丈夫と思う反面,ひやひやしたのも事実です.あいこは神様に凭れきっていたようでした.途中で赤ちゃんの心音が弱くなり,あいこは酸素マスクをつけました.助産師さんに許可を得て私はおさづけを取次がせていただきました.いきんだ後にあいこは「痛いー!」と叫びます.私にできることと言えば,親神様にお願いすることと,あいこを励ますことくらいです.何回いきめばいいんだろう?と永遠とも思える時間が過ぎた後で,「生まれたよー」と言う助産師さんの声の後,小さな声で「オギャー」と泣く赤ちゃんの声が聞こえました.その声を聞いてあいこに「生まれたよ.よく頑張ったね」と声をかけた瞬間,もってかれました.涙・・・哀戦士,いや愛戦士でしょうか.頑張ったあいこへの感謝とご守護くださった親神様への感謝,赤ちゃんが生まれてきたことの感動など色々なきもちがありました.とにかく嬉しかった!感動した!

看護師さんが赤ちゃんの体を拭いて諸々のチェックを受けている間にあいこは産後の処置です.それも痛みを伴ったようです.そして,赤ちゃんの体重を測ると・・・2462g!46.5cm.推定より小さい!2600~2800くらいはあると思ってました.少し心配になりましたが体の機能は問題ないとのことでNICUに入ることはありませんでした.ありがたかったです.1時間ほど待った後,私は分娩室に呼ばれ,あいこの横に新生児用の服と帽子に包まれた息子がやってくるのを見届けました.小さいですが,確かに自己呼吸をして生きています.8時21分に自己呼吸を開始して以来,その体を親神様にお返しするまで休むことなくこの呼吸が続くということが奇跡的に思えました.その後,お互いの親と次弟も顔を見ました.当日は新生児室で子どもは預かるということで,あいこは別室に入り,私たちも帰りました.

ここに到るまで色々なことがありましたが,おやさまが言われた通り,無事安産のご守護をいただきました.初産にもかかわらず予想以上に早い出産にしていただき,退院して間もない体力の衰えたあいこにとってはとてもありがたかったです.助産師さんや医師の働きももちろんですが,何よりをびや許しと親神様のお働きのおかげと心から感謝しました.これで終わりではなく,むしろ新たな始まりです.これからは息子にもよい巡り合わせがやってくるよう夫婦ともども勇ませていただきたいと思います.今までご心配くださった方,お願いしてくださった方,本当にありがとうございました.息子は元気に生かされています.これから出産に向かう方,是非をびや許しをいただいてください.信じていれば必ず安産のご守護がいただけると思います.

未読の方は以下もお読みください.
あいこの1ヶ月~身上より育てられる(1)
あいこの1ヶ月~身上より育てられる(2)
子どもの姿より気付かされる
いつ生まれてもOK
あいこ無事退院

あいこ無事退院 

未読の方は以下をお読みください.
あいこの1ヶ月~身上より育てられる(1)
あいこの1ヶ月~身上より育てられる(2)
子どもの姿より気付かされる
いつ生まれてもOK

本日,あいこが無事退院しました!

午前中に点滴を外して様子を見て,何回かはお腹が張るものの産まれる気配はなかったため,予定通り退院となりました.3時過ぎと行ってたので次弟と病院に行きましたが,主治医がなかなか来なくて結局1時間以上待ちました.その間にあいこは病院で知り合った人に挨拶回りに行っていたようです.

ちょうど8週間動いてなかったのとお腹が重いのとで,歩くスピードは遅いのなんの.手すりがあるところでは手すりに掴まりながら移動してました.主治医との話も終わって病棟を出るとまずは祖父のお見舞いです.部屋が遠かったため,休み休み移動してました.途中でトイレから戻ってきた祖父と会ったので,部屋まで行かずにそこで少し話して満足したようです.私だけ部屋まで行っておさづけをさせてもらいました.

病院の外に出るときは「シャバだシャバ」と言ってニコニコ顔で本当に嬉しそうでした.帰りの車でまず何をしたいか訊きますと「入院の準備」と言います.思わず笑ってしまいました.退院したばかりで次の入院のことを考えているあいこ・・・しかし,いつ陣痛が来るか分かりませんので,自覚をしっかり持っているということでもあるのでしょう.また,出産準備セットを作りかけで入院しまっているのでやりかけ感があったに違いありません.家に帰ってお礼づとめをしておやつを食べた後,入院の準備をしていました.この頃にはもう足が痛くなっていて一人で立ち上がるのがきつく,私が手を貸していました.2ヶ月間ほぼ足腰を使っていないのですから無理もありません.夕づとめ後,あいこの実家に送っていき,私と次弟も一緒に夕食をいただいて,あいこを預けて帰ってきました.あいこは30日か31日に教会に戻ってくる予定です.

後は普通の妊婦と同じような生活をして赤ちゃんが出てこようとするのを待つばかりです.無事に2ヶ月間お連れ通りいただきまして本当にありがたかったです.神様に感謝です.

いつ産まれてもOK! 

未読の方は以下をお読みください.
あいこの1ヶ月~身上より育てられる(1)
あいこの1ヶ月~身上より育てられる(2)
子どもの姿より気付かされる

あいこは明日退院のため,今日は夕方からエコーをやるとのことでした.
主治医の手術が終わってからということだったのですが,結局かなりずれ込んで7時前くらいになりました.
幸運なことにここまでずれ込むと私はもうお見舞いに行っている時間です.私も一緒にみることができました.
今回は外来の機器を使ったので,3/31以来,実に約2ヶ月ぶりにあいこは病棟から出たのでした.嬉しそうでした.2ヶ月間トイレと冷蔵庫とベッドだけでしたからね.たまのシャワーで病棟入口付近まで行けましたが出たことはありませんでした.

前回のエコーでは,推定2kgだが頭が大きく,そのわりに体が小さいことが指摘されていましたので,どのくらい育ったかドキドキものでした.あいこは毎回見ていますが私は3度目です.エコーでみると心臓や胃腸もすっかりできていて,顔のあたりを見せてもらうと瞬きをしながら口をモゴモゴさせています.ちょうど口元あたりに手がありました.昔はほぼ全身が映ったのに,今は体の一部しかうつりません.大きくなったものです.

先生が「体も十分育ってますね~」と言います.2630gだそうです.2週間で600gも増えました!!
気になる頭の大きさを訊いてみると「9cmだから大丈夫,大丈夫,出てこれる」とのことです.
そして「もういつ産まれても大丈夫です.でも私の予想だと明日は産まれないと思うんだよね」と.
あいこが「子宮頚管が3.4cmだったからですか?」と訊くと「そうそう」と.なんと今日は子宮頚管が3.4cmだったのです.明日の朝9時に点滴を切って,陣痛がくればそのまま産む,来なければ3時以降に退院ということです.また,退院後は「好きなもの食べて好きなだけお風呂に入って動いていいよ」ということでした.

本当によく頑張りました.あいこに感謝です.また,協力してくれた家族,あいこの実家,お見舞いにきてくださった方,陰でお願いしてくださった皆様,そしてここまでご守護くださり育ててくださった親神様に大感謝です.いつ産まれるかは分かりませんが,明日からも夫婦共に勇んで過ごさせていただきたいと思います.きっといいときに産まれさせていただけるでしょう.

ちなみに,祖父の手術は無事成功しました.良性のポリープだったということです.寝ていたのでそっとおさづけを取次がせていただきました...祖父は1週間ほど入院とのことです.

子どもの姿より気付かされる 

夕方,あいこからメールがありました.

件名:まおーっ!
本文:大変です!今、呼ばれて診察してもらったのね。そしたら、子宮けいかんは2.7cmだったからまぁまぁなんだけど…
その後エコーやってくれたの。そしたら頭大きいって。すでに8.5cmあってまだまだ大きくなるみたい。体重は2キロ。
頭が大きいから産むの大変そうだわ。赤ちゃんも産まれるのに頑張らないといけないみたい。

体重はいいかんじみたい☆順調だよ
それに100%男の子だと言われた(笑)
それより頭に比べて、体が若干小さいみたいだから体が育つといいんだけど…脳みそつまってるならいいけど、ただただ頭が大きかったらどうしよう(笑)


あ,ずっと書きそびれてましたが,実は急に子宮頚管が短くなった4/20に性別も分かったんです.ほぼ男の子ということでした.お腹がずっと前方に突き出ていたことと胎内での動きがあまりに活発で看護師泣かせであることから,きっと男の子だとは思っていましたが予想通りでした.しかし,十中八九ということでしたので,産まれてきたら実は女の子だったという可能性もあったのですが,今日のエコーで100%男の子と確定しました.あいこがもらったエコーの写真におちんちんがうつってました.万歳!

赤ちゃんが2kgと順調に育っていることは大変ありがたいことです.しかし,頭が大きいということ,加えて頭に比べて体が小さいというのが私はひっかかりました.今わが子の発育途上においてこういう姿を見せる親神様の思惑は何だろうと考えたとき,ふっとある考えが浮かんだのです.

もし頭が大きくなりすぎて産道や子宮口を通らないということになると帝王切開ということになります.それは赤子が「本来通るべき道を通れない」ということであります.また,「頭に比べて体が小さい」ということは「頭を支える体が育っていない,実働する部分が育っていない」ということであります.これは完全に私自身の悟りですが,『教理ばかりを頭に描いて頭でっかちになると,親神が望む本来の道を通れなくなるから気を付けなさいよ』ということを知らしてくださっているのではないかと思ったのです.あれこれと理屈を考える前にとにかく人のためにこの身体を使うようにというメッセージかもしれないと.

自分自身に現れてくることや決断すべきことに対して神意を思案させていただくことは,神一条を目指すためには必要なことです.ですから,自分自身については思案していいのだと思います.しかしながら,考えるばかりで行動が伴わなくては意味がありません.また,おやさまの教えてくださった道は自分自身の通り方のよすがとはなれど,他人をはかるものさしとすべきではありません.教理を学び深めることは自分自身のためであり,他者を評価したり,良し悪しを見定めるためではないのですが,ともすれば口には出さないまでも他者の行いや心遣いを見定めるようなことにもなりかねません.もちろん理に沿わぬことは言うべき時に言うことは大切でしょうが,普段からそのような視点で人を見てしまってはそれは高慢というものですし,大変な不足,ほこりになるでしょう.今更述べるまでもないことでしょうが,頭は自分に使えばいいわけで,他人に対しては頭を使うよりも体を使ってとにかく動く,尽くすことが大切なのでしょう.大変情けない恥ずかしい話ですが,ここ最近の私自身の他者の見方を振り返ると,頭でっかちなところがあったのではと思い当たる節があり,親神様が大切な赤ちゃんに印をつけて教えてくださったのではないでしょうか.しかも,それが「100%男の子」ということですから,夫婦で心を合わせてそのことを共有しておくことは大事ですが,私に対してのメッセージなのだと思います.本当に情けないです.

会長にも話して,そうかもしれないねということになりました.親神様の親心は深いです.これからは心を入れ替えて,人のためには阿呆になって体を使っていきたいと思います.私が理屈抜きに体を使うほど,お腹の赤ちゃんの体はぐんぐん成長し,頭は産道を通るくらいにおさめていただけるのかもしれません.とにかく大切なことに気づかせていただきました.ありがたいです.


関連記事になります.
あいこの1ヶ月~身上より育てられる(1)
あいこの1ヶ月~身上より育てられる(2)

あいこの1ヶ月~身上より育てられる(2) 

未読の方は以下をお読みください
あいこの1ヶ月~身上より育てられる(1)

そして,答えの見つからぬまま翌22日を迎え・・・あいこからメールがあり,あいこ自ら「修養科を定めようかな.この子連れて本当に行こうかな」と言うのです.「先案じをやめて神様に凭れて定めようかな」と.誰に言われたわけでもなく,あいこが自らその答えに行き着いたことに私は感動しました.この道は人に言われて通る道ではなく,自ら悟る道であると私は思います.信仰に期間は関係ありませんが,この間までごく一般の家庭で育っていたあいこが自らそこに辿り着いたことは私だけでなく親神様もお喜びだったはずです.あいこはすでに産後1年の育児休暇を申請してますので,職場復帰から3ヶ月遡った月に修養科に入ることを定めました.夫婦揃って修養科に入れればなお良しと思った私は,行けるようなら自分も育児休暇をとって行かせてもらいたいと思いました.ただ制度として育児休暇が夫婦共に取れるかどうか分かりませんし,とれるにしろ3ヶ月も休みがもらえるのかどうかも分からなかったので,とりあえず確認してみて可能なようなら一緒に行かせていただくことを定めました.(弱いですがさすがに解雇になるとまずいので.)また,教会に一緒に住む次弟と末弟もそれぞれある心定めを自らしてくれました.

そして,翌23日,奇跡は起きました.不思議なことに子宮頚管の長さが3cmに戻り,主治医もあいこもびっくりです.シャワーの許可も出てあいこは身体を清めました.身体以上に心はもっと清められたことでしょう.ああ,親神様は心通りに必ず働いてくださると思いました.願い通りではなく心通りのご守護なのだということを改めて実感しました.
あいこの身上を通して,私たち夫婦は親神様を今まで以上に身近に感じさせていただいてますし,育てていただいてます.また親神様に親神を信じていれば絶対である,間違いないということを教えていただいているように思います.今日4/30現在,あいこは妊娠33週目に入り,安静にそして元気に陽気に過ごさせていただいてます.毎日が感謝の日々です.

この1ヶ月たくさんの不思議を見せていただきました.「不思議が神」というお言葉もありますように,私たちが見せられた不思議は紛れもなく,親神様のご守護であったと確信できます.もっとも不思議だけでなく,親神様のご守護は日夜休むことなく注がれていますが.

リ・ラックマンさんのブログ「天理教教祖中山みきの口伝等紹介」に神の姿としておやさまの以下の言葉が紹介されています.

『在ると言えばある、無いと言えばない。願う心の誠から、見える”りやく”が神の姿やで』
「正文遺韻抄」諸井政一著(道友社発行)138ページより


神様のご守護とは”ある”と気付くもの,信じるものなのでしょう.ないと思ってしまえばそれまでですが,あると信じられたとき,そこに生まれる感謝と勇み心は人生をより豊かなものにするでしょうし,その心に一層親神様も勇んでお働きくださることでしょう.

出産予定日は6/23です.休むことなく親神様の十全のご守護が働いているおかげで子どもは元気に育っています.日々をふとのべのみことの引き出しのご守護によりぐんぐん大きくなっていくことでしょう.どうか1日でも長く子どもが胎内におさまってくれますように,いいときに生まれさせていただけますように.引き続き,夫婦ともどもこの心と身体を親神様の望まれるよう使わせていただきたいと思います.本当に日々ありがたい気持ちでいっぱいです.



余談ですが,おぢばを発つ前に詰所ひのきしんの伏せ込み分であいこの向かいの切迫早産の人をおたすけくださいとお願いしたところ,その方,食べ物もあまり通らなかったのが目に見えてよくなり,今現在かなり元気に過ごしています.その方が危機的状況の時におさづけも一度だけさせていただきましたが,強要してもいけませんのでそれっきりです.御供さんは食べてくれているようです.尽くした分は必ず親神様が働いてくださるということも今回のことで教えていただきました.子どもの分は教会に帰ってまた伏せ込みますとも言ったので,よく考えるとこれも心通りですね.親神様は私の言葉が真実になるようあいこにしるしをつけてくださったのかもしれません.

あいこの1ヶ月~身上より育てられる(1) 

あいこが入院して1ヶ月が経過しました.
この1月の経過を書きたいと思います.

3/31の検診で28週目にもかかわらず子宮頚管が2.3cmと短く即日入院になったことはすでに過去記事「あいこ入院」で触れています.4/6の「あいこ入浴」を後にあいこについての記事は書いていません.書きたかったのですが,色々ありまして短時間でまとめることが難しかったのでずっと先送りになっていました.

あいこが入院して以来,とにかく毎日おさづけに通わせていただきました.前半はちょうど信者さんも入院してましたので会長も毎日通いました.入院する事態になっても母子共に元気に過ごさせていただき,赤ちゃんも順調に育つご守護をいただいていることは本当にありがたいことでした.定期的に診察があり,子宮頚管の長さを測るのですが,おさづけと張り止めの点滴,そしてあいこ自身の安静の努力のおかげか,私がおぢば帰りをする前日の16日には子宮頚管が3.4cmになり,主治医の先生も驚いて「翌週より点滴を減らし,うまくいけば内服に切り替え,子宮頚管の長さを保てれば退院」とのことでした.

親神様に感謝しつつ翌17日の夜行バスで私はおぢばへ向かい3日間詰所ひのきしんをさせていただきました.しかし,20日に終了して教会に戻る途中で,これまで順調だったあいこの子宮頚管が急に2cmになってしまいました.主治医もあいこもショックを受けたようです.私もびっくりしました.駅に着くとそのまま病院に向かい,おさづけを取次がせていただき,親神様のどんな思いがあってのことだろうと思案し,私はおぢばでのひのきしんの最中に思ったある心定めをさせていただきました.あいこは十分赤ちゃんのために勇んでつとめていましたので,これは私自身に対するお仕込みだと思ったのです.

しかし,会長と話をしておつとめに

このよのぢとてんとをかたどりて ふうふをこしらへきたるでな これハこのよのはじめだし (みかぐらうた第二節)
ふたりのこころををさめいよ なにかのことをもあらはれる (みかぐらうた四下り目)

とありますように,親神様の人間創造の思いを考えると私一人のことではなく,やはり夫婦共に心をそろえての定めが必要なのではないかという話になり,赤ちゃんにとっての家は子宮,私たち夫婦にとっての家は教会,赤ちゃんが十分に成長するまで子宮におさまるよう,私たち夫婦も教会におさまるよう心を定める必要があるのではと思い直しました.私たち夫婦は共に勤めに出ていますので,神様の御用,教会の御用を十分にできているかと言えば決してそうではありません.この先,教会を預からせていただく上での心を定めるようせき込まれているのではないかと思わせていただき,翌21日に面会に行った際にあいこにそのことを話し,夫婦で心を定めました.

ところが,その晩,わずか50分の間にお腹が9回も張るという陣痛レベルの張りがあり,私もあいこもびっくりしました.主治医の先生もびっくりです.すぐに会長とお願いづとめをさせていただき,一体何のせき込みだろうと考えました.会長は「神様の思いと当事者の心が一致したならご守護いただけるはずだからまだ何か神様の思いがあるんだよ」と言います.何だろうと考えました.以前にちらっと夫婦で会話していた修養科のことかな?とか思ったりもしました.

(続きは後日…)

続きは以下をお読みください
あいこの1ヶ月~身上より育てられる(2)

おつくしの意味(2) 

未読の方は以下をお読みください.
おつくしの意味(1)

前回,おつくし=金品ではないという話をしました.

逸話篇においても,おやさまはご恩返しの手段としては金品よりも人だすけをさせていただくことの重要性を説かれています.ここでいうご恩返しとは真実の心を尽くすということでしょうから,おつくしと同義として捉えて差し支えないと思われます.

「金や物でないで.救けてもらい嬉しいと思うなら,その喜びで,救けてほしいと願う人を救けに行く事が,一番の御恩返しやから,しっかりおたすけするように.」(72 救かる身やもの)


しかし,一方で逸話篇にあるように,おやさまは「金銭は二の切り」とも教えられ,大難小難の理とし金銭を惜しまず施すことの重要性を説かれています.欲を離れて各人の真実の心でもって「おつくし」の手段として金品のお供えをさせていただくことも大事なことなのでしょう.

「命あっての物種と言うてある.身上がもとや.金銭は二の切りや.今,火事やと言うたら,出せるだけは出しもしようが,身上の焼けるのも構わず出す人は,ありゃせん.大水やと言うても,その通り.盗人が入っても,命が大事やから,惜しいと思う金でも,皆出してやりますやろ.
悩むところも,同じ事や.早く,二の切りを惜しまずに施しして,身上を救からにゃならん.それに,惜しい心が強いというは,ちょうど,焼け死ぬのもいとわず,金を出しているようなものや.惜しいと思う金銭・宝残りて,身を捨てる.これ,心通りやろ.そこで,二の切りを以て身の難救かったら,これが,大難小難という理やで.よう聞き分けよ.」(178 身上がもとや)


これまでの話を整理するに,「おつくし」とは先述したように人のために真実の心を尽くすことであり,その手段としての尽くし方は様々であります.殊,身上・事情のたすけの願いに関しては二の切としての金銭の施しは大難小難の理という重要な意味を持つと同時に,親神様の望まれる人だすけ―人のために心を尽くすことが大切であります.一方,親神様への「報恩感謝」に対しては金銭よりもむしろ人だすけ―人のために心を尽くすことが大切であると言えるでしょう.そして,願いであっても感謝であっても人のために心を尽くすことが大切という点は共通していますし,そもそもこの教えは感謝ありき,常に注がれている親神様のご守護に感謝するところから始まりますから,たすけを願う場合であっても,まず現状与わっているご守護に感謝を捧げることが先行します.その上での願いです.つまり,願いには自ずと感謝が含まれてくるのです.このように考えると,二の切の金銭のおつくしも大切でしょうが,それ以上に,金銭に限らず人のために心を尽くすことが最も大切であるということが理解できると思います.

繰り返しになりますが「おつくし」とは人のために真実の心を尽くすことであります.その肝心要は心のあり用です.心ゆえ無形であります.親神様がちゃんと見ていて,天の帳面につけてありますからおつくしの形にこだわる必要はないのだと思います.この道は教えを聞くことで心が勇めないといかんです.人によって立場・状況は変わりますから,その人が勇めるよう「おつくし」の意味を伝えたいものです.

この道を伝える者が「おつくし」の意味を勘違いしてしまうと,せっかくの素晴らしい教えが世間から誤解される恐れがあります.おやさまの教えは間違いのないものであるだけに,そうした誤解が起こらないよう私たち教えを継ぎ伝える者は神意を人間思案からではなく,神一条に思案する必要があると思います.どうあれば親神様・おやさまはお喜びになるか,その元は神意が説かれている「みかぐらうた」「おふでさき」「おさしづ」の三原典に発します.加えて天理教教祖伝や逸話篇を親神様・おやさまの思いを知るのに参照することは大切でしょう.人が言ったことをそのまま鵜呑みにするだけでなく,それが神意に沿うかどうかを常に考える姿勢を持つことが大切だと思いました.(切に感じながらも私自身も勉強が足りませんのでこれは自分に対する戒めでもあります.)もっとも,それを経ても我が身かわいさから人間思案が混じるのが人間ですから,互いに談じ合い,神意を求めていくことが大切なのだと思います.

おさしづに以下の一節があります.

「互い/\知らし合い,互い/\の研究諭し合い道という」(明治24.11.25)


青年求道者講習会の講義録とのことですので,私を含めてこれから道を求めていく人たちがこの講義録を読んで何かを学ぶ際に,親神様の思いに沿わない間違った解釈をしてしまっては申し訳ありませんので,至らないながら私の考えるところで述べさせていただきました.これは今の私が考えるところでありますが,今後原典を知るにしたがって変わっていく可能性もあります.これが正しいかどうかはおやさまの道すがら,原典で繰り返し述べられているをやの思いと照らし合わせれて判断していただければと思います.

おつくしの意味(1) 

「教会と信仰」と題して,第54回青年求道者講習会の講義録があらきとうりょう238号に載っていました.気になる点があったので若干引用します.

やはり,おつくしをしなければ,たすけていただくことはできません.これは理屈ではありません.おつくしを一生懸命することで,神様の御恩も分かってくるのです.
(中略)
「おつくしは,嘘偽りのない真実や」と.身上などのふしに際して,私たちはよく,「これからは絶対不足しません」「これからは主人を立てます」「低い優しい心で通ります」「低い優しい心で通ります」などと心を定めます.しかし,こうした心定めは,神様に約束手形を出したようなもので,往々にして不渡りになります.ところが,おつくしはいくら惜しみの心があっても,形のあるものを出しますから,うそではありません.ふしに際しては,まずおつくしをすることです.おつくしをすることで,理立てとなり,自分が定めた心定めも実行できるようになっていくのです.
(中略)
おつくしをしてもらわなかったら,徳を積んでいただけませんし,信仰も切れてしまいます.


ここで言うおつくしとは「形のあるもの」と書いてますので,文脈的に所謂お供え(つまり物や金)のことを指しているのだろうと最初読んだ感じでは思いましたが,そう解釈すると親神様・おやさまの思いとは異なると思いますので,そう限定して捉えない方が親神様の思いに沿うでしょうし,理に適っていると思います.私の第一印象同様間違って理解する人がいるといけないので思うところを綴ります.

おつくしの本来の意味は「真実の心」を尽くすことであると思います.親神様への日々の感謝を込めて,また,たすけてもらいたい一心から,互いに仲良くたすけあう姿を見たいという親神様の思いに適うよう「人のために」「真実の心」を尽くすことがおつくしであり,その手段として金銭や物,時間,労働力などがあるわけです.それぞれの立場・状況が違うように,手段にもできるものとできないものがあり,尽くし方もそれぞれ異なるわけで,おつくしとは必ずしも金品のことを指すのではありません.大事なのは当事者が心を尽くして自分の精一杯のことをさせていただくことであります.惜しんでするようでは神様は喜ばれません.真実の心を親神様は何よりも喜ばれます.それは以下のおさしづからもうかがえます.

さあ頼もしい/\心供えば受け取る/\。泣く/\するようでは神が受け取れん。百万の物持って来るよりも、一厘の心受け取る。(明治35.7.20)


そして,尽くした分は受け取り働いてくださいます.逸話篇においても繰り返し「神の方には倍の力」ということで教えてくださっていますし,同様逸話篇に以下のお言葉もあります.

「そっちで力をゆるめたら,神も力をゆるめる.そっちで力を入れたら,神も力を入れるのやで.この事は,今だけの事やない程に.」(174 そっちで力をゆるめたら)


ここで比喩的におやさまが伝えていることは先述した人のために力・心を尽くすということでしょう.尽くした分は神様も力を入れて働いてくださるのですから,各人の置かれた立場・状況から精一杯のおつくしとして人のために心を尽くすことは大事です.ですから,おつくし=真実の心を尽くすことであり,おつくし=金品ではありませんし,そのような伝え方をしてはいけないと私は思います.


続きは以下をお読みください.
おつくしの意味(2)

近況 

なんだか長いこと体調不良が続いていましたが,ようやく落ち着いてきました.鼻水だけはまだ出ますが,喉の痛みなどはなくなりました.今週は三日講習Ⅲがありますので,なんとかそれまでに体調を万全に整えないといけません.

昨日は信者さん宅に天理時報を届けにいきまして,お茶に呼ばれて2時間も談話してしまいました.70代のご夫婦で奥さんの方は身上から刻を経て今はご夫婦で月次祭に参拝に来られます.普段は玄関先でご挨拶するだけですが,こうして色々お話をうかがうと相手のことがよく分かるなぁと改めて思いました.

夕方からはあいすけさんが来まして,夕づとめをつとめていきました.第2節はまだ覚えられないみたいですが,1節と3節は覚えたようで,よろづよ八首のちゃんぽんももうマスターしていました.

充実した休日でした.

大晦日~元旦 

大晦日も教会は慌ただしくしていました.
買い物にトイレ掃除,正月料理作り,元旦のお供え物の調餞などなど.夕方には入浴して身体を清めて会長とお社内のお掃除をさせていただきました.

夕づとめ後はのんびりタイムです.今年は4人と過去最高に少ない家族での年越しです.紅白を見ながら過ごしました.11時過ぎるとかなり眠かったですが,0時の開扉,献餞を終えないと寝れませんのでぐっと辛抱です.0時になると開扉,献餞をさせていただき,新年の挨拶をして就寝となりました.

昨年一年,特に大きな身上・事情もなく家族一同結構に通らせていただきまして本当にありがたかったです.
今年もよい一年になるといいです.まぁおやさまは「皆,吉い日やで」と教えてくださっているので,よい一年なんでしょうけどね.

当ブログも6年目になります.今年もどうぞよろしくお願いいたします.

お道と臨床と(4) 

今夏の道の心理臨床家の集いを迎えるにあたって考えていたお道と心理臨床について,今の自分が考えることを綴ります.だめの教えと対人援助の学問ですから,そもそも異なるのですが,互いに活用できる部分もあると思います.今回は異同について書いてみたいと思います.また,これは今の私自身が考えることで今後いかようにも変わってくるものでもあります.

まず,重なる点を2点先に挙げておきます.1つ目は人の援助に活かせるということ.2つ目は自分が上手く生きるために活かせるものであるということです.しかし,世の中の道理・真理を説いているのがお道の教えであり,一方,心理臨床学は人間の心を研究する一学問でありますが,つきつめればこの世界に見せていただいているものはすべて親神様からのかりものと考えられますので,お道の教えの実践に生かすために親神様のお与えくださったものという点ではそもそも区別されます.

続いて,異なる点を挙げていきますと今思いつく限りは4点ほどあると思います.1つ目は基本的枠組み,2つ目はモデル,3つ目はライフサイクル,4つ目は援助などのあり方です.

お道は全人類の陽気ぐらしによる救済を目的としていて,自分自分が対象ではなく基本はすべての人々であり,すべての人が仲良く陽気にくらすために自分がどうあるかという「全ありての個」という捉え方があります.その一方で,心理臨床の理論は基本的には個についてを扱っていることが多く,個が適応するために全との関係を扱うことはありますが,あくまでも個が充実するための全であり,これが全が充実するための個というお道とベクトルがまったく異なる点ではないかと思います.つまり,お道は皆の陽気ぐらし実現のために個々が存在しているというのが基本的な枠組みであり,心理臨床は個の自己実現のために全との関係をどのように生かしていくかというのが基本的な枠組みであるように思います.

個のあり方についても決定的な違いがあり,お道には陽気ぐらしの雛型としてのおやさま50年の道すがらが示されていて,個が何を目指せばいいのかの道がはっきりと共通のモデルとして示されています.それに対して,心理臨床にはこうした雛型はなく,個が自己実現のために必要に応じてモデルを探していくということがあるように思います.人間の真にあるべき姿,陽気ぐらしを導く心のあり方が雛型がない分,心理臨床は自由度は高いと言えるかもしれませんが,親神様が望まれる生き方にたどり着くのは容易ではありません.

また,お道は天然自然の理の教えであり,出直しの教理をはじめとした,一代に限らない命の連鎖を説いているため,ライフサイクルは一代で完結するわけではありません.個は先祖代々続く命の連鎖,自身の生まれ変わり出変わりの魂の連鎖の中に位置づけられ,人生の何時でも次の人生,次の世代へつないでいくというライフサイクル論から生への強い動機付けを得ることができます.一方,心理臨床一般の理論はこうした概念がなく,ライフサイクルとして1人1人の人生を対象とします.個は必ずしも連鎖の中で存在するわけではありません.この点が異なります.

援助に対しても,お道のおたすけの目指すところは心だすけ(身上・事情だすけも含む),長期的には信仰によって身上・事情の根を切るということが目的としてあるかと思います.当面の問題が解決してもいのちの切り替えのために丹精し,関わり続けることになります.したがって,お道の教理は当事者の人生に大きな影響を及ぼします.一方,心理臨床は目指すところは主訴の解決(適応の改善,症状の緩和・改善など)であり,長期的にはパーソナリティの変容などの課題に取り組むこともありますが,職業的役割関係の中での援助であるため,主訴が解決すれば一般に関係は終わりになります.人生における一時的な関わりとなりますが,やはり大きな影響力を持つとは思います.しかし,当事者の主訴の解決は必ずしも親神様の思いに沿うわけではないという点があります.天の理に明らかに沿っていないと思われてもそれが本人にとっての解決であるならそれでよしとする,ある意味それが職業的役割関係の限界なのかもしれませんが.

もっとたくさんあるのでしょう.ざっと書きましたが,以上がお道と心理臨床の異同について今の私が考えるところです.どちらの経験も未熟ながら最近思うことがあります.それは,心理臨床でも何でも援助によって人の適応や問題は解決したり,上手に生きられたりするようにはなるが,元にあるいんねんの根,身上・事情の根を切ることは天の理に沿ってこの心と身体を使わせていただき,おつとめによる命の切り替えをしていくことによってしかなし得ないのではないかということです.(もっともこれは私が本当に未熟がゆえになしえないのかもしれませんが.)

なぜなら,ここもまた未熟さ全開なのですが,おやさまがおつとめで命の切り替えをしていくということを教えてくださったからです.おふでさきには

このつとめなんの事やとをもている よろづたすけのもよふばかりを(02.009)
とのよふなむつかしくなるやまいでも つとめ一ぢよてみなたすかるで(10.020)
このみちがたしかみゑたる事ならば やまいのねゑわきれてしまうで(04.094)
しやんせよやまいとゆうてさらになし 神のみちをせいけんなるぞや(03.138)

など,おつとめややまいについて色々な言及があり,おつとめをしっかりつとめ,親神様の思いに沿ってこの道を通るならば,どんな病でもたすかり,病の根は切れると教えてくださっています.そもそもこの病さえ,親神様が皆が陽気に通るための道を教えてくださっているお手紙なのですから,元の親である親神様の示される通り通らせていただけば根が切れるのも了解できます.親神様は人間が憎くて身上・事情をくださるのではありませんからね.子どもかわいい親心からなんとか互いにたすけ合える心になってほしいと思って道教せしてくださるわけです.そういうわけで,適応をはかるなら心理臨床の援助でも可能ですが,元の根を切るにはお道の信仰とおつとめが大事なのだろうと私は思うのです.


関連記事になります.
お道と臨床と(1)
お道と臨床と(2)
お道と臨床と(3)

信者さんのお出直し 

本日0時10分,当教会に長い間ご尽力くださった信者さんがお出直しになりました.享年81歳でした.

深夜1時頃,会長より声をかけられましてその旨聞きました.何回も危うい状態をご守護いただいてきたので,今回もまた持ち直すのではないかという思いと,危うい状態になる間隔が短くなってきてますので,そろそろ本当に出直しが近いのではないかという思いの両方がありました.しかし,そもそも出直しは神様が決められること,きっと私たちがその方へのご恩返しを十分にしたときに出直しがやってくる,それまでは身体をお貸しくださると思っていたところもあったものですから,そう考えるとまだまだ足りないだろうからやはり持ち直すだろうという思いの方が強かったのかもしれません.聞いたときは「そうかぁ.ついにきたかぁ」という感じでした.

もちろんご恩返しが終わったなどとはとても思えませんでした.出直しは人にとっては色々よい悪い思うことがありますが,親神様の目から見れば,一番いいときに出直しをくださっているというのを教えと数少ない経験から思わせていただいているものですから,きっと私には今はまだよく分からないけれども今がいいときなんだろうなぁと思いました.

夫婦そろって教会に参拝してくださっていた方ですが,ご主人がだいぶ前に出直しておられまして,しばらくは独りで暮らしていました.高齢になってきて,教会でお世話させていただくことになり,平成9年より父が出直す6年前までは一緒に住んでいました.(と言っても私はおぢばにいて教会にいませんでしたが・・・)父亡き後は母が会長になりましたので,いよいよお世話させていただく余裕もなく,教会から車で数分行ったところにある施設で預かってもらうことになりました.

それからかれこれ6年,小脳出血や肺炎など色々な身上もありましたが,週に何度か通う会長に対して日々をありがたいねと言いながら過ごされ,施設の人におさづけを取り次ぐなどお道の人としてつとめられました.ファーストネームが動物の名前で背が130cmほどの小さなおばあちゃんですので,施設の人からは名前で呼ばれて大層かわいがられたそうです.

私も教会に帰ってからはたまにおさづけに行かせていただきました.ここ最近は会長にご恩返しだからなるべくたくさん行かせてもらいなさいと言われ,あいことよく行かせていただきました.最後に会ったのは5日でした.そのときはあいこがおさづけを取り次がせていただきました.寝たきりですが,いつも通りな感じに見えました.

今日は朝から仕事でしたので,ご本人に会ったのは教会に帰ってからです.安らかないい顔をしていました.昨日今日も会長がおさづけを取り次がせていただいていますのでおさづけのご守護でしょう.ありがとうございましたと声をかけました.今は祖父母が暮らしていた部屋で休んでもらっています.

遷霊祭と告別式の日取りが10-11日と決まりましたので,明日から準備などで慌しくなりますが,ご恩返しとは何も命あるうちだけではありません.出直しは着物を脱ぎ捨てるようなもので借りていた身体を神様にお返ししただけ,その魂は生き通しですから,故人を,その故人より受けたご恩を忘れずに私たちが思いをつないでいくことがこれからのご恩返しとなると思います.81年の人生お勇み様でした.

神様にしか見えない天秤 

すべての事象は親神様からの賜物ですが,親神様はバランスということを考えられるようです.このたとえ話もとても面白かったので綴ります.

自分には見えないけれども,神様から見ると人の心には皆天秤がついているようです.左右はどちらでもいいのですが,仮に左側は中心が自分にある世界としましょう.右側は中心は他者にある世界です.この天秤は自己中心的な行いをすることで左の皿に重りが載せられ,右の皿には他者のために行動することで重りが載せられていきます.

たとえば,自分のことばかり考えていて,他人のことなんぞ知ったこっちゃないと思っている人がいたとすると,その人の天秤は左ばかりが重くなっていき傾いていきます.親神様はバランスのとれた状態が好きなので,左に傾いているときには左の重りを減らすためにお手紙(身上や事情)をくださることで重りを減らしてくれます.そこで,自分の心遣いに気付いて他人のために行動できればいいですが,気付かないまま自分のことばかり考えて行動しているとまた左に傾き,また重りを減らすために身上をいただき・・・と繰り返します.つまり,神様は引き算をすることでバランスをとってくださっているのです.親神様は親心からすべての人間に互いにたすけあって陽気にくらしてほしいと思うゆえから,親切に知らせてくださるのですね.

反対に,自分のことは置いておいて他者のために心を遣い行動できると右側が重くなり右に傾いていきます.親神様はバランスのとれた状態が好きなので,右に傾いているときには左の重りを増やすためにご褒美をくださることで左右のバランスととってくださいます.人のために動いていると,天秤は右に傾き,神様は左の重りを増やすためにご褒美をくださり,さらに人のために動くと,また左の重りを増やすためにご褒美をくださり・・・となるのです.つまり,神様は足し算をすることでバランスをとってくださっているのです.人のためを思って動いていると,損をしたようで実は自分にとって好ましいことが起こってきて結果的に得をするのかもしれません.

このことからどんなことが言えるでしょうか.「自分のことは構わずとにかく人様のために動いて喜んでもらえるよう心を遣っていけば,自然と自分にとっていいような状態に成ってくる」ということだと言えるでしょうか.これを「人をたすけてわが身たすかる」と呼ぶそうです.

人は互いに立て合って陽気にくらすよう作られているのですから,その通りにすればそう成ってくるのは神様の目から見れば当然なんでしょうね.私たち人間はそれに気付かずに過ごしていたり,気付いていてもつい忘れてしまったりと・・・.だから信仰を通して神様とつながっていくことが大切なんだと思い,なるほどと感心しながら聞かせていただきました.

三日講習を受けて(あいこ編) 

行ってきました!三日講習.

おぢば帰り~あいこの身上(1)
おぢば帰り~あいこの身上(2)

思えば,去年の9月頃,上記の記事を呼んで頂ければとご理解頂けると思いますが,身上をいただきまして,この時,「三日講習にいかせて頂きます」と三日講習に行くことを心定めしました.

それから,25歳になる(3月)のを待ちまして,6月に申し込んだのですが,はずれ7月になったのです.(きっと,神様のお引きよせがあったために,今回になったと思います)

参加してから,しばらくドキドキしました.見知らぬ人がたくさんいるとだめな私は半分パニック状態でした.(77名参加していましたので)グループに分かれ,5人のメンバーとともに三日間を過ごすことになりました.ここでは書きませんが,皆さんなかなか個性的で,身上事情が色々あり,学ぶことがたくさんありました.
世話人の先生と出会えたことも良かったです.その先生は教会長で,その奥さんはわたしと同じ名前で,未信者から教会奥さんになったようで,その話を聞いてから非常に親近感を感じ,それから打ち解けてなんでも話をするようになりました.

今回,たくさん勉強になりましたが,一番の収穫は,「(心から)お道が好きと言えるようになったこと」,「もっとお道を勉強したいと思ったこと」,「おつとめの大切さを学べたこと」の3つです.

Ⅱ,Ⅲもあるようなので,また機会を作って行きたいと思いました.

あいこのにおいがけ 

9日の月次祭の後,あいこが近所の信者さんの家にお下がりを持っていきました.いつも私が持っていくのですが,今回はあいこが帰りに実家に寄ってゆっくりしてくるというので,あいこにお願いしたのです.10分くらい奥さんとお話したようで,その後実家に行ったとのことでした.

実家には両親と祖父母がいるのですが,父は出かけていていなかったようです.祖父は突発性難聴にもなっていて,耳がかなり遠いのです.今までテレビをよく見ていたのですが,最近耳が聞こえないのでテレビもあまり見なくなってしまい退屈そうでかわいそうだとあいこは言っていました.そこで,あいこは祖父におさづけを取り次がせていただきたいと思い,祖母や母に見つからないように.こっそり祖父に取り次いだということでした.

さらに,あいこの母方祖父の妹がクモ膜下で入院という身上をいただきまして,あいこの母が「私は天理教を信仰しているわけじゃないけど,もし神様にお願いしてよくなるんだったらお願いしてもらえないかしら」とあいこに頼んだようです.これはすさまじい前進です.

夜に帰ってきて,あいこが祖父と母のことを嬉しそうに私に話してくれました.私たちにできることは神様にお願いすることと思い,あいことさっそくお願いづとめをさせていただきました.会長も毎朝やってくれています.

あいこのにおいがけも素晴らしかったですが,何より祖父の妹の身上がご守護いただけるといいです.

人をたすけてわが身たすかる 

三輪分教会長の榮島憲和先生の講話をきく機会がありまして,心に残ったことを綴りたいと思います.

まずは,榮島先生の奥様が末期がんの身上をいただいたときのお話.

治療のために病院に入院したそうですが,そのときに榮島先生は奥さんに「自分がたすかることを願って入院していたんではいかん.神様がおたすけする場を与えてくださったのだから,入院している人にしっかりおさづけをさしてもらいなさい」「元気な者がいくら言ったって,あんたに私の気持ちなんかわからないわよ!と言われてしまうかも分からんが,同じ病を抱えているお前ならたすけになってやれる」と言うようなことを言ったそうです.そして,奥様は言われた通りに,病院内で一生懸命おさづけを取り次いでまわり,しまいには末期がんが治ってしまうというご守護をいただいたということでした.

お道では「人をたすけてわが身たすかる」と教えていただいておりますが,本当にその通りなんだなぁ,不思議なご守護もあるもんだなぁと今更ながら聞いていて思いました.やはりこの教えに間違いはないと.同時に,その状況において妻にそのような言葉かけのできる夫である榮島先生と,それを受け取って実践した奥様の心の強さに感銘を受けました.

末期がんと分かったら,たいていの人は落胆することでしょう.他の人のことまで考える余裕さえないかもしれません.他者との接触を嫌い,一人の時間を好む方さえ多くいるかと思います.そのような状況で上記のような言動をとれたのには,やはり揺ぎ無い親神様への信仰心と夫婦間の信頼関係があったからだと思います.私は相手の状況を考えたら,きっとその言葉を口に出すのに相当ためらうでしょうし,もしかしたら言えないかもしれません.先生も奥様もどちらも素晴らしい強い心の持ち主だなぁと思いました.

私もどんな状況にあっても神様を信じて,神様の思いを夫婦で共に感じ,通らせていただきたいと思いました.

教会史見つかる 

090926.jpg昔,読んだことがあったのですが,長いこと行方不明だった教会史が私がおぢば帰りしている最中に見つかったようです.帰ると机の上に置いてありました.それを2人で一緒に読み,初代の元一日,入信から教会設立に至るまでを辿らせていただいたのでした.

ずっと気になっていたのですが,見つかって本当によかったです.父も祖父ももういないので,もし見つからなかったら,大事な先代たちの歩みを失うところでした.

なんだかあいこに身上をいただいて,神様の方を向いて歩もうと改めて思わせていただいたところで見つかるなんて,タイミングよすぎです.ほんと不思議なものです.

かなり紙が変色してきてますので,近いうちにWordで打ち直してデータとしても保存しておきたいと思います.

おぢば帰り~あいこの身上(2) 

未読の方はまず以下を閲覧ください.
おぢば帰り~あいこの身上

あいこを見つけると,「大変だよ!虫垂炎の疑いでこれから緊急検査だって!」「もし,虫垂炎だったら入院で手術だから今日帰れないって」と言います.1つほっとしたところで,また1つピンチを迎えました.入院・手術となったら,きっと実家の母も来るだろう,親神様は身上を通してあいこ家へのにをいがけを咳き込まれているのだろうか?などとも考えました.エコー検査の前にはあいこにおさづけを取り次がせていただきました.この時点ですでにお昼を回っていただので,午後席は断念せざるを得ませんでした.満席を運べないことはきっと偶然ではなく,用木となる前に更なる心の修養をしなさいという神様の思いがあったのでしょう.

エコー検査の結果,特に問題はなく,内科の診察も終了し,とりあえずは無事に夜行バスで帰れることにはなったのでした.結局,何の病気も見つからなかったということでとてもありがたいご守護をお見せいただいたのですが,あいこの抱える症状の原因はわからずじまいでした.しかし,それ以上に大きな収穫があったと思います.あいこがこの身上を通して,神様に身を任せもたれるということを体験し,心が神様の方に向いてある心定めができ,大難を小難にしていただいたという実感を得たのです.それは私も同様ですが,本当に親里ぢばで不思議な身上を見せていただいたと思いました.

会計のときには,あいこの母から電話があり,あいこの弟の左肩らへんにしこりがあって,大きな病院を受診して手術をしてもらった方がいいかもしれないと医者に言われたとのことで病院を探しているとのことでした.あいこの緊急性がなくなったことで,あいこの母がおぢばに来る可能性はなくなりましたが,弟に身上を見せられ,これは本当にあいこ家へのにをいがけを親神様は望まれているのかもしれないと思わせていただきました.

終了後,朝から何も食べていなかったあいこは遅い昼食をがっつり食べました.(不思議なことに食欲はすごくあるのです.)お礼づとめをさせていただき,詰所へと戻ったのでした.夜には無事に夜行バスに乗ることができました.

長い1日でした.別席は満席にはなりませんでしたし,身上の医学的原因も分からずじまいでしたが,色々神様のお膝元で思案をさせていただいた貴重なおぢば帰りとなりました.私もあいこもまだまだ未熟ですが,神様よりお借りしているこの身体の働きに感謝して,神様の思いに少しでもこたえていく人生を送らせていただきたいと改めて思いました.

ちなみに,あいこのおなかの気持ち悪さはまだ続いています.続くようなら,近々近医を受診します.

おぢば帰り~あいこの身上(1) 

今朝教会に戻ってきました.

どこから書いていいのやらという感じですが,今回のおぢば帰りは色々神様の思いを見せていただいた気がしました.

21日は午前席,午後席とあいこが別席を運ばせていただき,8席となりました.21日夜の段階で翌22日の午前席を運び満席というところまできたわけです.

ところが,数日前からあいこがおなかのあたりが気持ち悪い,吐き気がすると言っていまして,それがずっと続いていて,なおかつおぢばに帰ってからひどかったので,何か悪いものだったらいけないと思いまして,別席を午後席にして朝から憩いの家を受診することにしました.

朝,おさづけを取り次がせていただいて本部の朝づとめに参拝した後,身支度をして,神殿でお願いづとめをさせていただいて憩いの家へと行きました.(外来が別棟になっていたのには驚きでした.まったく知らずに普通に館に入ろうとしたら呼び止められてしまいました.)

あいこはもちろん初診です.胃・腸・子宮あたりに障りがあることが考えられたため,産婦人科,総合内科を受診することにしました.あいこは「怖いよ~」と言っていましたので,神様からのお手紙だからと色々話をしました.怖いのは当然です.誰でも好きで病院にかかるものではありません.会長にも報告したところ,おぢばで見せられる身上に悪いものはないし痛みがあるってことは神様が小出しにして教えてくれてるんだから大丈夫だよと言ってくれました.時には口うるさくも感じる会長の言葉が妙に心強く感じられました.

産婦人科の診察室で待っている間も,神様は苦しめようと思って身上で知らせるわけじゃないからあいこが神様の思うように心定めさせていただけば大丈夫,教会に嫁いできた初心を忘れずに通らせていただこうね,と話しました.そして,その後あいこは診察室へと入っていきました.私は友人と落ち合うことになっていたので,友人に憩いの家まで来てもらいました.その後,診察室から出てきたあいこは「検査しないと何だかわからないからガン検査とか色々一通りやるって」「怖いよ~」と泣いています.私は大丈夫だよ,神殿行ってお願いづとめさせてもらってくるからと言ってあいこと別れました.

友人と共に神殿へと歩き,あいこの大難を小難に,小難を無難に済ませていただくようお願いし,夫婦はふたつひとつ,妻に見せられる身上は私自身にとって我が事と同じことと思い,私自身も最近の通り方を振り返り,思い当たる節を改めることを定めさせていただきました.お願いづとめの最中,電話が2度ほど鳴り,終了後メールがきました.産婦人科での簡単な検査では特に問題は指摘されませんでした.ただ,夜には帰る予定のため,結果が後日になる精密検査はできないということでした.それでも,とりあえずほっとして神様のご守護に感謝しました.一応,内科にもかかっておいた方がよいということで,あいこは内科へ行きました.私たちもまた病院へと戻り,あいこと合流しました.

(続く...)
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