前者はその役割を演じる時間的・空間的に限りがあり,同時にそのことが自分自身を守ることにもなっています.限られた時間帯と場所での援助ということです.限りがあることで自分自身のその他の役割(たとえば夫に対しての妻・子どもに対しての母親・母親に対しての娘など)を侵害されることなく果たすことができます.したがって「勤務時間ないしは職場環境によって守ってもらっている」というある程度の安心感があります.(中略)
後者は時間的・空間的に特に自分で設定しない限りは限りはないということがあると思います.限りがないということはその他の役割を同時にこなしながら援助を続けていくということです.時間的・空間的限界によって自分自身を守ることができない代わりに,私たちお道の信仰者はどうしているでしょうか?私たちには幸いにも「いつ何時でも親神様が守ってくださっている」という安心感があると思います.たとえ私生活との間に明確な境界がなくともその感覚で援助を続けていける面もあると思います.それでも人間ですから限界点はあると思いますが・・・.
さて,私がこの両者をどのように区別しているかと言いますと,仕事はあくまでも仕事です.それ以上の関わりをすることはありません.職業的役割関係以外に関係持ち込むことは職業倫理として禁じられているくらいです.また,そうすることが治療的だということもあります.(以下省略)
「勉強したのに,テストができなかった.」
「おさづけを取り次いだのに,一向に快方に向かわない.」
「夕食をせっかく作ったのに,夫は食べて帰ってきた.」
「運動しているのに,全然痩せない.(←私のことです)」
「勉強した.テストはできなかった.」
ええじゃないか!あなたが勉強したことは次のテストや授業で生きてきます!無駄ではありません.
「おさづけを取り次いだ.一向に快方に向かわない.」
ええじゃないか!あなたが取り次いでいることで命をつないでいただいているのかもしれません!無駄ではありません.
「夕食をせっかく作った.夫は食べて帰ってきた.」
ええじゃないか!あなたが夫のために作った食事は明日の朝食になります!(強引か?)尽くした姿は夫婦円満の種になります.無駄ではありません.
「運動している.全然痩せない.」
ええじゃないか!私が運動したことは,基礎代謝や筋力の向上,コレステロールの低下など次の健康診断で生きてきます!無駄ではありません.
娘さんがパズルを一生懸命やっていましたが,どうにもできないところがあり,そこへやってきた先生が手助けをして作ってあげたそうです.完成したパズルを見て娘さんは「ありがとう」と言うやいなや,パズルを床に叩きつけ,バラバラにしたそうです.先生は「何するんや,せっかく作ったのに!」と思ったそうですが,娘さんはまたパズルをやり始めました.
今朝は6:20に起き,朝食をとり,身支度をして朝づとめに参拝し,7:20に家を出て車で出勤しました.8:30より17:00まで仕事をして,車で家に帰り,夕づとめに参拝して,夕食をとり,食休みをした後,運動をして,入浴を済ませ,ブログを書いて床に就きました.
今朝は6:20にお蔭様で元気に目覚めさせていただき,朝食もお蔭様でいつもと変わりなく喉を通りましておいしくいただきました.身支度をした後,朝づとめに参拝させていただき,7:20に家を出て車で出勤し,お蔭様で事故に遭うこともなく,無事職場につきました.8:30より17:00までお蔭様で何のトラブルもなく仕事をつとめさせていただき,再びお蔭様で何事もなく家に帰らせていただきました.夕づとめに参拝させていただいた後,お蔭様で夕食をおいしくいただき,食休みをした後,お蔭様で怪我をすることもなくいつもの運動をさせていただき,お蔭様であたたかいお風呂をいただき,お蔭様で書き込みエラーも出ずブログを書かせていただき,床に就かせていただきました.お蔭様で無事平穏な一日でした.ありがとうございました.
以前よりお聴きしてみたかったのですが、まおさん的には「精神科医」と「臨床心理士」、「精神保健福祉士」、さまざまな「カウンセラー」、さらには「お道のおたすけ」をどのように区別、関連、意義付けされておられるのでしょうか、
現実生活の中ではお道の話をすることはおろかリーフレット配りさえ躊躇があったということは私に大きな影響を与えています.インターネット上でお道の話をすることには躊躇もありませんが・・・.
信仰とは本質的には神と自己を結ぶものでありますが,神と自己を結ぶ=神の思いに近づくことと思います.それは世界だすけの道であり,より多くの人に救かってもらいたいという思いを実践にうつしていくことです.自分がお道の信仰のおかげて救かっていると思うのであれば,それをより多くの人に伝えていくことはやはり大切なことなのではないかと思います.
たとえば,○○社の××製品を買って使ってみたら,とてもよい商品で買ってよかったと思うのであれば,それを自分だけ味わうのではなくより多くの人に味わってほしいと思うのがたいていの人の感覚であると思います.そして,試しに使ってみなよと近所の人や知人,親戚などに勧めるわけです.
信仰も同様なのかもしれません.よいものだから人にすすめるというごく自然のことです.ですが,簡単にはいかない・・・.観念的なものなので数字で証明しにくいということもあるかもしれません.また,宗教への偏見も多くあることと思います.見知らぬ人へのにをいがけは商品をすすめに家を回る営業マンと構造的には一緒ですから,簡単には成功しないのも当然かもしれません.
それでも,そのために費やした時間と尽くした心は親神様は受け取ってくださり,いつかその芽が出るのだと思います.会長がリーフレット配りは種まきだと言っていました.リーフレットから電話をかけてくる人はほとんどないけれども,まったく関係のないところから電話があってにをいがかかることもある,それも普段の種まきのおかげということだそうです.はっぴーさんも「にをいがけはおやさまへのお供え」とのコメントをくださいました.なるほど,理に適っています.また,さなさんのコメントにありましたように,「1000人に1人くらいは電話くださる方もいる」とのことですので,それ自体にも伝道の意味はあるのだと思います.ですが,基本的には見返りを求めるのではなく,自分自身あるいは教会の種まきとして位置づける方が私は納得がいきます.
今日の話はまとまりませんが,私は生まれながらにして素晴らしい宗教と出逢い信仰をしていると思いながら,それを人に伝える機会を持たず,また持とうともせず,自己愛的な生き方をしていたのかもしれないと思ったのです.そして「そのうち自分も」「いつかやろう」と思っているだけで刻が過ぎていることにも気がつきました.すぐに実践というわけにはいかないでしょうが,今までよりはほんの少しでもお道の勉強やにをいがけにつながることをさせていただこうと思いました.本当に自分を振り返るよい機会を親神様は下さったと思います.
今日は午後からリーフレット配りに行ってきました.支部で何人かが集まり,とある団地を回りました.
手にリーフレットを持ち,団地内を歩いてポストにそれを入れて回るわけですが,自分は何も悪いことはしていないのに,妙に居心地が悪いのです.よかれと思ってリーフレットを配っているのに,なんだかとても悪いことをしているような気分になるのです.人の気配がある階段近くのポストはとばして次のポストに歩いていく自分の足取りがそれを物語っていたでしょう.きっと迷惑がられるんだろうなぁとか,読まずに捨てられちゃうんだろうなぁとか悪い考えが頭をよぎりましたが,その考えを振り払い,たとえ1枚でも目を通してもらえればそれでいいじゃないかと思い続けました.ですがやはり勇むというよりはいずんでいたような気がします.
これが何かのチラシ配り―たとえば割引券や広告などを配るアルバイトであれば,何の抵抗感もなくこなせたことでしょう.なぜチラシ配りは大丈夫なのに,天理教のリーフレット配りには居心地の悪さを感じるのでしょうか?そこにはおそらく社会的認知度が大きく影響していると思います.宗教の認知度は低く敷居も高いです.このことが自分がマイノリティであるという認識を団地の中で強く実感させ,受け入れられにくいと私に思わせます.そして,天理教は私のアイデンティティ(※)の重要な要素ですので,そのような実感をひしひしと感じることに居心地の悪さを感じたのだと思います.結局は私の未熟さなんですが・・・.(アルバイトであればそのチラシの扱われ方によって自分自身に何の影響もないので居心地の悪さは感じないわけです.)
そんなわけで,私は自分自身がまったくの裸で無力であるように感じました.病院で仕事をしていれば,こちらから足を運ばなくとも患者さんの方からやってきてくれます.白衣を着ていれば,たいていの人が訊ねたことに答えてくれますし,こちらの話も聞いてくれます.信頼を得られれば悩みも打ち明けてくれます.しかし,今日その場にいた私は,人に対してまったくの影響力を持たず,そして自分のやっていることにむしろ心許なさや後ろめたささえ感じていたのです.これまでにもにをいがけをしたことはありますが,今日ほど深く感じたことはありません.
一般的に宗教が敬遠される時世の中で,私は信仰はむしろ必要だと思っていて,その良さを少しでも伝えたいと思い,こうしてブログまで書いていますが,それをいざ現実社会の中で広めるための実践となると自分はあまりにも無力であると思いました.そんな自分をとても小さく感じました.
リーフレット配りの真の意味は伝道にあらず,他者に対しての影響力以上に自分自身に対しての強烈な仕込みになる,と思いました.裸の自分を知り,心を低く通らせていただくのにもってこいかもしれません.その心は神様が受け取ってくださるでしょうし,にをいはあとからついてくるものなのかもしれません.今日のリーフレット配りで自分は多くの有形・無形の存在に支えられてこの社会で生かされているということを改めて実感できました.
今回私は自分自身の未熟さを痛感したわけですが,このようなことを感じることなく,勇んでにをいがけをされている方はすごいなぁと思います.にをいがけをされている方,正直どのようなことを感じながらされていますでしょうか?
※アイデンティティとは自分らしさのことで,「自分とは何か?」「自分はどんな人間なのか?」「自分は何のために生きているのか?」などの問いに対する答えに該当すると思うとわかりやすいかもしれません.
1日 消防団訓練 3日 おぢば帰り 8日 屋根塗装ひのきしん 9日 消防団警備 17日 月次祭 24日 神社鳳笙吹き 30日 研修 31日 研修