「信仰」は宗教的なものを信じ尊ぶ自覚的な態度をいう.それに対して「信心」は加護を願って一心に神仏やその教えを信じる心をいう.
むりにどうせといはんでな そこはめい/\のむねしだい (みかぐらうた 七下り目 六ツ)
「金や物でないで.救けてもらい嬉しいと思うなら,その喜びで,救けてほしいと願う人を救けに行く事が,一番の御恩返しやから,しっかりおたすけするように.」(72 救かる身やもの)
「命あっての物種と言うてある.身上がもとや.金銭は二の切りや.今,火事やと言うたら,出せるだけは出しもしようが,身上の焼けるのも構わず出す人は,ありゃせん.大水やと言うても,その通り.盗人が入っても,命が大事やから,惜しいと思う金でも,皆出してやりますやろ.
悩むところも,同じ事や.早く,二の切りを惜しまずに施しして,身上を救からにゃならん.それに,惜しい心が強いというは,ちょうど,焼け死ぬのもいとわず,金を出しているようなものや.惜しいと思う金銭・宝残りて,身を捨てる.これ,心通りやろ.そこで,二の切りを以て身の難救かったら,これが,大難小難という理やで.よう聞き分けよ.」(178 身上がもとや)
「互い/\知らし合い,互い/\の研究諭し合い道という」(明治24.11.25)
やはり,おつくしをしなければ,たすけていただくことはできません.これは理屈ではありません.おつくしを一生懸命することで,神様の御恩も分かってくるのです.
(中略)
「おつくしは,嘘偽りのない真実や」と.身上などのふしに際して,私たちはよく,「これからは絶対不足しません」「これからは主人を立てます」「低い優しい心で通ります」「低い優しい心で通ります」などと心を定めます.しかし,こうした心定めは,神様に約束手形を出したようなもので,往々にして不渡りになります.ところが,おつくしはいくら惜しみの心があっても,形のあるものを出しますから,うそではありません.ふしに際しては,まずおつくしをすることです.おつくしをすることで,理立てとなり,自分が定めた心定めも実行できるようになっていくのです.
(中略)
おつくしをしてもらわなかったら,徳を積んでいただけませんし,信仰も切れてしまいます.
さあ頼もしい/\心供えば受け取る/\。泣く/\するようでは神が受け取れん。百万の物持って来るよりも、一厘の心受け取る。(明治35.7.20)
「そっちで力をゆるめたら,神も力をゆるめる.そっちで力を入れたら,神も力を入れるのやで.この事は,今だけの事やない程に.」(174 そっちで力をゆるめたら)
私には今妊娠6ヶ月になる妻がいます.無事元気な赤ちゃんが生まれることを願うばかりですが,お道では「をびや許し」という安産の願いがあります.私の信心する神様は親神様と申し上げますが,親神様を信じて凭れきっていれば,出産も何も危ないことはなく,安産のご守護がいただけると言われています.事実,わたしも母のをびや許しを経て無事生まれさせていただき,今日に至っているわけです.15日に私もをびや許しをいただく予定です.をびやさえいただげば安産は間違いはありません.では,何故をびや許しには安産のご守護があるのでしょうか.
私たち人間はそれぞれ父・母より生まれたことはご存知のことと思いますが,それは親から言われたことをそう信じているだけで誰もこの目では見ていません.私たちの親々を含めて元々の人間の親は誰なのか,そもそも人間はいかしにして作られたのか,ということを知らない方は多いと思います.親神様は私たち人間が陽気にくらす姿を見て共に楽しみたいゆえから,私たち人間を作られました.ですから,私たち人間の元の親なわけです.それを教祖であるおやさまを通して教えられたのがお道です.親がそう教えたのですから子である私たちはそれを疑う術はありません.創造主である親ですから,子どもを無事生まれさす方法も知っていて私たちに教えてくださっているわけです.神様が教えてくださったのはそれだけではありません.人がどう生きれば人生を明るく楽しく過ごせるかも教えてくださっています.
私たちのこの身体は神様からのかりものであります.かりものですから病気もしますし怪我もしますし,いつかはお返ししなければなりません.心一つが我がの理と教えられ,心だけが自分のもので思い通りに使えるのです.自由に使える心で私たちはどんな心遣いもできます.好き勝手に振舞うもよし,利益ばかりを求めるもよし,人を思いやるもよしです.しかし,人間が陽気ぐらしという皆が明るく楽しくたすけあって過ごすために作られたことを考えれば,どんな使い方をするのが神様の思いにかなうのかは明らかですね.そうです,この心を我さえよくばと自分勝手に使うのではなく,人のために使い,皆が仲良く気持ちよくくらせるような使い方をさせていただけばよいのです.この世は親神様が作られた天然自然の理によって成り立っています.人のためにこの心と身体を使わせていただくことが理にかなった生き方であり,それを心がけることで自分自身にもあらゆる面でよい巡り合わせがやってくるようになります.「まいたるたねはみなはえる」という言葉に教えられているように,人のためによい種をまかせていただくことが自分自身によい芽が出ることにつながるのです.これが自然の理であると言うことは皆さんも経験的に知っておられることと思います.りんごの種からみかんの実は成りません.りんごの種をまけば実るのはりんごなのです.
また,かりものである身体は自分の思い通りにはなりませんし,人生にも思い通りにならないことはあります.もし,病気や怪我,あるいはどうにもうまくいかないことがあったら,親神様の名前を思い出してください.かりものである身体に神様は印をつけて私たちにメッセージをくださっています.「よくやってくれているがもう少し皆が陽気に過ごせるよう成長してくれんか」という神様からの手紙として受け取ることで,いやなことであってもそれだけに終わらず,自分の心を振り返り,清く澄んだ心へと成長をしていくことができるのです.神様の思いに沿った心でいれば明るく楽しい幸せな人生が送れるので,言わばこの教えは幸せになるための道しるべと言えると思います.だからお道と呼んでいます.お道の教えを知り,皆様の心におさめていただくことで,人生は今まで以上に豊かなものになると思います.
生まれてくる子も今生きている人も親神様の目から見れば皆かわいいわが子,常に余すことなく注がれている親心に気付き,与えを喜び感謝し,幸せに過ごす道を歩むために是非お近くに教会がありましたら足を運んでみてください.
とありますように,子どもを授けるのも親神様のお働きでありますし,生まれ出すのも親神様の働きであります.人間を創造された親である親神様が人間のふるさとである元のぢばから出される安産の許しでありますから,親神様を信じて凭れていれば何の心配もいりません.たいないゑやどしこむのも月日なり むまれだすのも月日せわどり(6号 131)
とありますように,人間の親である親神様に私たちはたくさんの与えをいただいており,それを素直に受け取り感謝していく心になっていくことが大切です.たん/\となに事にてもこのよふわ 神のからだやしやんしてみよ(3.40)
とあります.すでに子どもの親になられた方は経験されていることでしょうが,親とは子どもに無償の愛を与え,自分に利益がなくとも子どもが喜ぶ姿を見て喜びを得るものと思われます.子が満足する,喜べるよう,させていただくことが親の役割,そして子が満足し,喜ぶ姿を共に喜べるようになることが「親心」であると思います.広く言えば,相手に尽くすことで自分自身が喜びを得る,それが親心です.これは何も自分の子どもに対してだけではありません.たとえ親にならずとも,人は誰に対してでも親心を使えるのです.言葉かけ,気遣い,贈り物,どんなことでも相手に尽くし,相手が喜ぶ姿を見て自分も嬉しい,楽しいと感じたならばその心は親心と言えるでしょう.子が満足して親と言う。どんな事も、成らん処育てるが親の役、親が腹を立てゝはどうもならん。これをよう聞き分けてくれ。(M31.11.13)
つまり,ほこりが積もり重なれば悪いんねんとなりますが,ほこりを払い徳を積んでいくことで白いんねんにもなるわけです.現れていることは皆親神様が個人の魂に合わせて見せてくださっているものであり,そのことをすべていんねんと呼ぶわけですが,とりわけ悪いいんねんばかりが話として持ち出されてきた背景があり,悪いイメージを持ってしまう場合があるのではないかと私は思います.また,白いんねんは単に徳という言葉に置き換えられて使われている感じもあると思っていて,いんねん=悪いんねんと捉えられがちな風潮が漫然とあるのではないでしょうか.いんねんの教えが間違っているとはまったく思いません.おやさまの教えに間違いはありません.間違いがあるとすれば,それを受け取り使ってきた人間の理解の仕方だと思います.世界にもどんないんねんもある.善きいんねんもあれば,悪いいんねんもある.(M28.7.22)
どれだけいんねんじゃ,いんねんじゃと言うても,白いんねんもある,悪いんねんもある.(M31.9.30)
Author:まお & あいこ
まお:お道を信仰するよふぼくであり,教会子弟です.現在は精神科で働いています.
あいこ:お道を信仰するよふぼくであり,まおと出逢って入信しました.現在は精神科で働いています.