お道と臨床と〜心づくりのたね〜

天理教と臨床心理学の視点を含めて,まおという人間が考える日々の通り方や考え方について綴っています.日記風なこともわりとあります.

おたすけにも枠を? 

未読の方は以下をまず閲覧ください.
おたすけの位置づけ

3日に宮崎先生にお会いした際に,先生は心理臨床の仕事をしていく中で,治療上重要視される「枠」ということを,おたすけにも活用していいと思うと話してくれました.そのことについて考えてみたいと思います.

以前,私は冒頭にあげた記事において,精神科臨床とおたすけの違いについて以下のように記述しています.

前者はその役割を演じる時間的・空間的に限りがあり,同時にそのことが自分自身を守ることにもなっています.限られた時間帯と場所での援助ということです.限りがあることで自分自身のその他の役割(たとえば夫に対しての妻・子どもに対しての母親・母親に対しての娘など)を侵害されることなく果たすことができます.したがって「勤務時間ないしは職場環境によって守ってもらっている」というある程度の安心感があります.(中略)

後者は時間的・空間的に特に自分で設定しない限りは限りはないということがあると思います.限りがないということはその他の役割を同時にこなしながら援助を続けていくということです.時間的・空間的限界によって自分自身を守ることができない代わりに,私たちお道の信仰者はどうしているでしょうか?私たちには幸いにも「いつ何時でも親神様が守ってくださっている」という安心感があると思います.たとえ私生活との間に明確な境界がなくともその感覚で援助を続けていける面もあると思います.それでも人間ですから限界点はあると思いますが・・・.

さて,私がこの両者をどのように区別しているかと言いますと,仕事はあくまでも仕事です.それ以上の関わりをすることはありません.職業的役割関係以外に関係持ち込むことは職業倫理として禁じられているくらいです.また,そうすることが治療的だということもあります.(以下省略)



これが正しいとは限りませんが,当時の私の理解を綴ったつもりです.お道のおたすけにおける実践という面がまだ私には乏しいので,書くこと自体恐縮なのですが,要するに心理臨床においては予め決められた時間・場所での援助ということになります.それに対して,お道のおたすけは予め決まっているわけではなく,救けを求めている人がいれば時間・場所にかかわらずいつ何時でもさせていただけるものというのが理想論としてあり,その実践のために際限なく勇ませていただく(援助する)という姿があるように思います.したがって,宮崎先生の言葉を聞いたときは「え!?いいの?」と思いました.私もいずれおたすけをするようになったら,無制限の援助をさせていただかなければいけないと思っていたからです.現に,過去私は天理の友人宅で深夜2時3時まで,お道の援助のあり方について,友人とその弟とその辺りのことで議論した覚えが曖昧ながらあります.(ベロベロでしたので・・・)

分かりやすくするために私と会長を例に比較してみましょう.私は病院において完全予約制で院内の心理室で50分間という時間をとって話を聞いていますが,会長は教会において参拝者や通話者相手に数時間話を聞くこともありますし,それが1日に何回にも及ぶこともあります.限られた時間内での援助しかしていない私にとって,際限なく援助を続けている会長の精神力には脱帽しています.今の私なら,途中で嫌気が差してしまうかもしれません.(←未熟)

論点はそこにあります.おたすけの心,おやさまの道すがらを辿ろうとする心を持って神にもたれていたとしても(私が持っているということではありません),際限なき援助ができるほど人間は万能ではないということだと思います.中にはそれができるキャパシティを持った人もいるのかもしれませんが,それでもおたすけの対象者が増えれば,たとえどんなにキャパシティがあっても1日は24時間しかないのですから,やはりどこかで体力・精神力の限界はやってきます.支えたくても支えきれないこともあるでしょうし,下手をしたら自分自身が消耗しすぎて嫌気が差してしまうこともあるかもしれません.それならば,最初から時間を区切って―「枠」づくり―の援助をするというのも1つのやり方だと思います.

「10時から20分だけなら時間とれるから」,「今から30分だけなら時間とれるけど」のように,予め時間を設定することで限りある時間を有効に使い,なおかつ自分自身が過度に消耗しないように守ることも可能になります.ある意味ドライだなぁという印象をも抱かせるやり方ですが,カウンセリングなどでは,その設定が目的意識と時間を大事に使う動機付けを高めることとなり治療的であると言われています.また,必ずしも無制限に相手の思いや要求をすべて背負いきることが,その人のため,あるいは親神様が望まれる道であるとも限りませんので,その人のことを思えばこその判断であれば,冷徹であるとか人間味がないというわけではないと思います.理由なく何でも切り捨ててしまうのであれば,そのようにも言えるかもしれませんが,その判断の裏づけとなる仮説なり展望があればいいのではないかと思います.

ただ,このおたすけのあり方についてどう通らせていただくべきなのかについては,私は現在教会に住まわせていただいているよふぼくという立場でありながら,おたすけにほとんど携わっていないという現状がありますので,自己主張はまだできません.何がよいか分からないのです.実働なき発言は説得力が無いことは承知ですが,あえて実働を伴わない立場から描く理想像だけを述べるならば,その救けを求めてやってきた人を皆どこまでも支えられればいいとは思いますが,それが普通の人間には不可能だということも感覚的に承知しているので,やはりこれといった答えも出せないのです.

先生のように,臨床心理学という学問において,あるいは心理臨床という場において治療的であり,有用とされている「枠」というものをおたすけに活かすというやり方もあるんだなぁというくらいしか言えません.もちろんこの先,自分のおたすけのスタンスを模索していく中で大いに参考にさせていただきたいです.そして,10年20年したらまた何か言えるかもしれませんので,そのときには改めて自分の経験を踏まえて述べてみたいと思います.(そのときまでblog続いているかな・・・)今日は,そういった視点の紹介ということで書いてみました.

皆さんはどう思われますか?あるいはどのようにされていますか?
おたすけをされている方のコメントお待ちしています.

※宮崎先生,私は記憶と理解がごちゃまぜになってしまうことがよくあるので,もし当該記事を読まれて誤った記述があればどうぞご指摘ください.即刻修正いたします.

人と人の背後に働く力 

かつての指導教官がキリスト教信者でして,その先生が「精神療法の背後には人智を超えた神の力が働いている」と言っていたことがありました.

それを聞いてなるほどと関心したのを覚えています.対象は違えど私も同様のことを感じていたからです.精神療法と言えども,人が為すものなれば,神の働きなしには成しえない.これは私からすればごく自然に理解できることです.キリストでいうところの神とお道でいうところの神は働きが違うと思いますが,神様によって生かされていて口が動いて言葉を発し,耳で相手の言葉を聴き取ることができるからこそ,会話による意志の疎通が可能であり,目をはじめとした他の器官によって雰囲気をつかみ,自分は受容されているという感覚を抱くのだと思います.そしてそこから徐々に変化が起こり治療が進んでいく・・・これは外枠的なもので内で起こっていることにももちろん神様の力は働いていると私は思います.

一般に精神療法はクライエントとセラピストの協同作業であり,共通の治療目標をもってセラピストはクライエントの自己治癒力を妨げないように援助する姿勢が求められると思います.ですから治療の成功はセラピストを活かして自己治癒していったクライエントに功があるのです.もちろんそれを妨げなかったセラピストも重要な働きをしています.

しかし,ここで教官の言葉が真であると考えるのであれば,その協同作業の背後に働く大きな力があるのです.クライエント(被面接者)のためによかれと思って,最大限の関心を払い,労い,共感し,自らの人格を以て相手の人生なり症状や生活の一部がよりよくなるように接していく誠真実の心がセラピストにあるのであれば,そこに神様が働いてくださってクライエントが薄紙を剥ぐようにご守護いただくということは理に適っているかもしれません.神様の話をするわけでもありませんし,おさづけを取り次ぐわけでもありませんが,人に救かってもらいたいという心においてはおそらく親神様の思惑と一致するものでしょう.また,クライエントの方も自分の悩みや問題を解決すべく,自らの性格や行いに関心を払い,改善しようと試みるのですから,よい心遣いに成っていけば,その心通りのご守護も現われ出るのかもしれません.

おたすけをしている方はもちろんだとは思いますが,それ以外の方法―たとえば看護や介護など様々ですが―で人だすけの種をまいておられる方,その道中で当事者や関係者以外の何か大きな力を感じることありませんか?それこそ私が知ってほしいと思う神様の働きです.

「のに」は使わない〜ええじゃないか探しのススメ 

これも宮崎先生のお話で印象に残ったので綴ります.やはりもう私まおの言葉でしか綴れません.

先の「プロセスを大事にすること」とも関係してきますが,「のに」という表現は使わないほうがベターです.

のに」をgoo辞書で調べると,接続助詞の意味の1つに「既定の逆接条件を表す。意味内容の対立する二つの事柄を、意外・不服の気持ちをこめてつなぐ。」とあります.つまり,前に出てきた事柄に対して不足の理を生むことになっています.

「勉強したのに,テストができなかった.」
「おさづけを取り次いだのに,一向に快方に向かわない.」
「夕食をせっかく作ったのに,夫は食べて帰ってきた.」
「運動しているのに,全然痩せない.(←私のことです)」


などなど,あげればきりがありませんが,これらはせっかくの行為に対して,それを無に帰すような発言になっています.確かに,結果には反映されなかったかもしれませんが,そのために尽くした理,つまりプロセスは実は無駄にはなっていません.しかし,「のに」という言葉を使ってしまうがために,自分自身で今までの行為を無にしてしまっているのです.

結果とプロセスは別物です.結果も大事かもしれませんが,プロセスも同等かそれ以上に大事です.本来,この2つの事柄は「のに」でつなぐのではなく,切り離して2文で使うべきです.「のに」を使うから無駄に思え,不足の心遣いをしてしまうのです.切り離して使えば,そのプロセスに生きている理は無駄にはなりません.

「勉強した.テストはできなかった.」
ええじゃないか!あなたが勉強したことは次のテストや授業で生きてきます!無駄ではありません.
「おさづけを取り次いだ.一向に快方に向かわない.」
ええじゃないか!あなたが取り次いでいることで命をつないでいただいているのかもしれません!無駄ではありません.
「夕食をせっかく作った.夫は食べて帰ってきた.」
ええじゃないか!あなたが夫のために作った食事は明日の朝食になります!(強引か?)尽くした姿は夫婦円満の種になります.無駄ではありません.
「運動している.全然痩せない.」
ええじゃないか!私が運動したことは,基礎代謝や筋力の向上,コレステロールの低下など次の健康診断で生きてきます!無駄ではありません.


どうです.「のに」を使って無駄にしてしまっていることを,これからは切り離して「ええじゃないか!」をつけて考えてみませんか?宮崎先生の「よかった探し」ではありませんが,無駄を作らないために,先生のお話からヒントを得た「ええじゃないか探し」として皆さん活用してみてはいかがでしょうか(笑)幕末のええじゃないか騒動のように,いっちょ民衆を巻き込みますか.くれぐれも言っておきますが,悪いことを「ええじゃないか」と正当化することとは違いますからね.

※誤解のないよう言っておきますが,宮崎先生は「ええじゃないか」とは言ってません.


未読の方は以下を閲覧ください.
「おかげさま」のストーリーから喜びが生まれる
心は自由
心はパズル
プロセスを大事にする心を

プロセスを大事にする心を  

いまだ宮崎先生の講話ネタは続いております.「プロセスを大事にする心」を持つことが大事というお話がありまして,それも印象に残ったので綴ってみます.

人は大人になるにつれて,過程(プロセス)よりも結果を求めるようになっていきます.決して結果はどうでもいいということではありませんが,結果に至るプロセスもまた大事であり,たいていの人は人生の早期においてはプロセスを大事にする心を持っていたと思われます.

以下は宮崎先生と幼い頃の娘さんとのやりとりです.

娘さんがパズルを一生懸命やっていましたが,どうにもできないところがあり,そこへやってきた先生が手助けをして作ってあげたそうです.完成したパズルを見て娘さんは「ありがとう」と言うやいなや,パズルを床に叩きつけ,バラバラにしたそうです.先生は「何するんや,せっかく作ったのに!」と思ったそうですが,娘さんはまたパズルをやり始めました.


以上のエピソードから分かると思いますが,大人は完成したパズルを自分自身の結果として,糊付して額に入れて壁にかけて眺めることで達成感や喜びを得るかもしれませんが,子どもにとってパズルが完成したという事実はそのときの達成感や喜びにこそなれども,それ以上の意味を持たないのかもしれません.むしろ製作のプロセスの中にこそ喜びがあるのでしょう.だって,完成したパズルはもう楽しめませんからね.娘さんにとってはパズルを完成させて保存するよりも,パズルを作ること字体に喜びがあるのです.

このプロセスを楽しみ,喜ぶ心を忘れると,子どもの頃に比べて人生の楽しみ,喜びは半減してしまうかもしれません.プロセスに大事にする心がいつまでもあれば,喜びの機会はもっと増えます.プロセスを楽しみ,喜びましょう.

ちなみに,私もあまりできていません.私もごくまれにガンダムのプラモデルを作ることがありますが,やはり作る過程よりも完成したモビルスーツの姿と出来具合を楽しみに取り組んでいるところがありますし,ひどいときには作るのは時間がかかって面倒だからと完成されたフィギュアを購入したこともあるので,子どもの心を忘れかけているどころか,すっかり結果人間になっている節があります.初心にかえって,作ること自体を楽しみたいと思います.もっとも,いまだにガンダムを溺愛している時点で子どもの心は十分に持っているという反証もありますが・・・.


未読の方は以下を閲覧ください.
「おかげさま」のストーリーから喜びが生まれる
心は自由
心はパズル

心はパズル  

「心はパズル」という言葉も印象に残りました.それについて綴りたいと思います.

先の記事で「心は自由」という話をしましたが,自由といっても知らず知らずのうちに心の遣い方は凝り固まっていき,言わば敷き詰められたパズルのようになっていきます.長く生きればそれだけ色々な考え方が身につき,大きなパズルができあがっていきます.

世の中は自分の考えだけで渡れるわけではありませんから,決まった枠がないと空き枠にピースにぴったりはまらないのと同様に,自分の考えの枠にぴったり入らないことが必ず出てきます.

どんなに頭をひねっても,そのピースがどこにも入らない,そんなとき人はどうするでしょうか.
そのピースが不良品だといったメーカーにクレームをつけますか?それともピースを削って強引に押し込みますか?あるいはピースを放り出してやめてしまいますか?これらのやり方をする人は一時はその事態を乗り越えることができるかもしれませんが,度々起こる同様の事態を乗り越えていくことは不可能でしょう.つまり,いつまでたってもパズルは完成しないということです.たいていの人は「今までのパズルにどこか間違いがあったのではないか」と思い,自分がこれまでに作り上げたパズルに疑問を抱き,製作過程を振り返り,場合によってはパズルを崩すという行動に出ると思います.

人間の心も同様と思います.ある事態がどうにも自分のこれまでの考えで心におさまりきらないとき,それは今まで自分が作り上げた心のパズルを崩す必要があります.周囲に文句を言ったり,周囲を強引に変えようとしたり,放り出してやめてしまっては,根本的解決にはなりませんし,心のパズルはいつまでたっても先へ進みません.

今までの自分の考えの枠―心のパズルを崩して振り返り,また新たな考えの枠―心のパズルを組んでいくことで,その事態がぴったりおさまるよう枠作りをしていく必要があります.やがて,今までおさまらなかったものがぴったりと心におさまるときが来るはずです.

どうにも呑み込めない,おさまらない事態に遭遇したとき,それはこれまでの心のパズル―考えの枠をぶっ壊すチャンスです.そこから新たな心の成人が生まれるでしょう.


未読の方は以下を閲覧ください.
「おかげさま」のストーリーから喜びが生まれる
心は自由

心は自由  

宮崎先生のお話の中に「心は自由(じゅうよう)」という話がありました.そのことから考えたことを綴ります.

私たち人間,身体は神様からお借りしていますが,心は自由をお与えいただいております.時として身体は自由がきかずとも心は何時も自由です.どんなことでも自身の受け止め方ひとつで喜びにも悲しみにもいかようにも変わります.

しかし,私たちの心は自由であるといっても,その自由さの中でだいたい決まった考え方,感じ方をしていくもので,知らず知らずのうちにそのパターンが,その人の癖として定着していきます.それは広く見れば性格という言葉に置き換えられるかもしれません.両親から受け継いだ傾向や育った環境,出会った価値観の取り込みにより,それらは形成されていきます.形成された性格の一面に癖もあります.

嫌気がさして癖をとりたいと思っても,これらの癖は一度定式化してしまうと変えていくのには勇気もいりますし,時間も必要ですし,本当に変わっていいのかな?という戸惑いや迷いがあることもしばしばでしょう.それももっともです.その考え方で今までの人生を歩んできたのですから.

しかしながら,その癖は変えないと同じことの繰り返しになることもあります.それもまたもっともなことかもしれません.同じような出来事に対して同じ癖で対処していては同じ結果になることは目に見えています.そんなときは,自分の心を変えていく必要があります.人は環境や他者の中で生きています.環境や他者を変えることができれば,自分の癖が出ることなく生活していくことも可能でしょうが,残念ながら環境や他者を変えることはできません.なぜって,環境や他者がそのようにあるのは,親神様によって私たち個人がその環境や他者をして自分自身を変化させる機会を与えられているからだと思います.

そのことを理解しているかどうかにかかわらず,やはり人は環境や他者を変えることはできないということを経験的に知っているので(あるいは知っていくので),結局は自分自身を変える努力をしなくてはならないということに気がついていきます.他者を変えようと頑張っている人も見かけますが,果たしてうまくいっているでしょうか.表面的にはうまくいっているように見えるかもしれませんが,陰では周囲から不平不満があったり,信頼されていなかったりと内実は円満にはいっていないことが多いのではないでしょうか.ワンマン社長などが典型例です.

一方,周りを変えようとするのではなく,自分自身の心の持ち方を変えると,不思議と環境や他者が変わってくることがあります.これが神様のお働きであり,同時に本人の努力の成果であると思います.ここでいう本人の努力とは,本人が意識しているかどうかにかかわらず,神様の子どもにかける思いに足る本人の心の持ち方や行いを指すでしょうか.

人は,適応のために自由を与えられている心に自らの努力で変化を与えることができるということです.せっかく心の自由を与えていただいているのですから,嫌な癖は取り除き,人を喜ばすことのできる心の遣い方をしたいものですね.


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「おかげさま」のストーリーから喜びが生まれる

「おかげさま」のストーリーから喜びが生まれる  

「おかげさま」のストーリーから喜びが生まれるということが,宮崎先生のお話で印象に残ったので綴ってみます.

私たちは生活する中で,自分自身を中心にして(自己中ということではありません)人生を体験していると思いますが,自分のストーリーだけではなく,「おかげさま」という言葉をもってストーリーを描くと自然と喜びが生まれるというお話でした.なるほど,確かにそうだと納得しました.

では,ためしに私のある1日を綴ってみましょう.

今朝は6:20に起き,朝食をとり,身支度をして朝づとめに参拝し,7:20に家を出て車で出勤しました.8:30より17:00まで仕事をして,車で家に帰り,夕づとめに参拝して,夕食をとり,食休みをした後,運動をして,入浴を済ませ,ブログを書いて床に就きました.


これが自分のストーリーです.これをおかげさまストーリーで綴るとたとえば以下のように綴れるかもしれません.

今朝は6:20にお蔭様で元気に目覚めさせていただき,朝食もお蔭様でいつもと変わりなく喉を通りましておいしくいただきました.身支度をした後,朝づとめに参拝させていただき,7:20に家を出て車で出勤し,お蔭様で事故に遭うこともなく,無事職場につきました.8:30より17:00までお蔭様で何のトラブルもなく仕事をつとめさせていただき,再びお蔭様で何事もなく家に帰らせていただきました.夕づとめに参拝させていただいた後,お蔭様で夕食をおいしくいただき,食休みをした後,お蔭様で怪我をすることもなくいつもの運動をさせていただき,お蔭様であたたかいお風呂をいただき,お蔭様で書き込みエラーも出ずブログを書かせていただき,床に就かせていただきました.お蔭様で無事平穏な一日でした.ありがとうございました.


分かりやすく1日を綴ったので,後者の文章は少々読みにくくなってしまいましたが,感謝が自然と滲み出ています.要はそのときそのときに自己報告型の体験だけをするのではなく,親神様に報告する形で体験する,言わば「おかげさま」の気持ちを持って過ごすことを心がけると自然とどんなことにも喜びが生まれてくるということです.お道を信仰されている方はすでに習慣になっているかもしれませんが,ともすると当たり前のことと思ってしまい,感謝や喜びを忘れてしまいがちです.毎日,私たちを生かしてくださっている親神様におかげさまのストーリーをお届けできるよう心がけたいものです.

さて,他にもいくつか先生のお話の中で印象に残って是非記事にしようと思った箇所がいくつかありましたが,やはり私の記憶力ではどこまでが先生がお話しされて,どこからが私の理解であり,解釈なのかがもはや区別がつきませんので,以降は先生のお話をヒントとして私が考えたこととして綴りたいと思います.楽しみにされていた方いましたらすいません.

当たり前 

当たり前って何でしょうか?おそらく「普通のこと」「ありふれていること」「そうすべきこと」「そうあるべきこと」というあたりの意味であると思います.ということは,時代や文化によって変化しうるということです.それはすなわち,皆さんが当たり前と思っていることの大抵は普遍的真理ではないということです.

時代を遡れば,あるいは発展途上の地域,未開の地域からすればPC,TV,電話,コンロ,水道,雨風凌げる家・・・といったものは当たり前ではないのです.さらに有史以前まで遡れば,人が自然界に脅かされることなくある程度毎日を過ごせるということも当たり前ではないわけです.私たちが当たり前だと思っていることは,周囲もそうであるから(つまり普通のこと,ありふれていること)そう思うのであって,限定された視野で判断しています.小学生が親にものをねだるときに「皆持ってるもん!!」というときの”皆”とは大抵クラスの仲のよい数人であると言われています.誰が持っているのか訊ねるとあがる名前は数人という・・・もっとも彼らの視点は更に狭いですが.

同様に私たちが日頃当たり前だと思っていることもかなり限定された視野なので巨視的に見る必要があるのです.巨視的に判断すれば,当たり前だと感じることは当たり前ではないのです.このことが腑に落ちれば,今あることの中に喜べることを見つけることは簡単かもしれません.

心臓が休まず動いていること,呼吸ができること,目が見えること・・・すべて当たり前のことではなく,神様の働きによって生かされている奇跡なのです.他にもたくさんあると思います.当たり前に思っていたことを当たり前ではないと思えたとき,そこに喜びが生まれるのです.

雨よりほこりのそうじについて思う 

先日,月次祭前に車の掃除をしたのですが,掃除をした翌日くらいにフロントガラスに鳥の糞をつけられまして,あいこと共に悔しがっていました.かといって取り除くわけでもなく,そのままにしておいたのですが,今朝仕事に行こうと車に乗って走ると,ふと鳥の糞がなくなっていることに気がつきました.

そうです.昨晩からの雨で洗い流されたのです.フロントガラスはすっかりきれいになっていました.そのとき,ふと頭に思い浮かんだのは「ほこり」についてでした.

車は走っている間に意図せずして汚れていくけれども,知らず知らずのうちに雨が洗い流してくれるんだなぁ.雨ってたいていの人は面倒くさかったり,嫌だと思ったりしがちだけど,降らなくても困るものだし,こうして車の汚れを落としてくれるんだなぁ,ありがたいなぁ,と.

転じて,これは人間にもたとえられると思ったのです.私たちも生活しているうちに,意図せずして心のほこりを積んでいくけれども,たいていの人が面倒だと思ったり,嫌だと思いがちなことを率先してやらせていただくことで,知らず知らずのうちに心のほこりも落としていただけるのです.なんとありがたいことでしょうか.

あいこと車の中でそんなことを話しながら出勤しました.

ちなみに,昨日から今日にかけて降った雨は,私の車の汚れを落としてくれましたが,さすがに雨は私の心のほこりを落としてくれたわけではありません.車にとっての雨に代わることを,私も日々探してつとめさせていただかなくてはと思いました.

共時性にあるおやの思い 

「意味のある偶然の一致」のことを共時性と呼びます.シンクロニシティとも言います.

偶然の一致ですので因果関係はありませんし,科学的には証明できませんが,複数の事象の意味に類似性があり,ある事象に随伴して別の事象が生じる場合を,心理学者のユングは共時性(シンクロニシティ)と呼び,宇宙の非因果的原理であるとしています.人智を超えた原理ということですかね.

しばらく会っていない友人をふと思い出し,元気にやってるかなぁ?と思いをめぐらしているところにちょうどその友人から電話がかかってきた,あるいはばったり会ったとか,夢で息子が帰ってくる夢を見て起きたらちょうど息子が家に帰ってきていたとか,不思議な偶然(偶然なんだけれども偶然とは思えないような)の経験ってしたことあると思います.こんなとき私たち信仰者は神様のお導きやお計らいとして捉えてそのことに感謝して通らせていただいているかと思います.

私たちは信仰生活において,やはり因果関係はないのだけれども身上や事情に随伴して生じてくる出来事に,先述のように親神様のお導きであるとか,親神様の思惑あってのことであるというように意味づけて,感謝して通り,心の成人をさせていただいているわけですが,こうした私たちの悟りの中には上述のように共時性として捉えられる一連の出来事もあるわけです.(事象間に類似性がなく,共時性がない悟りももちろん多いですが)

つまり,私はこの共時性という人智を超えた因果のない偶然というのも親神様のお働きによるものではないかと思うのです.誰も仕組めない,何も意図しないのにまるで導かれたかのように生じる共時性を単に共時性として終わらせるだけでなく,そこにおやの思いという視点を含めると,感謝の念と心の成長を得ることができるのではないかと思いました.

おたすけの位置づけ 

遅くなりましたが,IZAMUさんよりコメントをいただいたので,それについてお答えしたいと思います.

以前よりお聴きしてみたかったのですが、まおさん的には「精神科医」と「臨床心理士」、「精神保健福祉士」、さまざまな「カウンセラー」、さらには「お道のおたすけ」をどのように区別、関連、意義付けされておられるのでしょうか、


「精神科医」と「臨床心理士」,「精神保健福祉士」,さまざまな「カウンセラー」に関しては過去記事「精神科で働く人たち」を読んでいただければと思います.ここではそれらとお道のおたすけについて書きたいと思います.

まず,両者はどちらも対人援助という点では変わりません.したがって,精神科医療で仕事をしながらお道のおたすけをしていくということが今現在の私の理想としてあります.この先どうなっていくかはわかりませんが,「お道と臨床と」というブログを書いているのも両者の知識と経験をいかに交えて互いに生かしていくかを模索していくためでもわるわけです(一応は・・・).もっとも最近は色々な都合から趣旨が変わってきてほとんど日記風になっていますが.それは置いておいて,生計を立てていくための手段が,精神科医療での援助という「他者の人生がその人にとっていいようになっていく手だすけをさせていただくこと」であることはお道を信仰する私にとって合目的的です.

両者の区別ということですが,まず一般的な見解として,精神科医療で働くということはあくまでも生業であり,私生活との区別があります.一方,お道のおたすけはそれを生業としている方もいますが,私生活との明確な境界があるわけではなく,いつ何時でもできるということがあると思います.

前者はその役割を演じる時間的・空間的に限りがあり,同時にそのことが自分自身を守ることにもなっています.限られた時間帯と場所での援助ということです.限りがあることで自分自身のその他の役割(たとえば夫に対しての妻・子どもに対しての母親・母親に対しての娘など)を侵害されることなく果たすことができます.したがって「勤務時間ないしは職場環境によって守ってもらっている」というある程度の安心感があります.家に帰ると安堵する経験は誰にでもあると思います.24時間続けなければいけなかったとしたらさすがに参ってしまうでしょう.

後者は時間的・空間的に特に自分で設定しない限りは限りはないということがあると思います.限りがないということはその他の役割を同時にこなしながら援助を続けていくということです.時間的・空間的限界によって自分自身を守ることができない代わりに,私たちお道の信仰者はどうしているでしょうか?私たちには幸いにも「いつ何時でも親神様が守ってくださっている」という安心感があると思います.たとえ私生活との間に明確な境界がなくともその感覚で援助を続けていける面もあると思います.それでも人間ですから限界点はあると思いますが・・・.

さて,私がこの両者をどのように区別しているかと言いますと,仕事はあくまでも仕事です.それ以上の関わりをすることはありません.職業的役割関係以外に関係持ち込むことは職業倫理として禁じられているくらいです.また,そうすることが治療的だということもあります.ただ,その限られた時間内に関しては今の自分ができる限りの援助はさせていただかないといけないという思いはあります.役割の限界外でできることは日々親神様に自分が関わっている患者さんのために祈ること(会長からもよく言われます)と自分自身の経験値と技術をあげることでしょうか.前者は心がけるようにしていますが,後者は最近さぼっています.本当は研磨していかなければいけないのでしょうが・・・.一方,おたすけに関しては私は素人同然です.仕事の経験は今後生きてくるでしょうが,今のところ他者へのアドバイス程度です.会長の代わりにおさづけに行かせていただくことはたまにありますが,自分自身でたすけを必要としている人を探してにをいがけやおさづけをさせていただくというところまでは全然達していません.最近ようやくリーフレット配りを始めたくらいであります.

なんだか書きながら未熟で未熟でどうしようもなく情けなさを感じてきましたが,それが今の自分なのですから,それをそれと受け止めて今後の成人に期待したいと思います.IZAMUさん,こんなんで回答になっているでしょうか.

関連記事として以下も閲覧ください.
お道と臨床と(旧ブログ)
相談することの重み
精神科で働く人たち

リーフレット配りは種まき 

2006年9月30日の記事ですが,こちらも転載します.

現実生活の中ではお道の話をすることはおろかリーフレット配りさえ躊躇があったということは私に大きな影響を与えています.インターネット上でお道の話をすることには躊躇もありませんが・・・.

信仰とは本質的には神と自己を結ぶものでありますが,神と自己を結ぶ=神の思いに近づくことと思います.それは世界だすけの道であり,より多くの人に救かってもらいたいという思いを実践にうつしていくことです.自分がお道の信仰のおかげて救かっていると思うのであれば,それをより多くの人に伝えていくことはやはり大切なことなのではないかと思います.

たとえば,○○社の××製品を買って使ってみたら,とてもよい商品で買ってよかったと思うのであれば,それを自分だけ味わうのではなくより多くの人に味わってほしいと思うのがたいていの人の感覚であると思います.そして,試しに使ってみなよと近所の人や知人,親戚などに勧めるわけです.

信仰も同様なのかもしれません.よいものだから人にすすめるというごく自然のことです.ですが,簡単にはいかない・・・.観念的なものなので数字で証明しにくいということもあるかもしれません.また,宗教への偏見も多くあることと思います.見知らぬ人へのにをいがけは商品をすすめに家を回る営業マンと構造的には一緒ですから,簡単には成功しないのも当然かもしれません.

それでも,そのために費やした時間と尽くした心は親神様は受け取ってくださり,いつかその芽が出るのだと思います.会長がリーフレット配りは種まきだと言っていました.リーフレットから電話をかけてくる人はほとんどないけれども,まったく関係のないところから電話があってにをいがかかることもある,それも普段の種まきのおかげということだそうです.はっぴーさんも「にをいがけはおやさまへのお供え」とのコメントをくださいました.なるほど,理に適っています.また,さなさんのコメントにありましたように,「1000人に1人くらいは電話くださる方もいる」とのことですので,それ自体にも伝道の意味はあるのだと思います.ですが,基本的には見返りを求めるのではなく,自分自身あるいは教会の種まきとして位置づける方が私は納得がいきます.

今日の話はまとまりませんが,私は生まれながらにして素晴らしい宗教と出逢い信仰をしていると思いながら,それを人に伝える機会を持たず,また持とうともせず,自己愛的な生き方をしていたのかもしれないと思ったのです.そして「そのうち自分も」「いつかやろう」と思っているだけで刻が過ぎていることにも気がつきました.すぐに実践というわけにはいかないでしょうが,今までよりはほんの少しでもお道の勉強やにをいがけにつながることをさせていただこうと思いました.本当に自分を振り返るよい機会を親神様は下さったと思います.


と書いて,早いもので1年半が経とうとしていますが,ようやく一歩を踏み出したという感じです.後戻りしないように過ごしていきたいです.

リーフレット配りを通して己の無力さを知る 

2006年9月29日の記事ですが,久しぶりににをいがけに行ってきたので関連記事として旧ブログより転載します.

今日は午後からリーフレット配りに行ってきました.支部で何人かが集まり,とある団地を回りました.

手にリーフレットを持ち,団地内を歩いてポストにそれを入れて回るわけですが,自分は何も悪いことはしていないのに,妙に居心地が悪いのです.よかれと思ってリーフレットを配っているのに,なんだかとても悪いことをしているような気分になるのです.人の気配がある階段近くのポストはとばして次のポストに歩いていく自分の足取りがそれを物語っていたでしょう.きっと迷惑がられるんだろうなぁとか,読まずに捨てられちゃうんだろうなぁとか悪い考えが頭をよぎりましたが,その考えを振り払い,たとえ1枚でも目を通してもらえればそれでいいじゃないかと思い続けました.ですがやはり勇むというよりはいずんでいたような気がします.

これが何かのチラシ配り―たとえば割引券や広告などを配るアルバイトであれば,何の抵抗感もなくこなせたことでしょう.なぜチラシ配りは大丈夫なのに,天理教のリーフレット配りには居心地の悪さを感じるのでしょうか?そこにはおそらく社会的認知度が大きく影響していると思います.宗教の認知度は低く敷居も高いです.このことが自分がマイノリティであるという認識を団地の中で強く実感させ,受け入れられにくいと私に思わせます.そして,天理教は私のアイデンティティ(※)の重要な要素ですので,そのような実感をひしひしと感じることに居心地の悪さを感じたのだと思います.結局は私の未熟さなんですが・・・.(アルバイトであればそのチラシの扱われ方によって自分自身に何の影響もないので居心地の悪さは感じないわけです.)

そんなわけで,私は自分自身がまったくの裸で無力であるように感じました.病院で仕事をしていれば,こちらから足を運ばなくとも患者さんの方からやってきてくれます.白衣を着ていれば,たいていの人が訊ねたことに答えてくれますし,こちらの話も聞いてくれます.信頼を得られれば悩みも打ち明けてくれます.しかし,今日その場にいた私は,人に対してまったくの影響力を持たず,そして自分のやっていることにむしろ心許なさや後ろめたささえ感じていたのです.これまでにもにをいがけをしたことはありますが,今日ほど深く感じたことはありません.

一般的に宗教が敬遠される時世の中で,私は信仰はむしろ必要だと思っていて,その良さを少しでも伝えたいと思い,こうしてブログまで書いていますが,それをいざ現実社会の中で広めるための実践となると自分はあまりにも無力であると思いました.そんな自分をとても小さく感じました.

リーフレット配りの真の意味は伝道にあらず,他者に対しての影響力以上に自分自身に対しての強烈な仕込みになる,と思いました.裸の自分を知り,心を低く通らせていただくのにもってこいかもしれません.その心は神様が受け取ってくださるでしょうし,にをいはあとからついてくるものなのかもしれません.今日のリーフレット配りで自分は多くの有形・無形の存在に支えられてこの社会で生かされているということを改めて実感できました.

今回私は自分自身の未熟さを痛感したわけですが,このようなことを感じることなく,勇んでにをいがけをされている方はすごいなぁと思います.にをいがけをされている方,正直どのようなことを感じながらされていますでしょうか?


※アイデンティティとは自分らしさのことで,「自分とは何か?」「自分はどんな人間なのか?」「自分は何のために生きているのか?」などの問いに対する答えに該当すると思うとわかりやすいかもしれません.

リーフレット配り再び・・・ 

今日は午前中に彼女とリーフレット配りに行ってきました.

情けない話ですが実に1年半ぶりくらいです.今月より月に1回はにをいがけに出ると神様と約束したので行ってきました.彼女は初めての経験ですし,私も数回ほどの経験しかありませんので,まずはリーフレット配りからかなと思い,近所をぐるっと回ってきました.今日はとてもいい天気でしたので気持ちよくできましたし,いい運動にもなりました.

ただ,自分が知っているよいものを他の人にすすめるというごく自然なことが,まだ私には難しく感じられるようであります.むしろ初めての彼女の方が堂々としている感じでした.早く慣れたいと思います.

ところで,リーフレットは出来合いのものを配ったのですが,よく読むと表現が誤解を生む可能性があったり,私がしっくりくる表現と異なるものもありましたので,よく吟味して配る必要があると思いました.また簡単なリーフレットならWordで自分で作ってもいいのかなぁと思いました.今はその時間はありませんがおいおい検討していきたいと思います.


以下は関連記事になります.
リーフレット配りを通して己の無力さを知る(旧ブログより転載)
リーフレット配りは種まき(旧ブログより転載)

生かされているだけでありがたい 

今日はとてもありがたいことがありました.
今こうして,そしてこれからも私が生かされ続けられることは神様に守られているからに他なりません.そのことを忘れずに,この授かった命を人だすけのために少しでも使わせていただきたいと思います.私も28歳,にをいがけ,おたすけに行かないのを仕事を理由にいつまでも正当化するわけには行きません.生活の中に少しでも取り入れたいと思います.
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 1日 消防団訓練
 3日 おぢば帰り
 8日 屋根塗装ひのきしん
 9日 消防団警備
17日 月次祭
24日 神社鳳笙吹き
30日 研修
31日 研修 

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