お道と臨床と~心づくりのたね~

お道(天理教)と臨床心理学の視点を含めて,まおという人間が考える日々の通り方や考え方について綴っています.日記風なこともわりとあります.

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信仰より信心? 

信心と信仰の違いって何だろうと最近考えています.

原典に「信仰」という言葉はおさしづに「信心信仰」という表現で一度だけ,一方,「信心」はみかぐらうたに6回,おさしづには34回出てきます.逸話篇を見てもおやさまのお言葉で信仰という表現はありません.皆「信心」となっています.

このことから考えて,親神様の求められるものは信仰ではなく,信心ということが考えられるのではないかと思います.大辞林には次のようにあります.

「信仰」は宗教的なものを信じ尊ぶ自覚的な態度をいう.それに対して「信心」は加護を願って一心に神仏やその教えを信じる心をいう.


おやさまご在世当時は宗教として教えがあったわけではなかったから単に信心という表現だったのかもしれませんが,それだけではないように思います.漢字で見れば違いは「仰」か「心」かの違いです.神人和楽の世界,かしもの・かりものの理により心一つが我の理という真理,などから考えると,親神様の思いとしては親神様を見上げて尊敬するという人と神との間に絶対的な距離と上下関係を生む「仰」よりは,親神様の教えを心におさめ人をたすける心に成人させていただく,言わば神の心に自らの心を近づけていく努力を続けていくという意味合いでの「心」の方にあるのではないかと思うわけです.私という人間の身体にはすでに親神様の十全のお働きがあり,親神様と共にあるわけですから,神と「仰ぐ」姿勢よりも体内での親神様の働きに応えるべく「心」を親神様の思いに近づける姿勢の方が大切なのではないかと.後者の方が神人和楽な気がしますし.

これは私の推測に過ぎませんが,神言としてなぜ信仰ではなく信心なのかということの意味は考えてみると非常に奥が深いのではないかと思います.何かこれに関して話を聞いたことがあればコメントいただけるとありがたいです.
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教会の姿 

数ヶ月前よりある信者さんが朝づとめに日参しておられます.週末には一家揃って朝づとめに参拝します.さらに,ちょっと前からは別の信者さんが朝づとめに参拝されるようになり,うちの教会はかつてない朝の賑わいの姿を神様に見せることができています.今朝はこたつで転がっている次男も含めると神殿に12人もの人がいました.

私が子どもの頃は子どもたちだけで5人いましたし,毎日賑やかでしたが,父をはじめ祖父母が出直し,また子どもの成長に伴い,1人また1人と家を出,人は減っていきましたが,世代が移り,私も親となり子どもも2人授かり,これからどんどん賑やかになっていくように思います.そこに家族だけでなく,自ら思い立ち参拝してくださる方も合わせて賑やかにつとめられることをとてもありがたいと思います.

これこそがこの道の信仰の姿であり,きっと神様が喜ばれる道なのだろうと私は思います.もちろん常に人が揃っていればそれはありがたいことですが,末代まで続く教会の姿には人が集まる時期もあれば集まらない時期もあるかと思います.父が会長になった頃は月次祭に10人もいないということもざらだったようですが,今は祭典日には20数名の方にお集まりいただいています.成ってくるのが天の理と言うように,今がそれが教会の徳分と今ある姿を喜びたんのうして通る,そういう中にこそ先につながる道が自然とできるのかもしれないなぁと思います.

むりにどうせといはんでな そこはめい/\のむねしだい (みかぐらうた 七下り目 六ツ)

雨の中より思う 

今日は雨の中久しぶりにバイクで出勤しました.

私とあいこには車とバイクが1台ずつあります.そしてあいこはバイクに乗れません.よってあいこに車が必要なときには必然的に私はバイクとなります.車2台となると維持が大変ですのでそれはそれでいいのですが,雨の日にバイクに乗るというのは非常に稀なんです.というか稀になったんです.そもそも私が勤めに出た頃は父が出直してまだ1年ちょっとというときでしたし,私も車を買うお金がなかったもので2年間は寒かろうと,雨だろうとバイク通勤をしていたわけです.当時は訪問の教育相談もしていましたので,雨の日はそれは大変でした.カッパを着て生徒の家まで行き,家の前でカッパを脱ぎ,訪問を済ませるとまたカッパを着て次の家へ移動し,またカッパを脱ぎ・・・と.まぁ訪問といっても何十件もあるわけではなく,数件でしたが.しかし,面倒でしたし,スーツが濡れて家人に迷惑をかけたこともあったのではないかと思います.

その後,働いて貯めたお金で軽自動車を購入したので(教会兼用),電車に乗る必要があるときには駐車料金を抑えるために雨でも冬でもバイクに乗りますが,天気が悪い時,寒い時期などは車に乗るようになりました.2年前に結婚しましたが,当然ながらあいこの嫁入り道具に自動車はありませんでしたので,2人で1台を使っているわけです.同じ職場で基本的に一緒に通勤していたため,バイクの出番はあまりなく,電車に乗るときとたまに近場に買い物を頼まれたときに乗る程度でしたが,今はまた1人出勤ですので専らバイクです.私が車に乗っていくと,長男とあいこが出かけられないというのもありますし.

そんなわけで今日は雨でしたが,あいこが車を使いたいということでしたので私はバイクで出勤したのでした.前置きが長くてすいません.

雨の日のバイク通勤は大変ですが,元一日に帰り昔の苦労を思い出すと共に,普段車で通えることのありがたさを存分に味わえるよい機会でもあるわけです.今朝の私はカッパに手袋に長靴に身を包み雨に打たれながら走っていたので,傍から見ると気の毒にさえ映ったかもしれませんが,私個人の心の中には(確かに今雨の中を走ること自体は大変だけれども)ありがたいなぁという気持ちがありました.お道を信仰する人間としてはこれはこれで申し訳ない話でもあり,車で行くときも今それができることに感謝しろよって話なんですが.人間今あることに慣れてしまうとなかなかどうしてそれが当たり前になってしまい,感謝するということを忘れてしまいがちです.

この身体だってそうです.親神様よりお借りし,そのご守護によって結構に通らせていただいているわけですが,何事もなく健康に過ごしていると,ついそのことが当たり前になってしまい,感謝を忘れてしまいます.そして,体調を崩したり怪我をしたときにそのありがたさに気がつくのです.しかも,そのことに気づき感謝するのは一刻でしばらくするとまたそのありがたさを忘れ,同じ過程を繰り返し通るのですから,人間っていうのはニワトリほど忘れっぽくはしないにしろ,特に感謝を忘れやすい生き物なのだなぁと思います.忘れやすいからこそ,日々の参拝やおつとめ,ひのきしん,また月々の月次祭という形で習慣付けていく必要があるのかもしれません.私も例外なく忘れやすい生き物ですのでそのことを肝に銘じて日々を過ごしていきたいと思います.

雨の中を久しぶりにバイクで走りながら思ったことを綴ってみました.


関連記事になります.
雨を見ながら思ったこと
雨の中のSV
雨を見ながら・・・

広告:道の心理臨床家の集い 2010 in 天理 

7月11日の天理時報(第4188号)に以下の記事が載っています.
私も昨年同様,参加の予定でいます.
⇒ウェブサイトはこちら

"心のおたすけ"の輪広げよう!
「道の心理臨床家の集い 2010 in 天理」

「道の心理臨床家の集い 2010 in 天理―道の心理臨床家のつながりを求めて」(主催=同幹事会)が10月10日,親里で開催されることになった.
昨年に続くこの「集い」は,心理臨床に携わる全国各地の教友がネットワークをつくり,互いに研鑽して信仰を深めようというもの.布教部の協力のもと,お道につながる臨床心理士などから成る同幹事会が中心となって準備を進めている.
今回のテーマは,「道の心理臨床家のつながりを求めて」.午前には,臨床心理士で元天理大学教授の堀尾治代さん(同「集い」顧問)が「宗教と心理臨床」と題して講演.続いて,臨床心理士で梅満分教会長の宮崎伸一郎さん(同「集い」代表)と堀尾さんによる対談が行われる.このほか,午後には少人数制での交流会も開かれる予定.
参加資格は,①臨床心理士などカウンセリング関係の資格を有する者,②臨床心理学・カウンセリングにに関する学習歴を有する者(大学水準以上),③臨床心理学・カウンセリングを学んでいる大学生および院生,④臨床心理学・カウンセリング関連領域(精神医学など)に関する資格を有する者.いずれも,ようぼく・信者を対象としている.
代宮崎さんは「心理臨床に携わっている教友の中には,信仰実践としての『おたすけ』と,職業としての『カウンセリング』の境界線に悩んでいる人も少なくない."心のおたすけ"を実践する専門家の輪を広げていくためにも,一人でも多くの人に『集い』に参加していただきたい」と呼びかけている.

◆日時
 10月10日(日)
 午前9時~午後4時
◆会場
 おやさとやかた南右第2棟3階
◆参加費
 一般1000円,学生500円(昼食代を含む)
◆締切
 9月30日(木)消印有効
◆申し込み・問い合わせ
 郵便番号,住所,氏名(ふりがな),生年月日,性別,電話番号,メールアドレスかファクス番号(参加確認の返信用),直属・所属教会名,満たしている参加資格を明記のうえ,ハガキ,ファクス,メールのいずれかで下記事務局へお申し込みください.

【事務局】
〒632-8501
天理市三島町271 布教部庶務課内
FAX 0743-63-7578
Eメール ※


※掲載することにより,大量の迷惑メールが送信されないようにするためにアドレスは掲載しません.ご了承ください.上記ウェブサイトの活動案内からメールを送ることはできるようです.


関連記事になります.
道の心理臨床家の集い 2009 in 天理

免許更新より思う 

今日は運転免許証の更新に行ってきました.ついに初のゴールド免許です.

講習で見せられたビデオを見て,車の運転はいつも事故と隣り合わせということを感じました.
ちょっと急いでたりして注意を怠ると,事故につながりかねない場面は多々ありますし,私自身もちょうど人や車がいなかったからよかったものの人がいたら大変なことになっていたケースはあったと思います.

何気なく毎日車に乗っていますが,常に守られているんだなということを改めて感じました.1つには交通ルールを守るから交通事故から守られるということがもちろんありますが,広く見れば人生の大難から守られるためには,人生のルールを守らなくてはいけないというところに行き着きます.人生のルールとはおやさまの教え,お道の教え,人間の存在目的に合うようこの心と体を使わせていただくことであります.そう思うとお道を知っていて本当によかったと思います.

守るから守られる,これも自然の摂理なのでしょう.これからも無事故で通らせていただけるよう,交通ルールを守るとともに,事故という縁をいただかぬようお道の教えも守っていきたいと思う今日この頃であります.

おつくしの意味(2) 

未読の方は以下をお読みください.
おつくしの意味(1)

前回,おつくし=金品ではないという話をしました.

逸話篇においても,おやさまはご恩返しの手段としては金品よりも人だすけをさせていただくことの重要性を説かれています.ここでいうご恩返しとは真実の心を尽くすということでしょうから,おつくしと同義として捉えて差し支えないと思われます.

「金や物でないで.救けてもらい嬉しいと思うなら,その喜びで,救けてほしいと願う人を救けに行く事が,一番の御恩返しやから,しっかりおたすけするように.」(72 救かる身やもの)


しかし,一方で逸話篇にあるように,おやさまは「金銭は二の切り」とも教えられ,大難小難の理とし金銭を惜しまず施すことの重要性を説かれています.欲を離れて各人の真実の心でもって「おつくし」の手段として金品のお供えをさせていただくことも大事なことなのでしょう.

「命あっての物種と言うてある.身上がもとや.金銭は二の切りや.今,火事やと言うたら,出せるだけは出しもしようが,身上の焼けるのも構わず出す人は,ありゃせん.大水やと言うても,その通り.盗人が入っても,命が大事やから,惜しいと思う金でも,皆出してやりますやろ.
悩むところも,同じ事や.早く,二の切りを惜しまずに施しして,身上を救からにゃならん.それに,惜しい心が強いというは,ちょうど,焼け死ぬのもいとわず,金を出しているようなものや.惜しいと思う金銭・宝残りて,身を捨てる.これ,心通りやろ.そこで,二の切りを以て身の難救かったら,これが,大難小難という理やで.よう聞き分けよ.」(178 身上がもとや)


これまでの話を整理するに,「おつくし」とは先述したように人のために真実の心を尽くすことであり,その手段としての尽くし方は様々であります.殊,身上・事情のたすけの願いに関しては二の切としての金銭の施しは大難小難の理という重要な意味を持つと同時に,親神様の望まれる人だすけ―人のために心を尽くすことが大切であります.一方,親神様への「報恩感謝」に対しては金銭よりもむしろ人だすけ―人のために心を尽くすことが大切であると言えるでしょう.そして,願いであっても感謝であっても人のために心を尽くすことが大切という点は共通していますし,そもそもこの教えは感謝ありき,常に注がれている親神様のご守護に感謝するところから始まりますから,たすけを願う場合であっても,まず現状与わっているご守護に感謝を捧げることが先行します.その上での願いです.つまり,願いには自ずと感謝が含まれてくるのです.このように考えると,二の切の金銭のおつくしも大切でしょうが,それ以上に,金銭に限らず人のために心を尽くすことが最も大切であるということが理解できると思います.

繰り返しになりますが「おつくし」とは人のために真実の心を尽くすことであります.その肝心要は心のあり用です.心ゆえ無形であります.親神様がちゃんと見ていて,天の帳面につけてありますからおつくしの形にこだわる必要はないのだと思います.この道は教えを聞くことで心が勇めないといかんです.人によって立場・状況は変わりますから,その人が勇めるよう「おつくし」の意味を伝えたいものです.

この道を伝える者が「おつくし」の意味を勘違いしてしまうと,せっかくの素晴らしい教えが世間から誤解される恐れがあります.おやさまの教えは間違いのないものであるだけに,そうした誤解が起こらないよう私たち教えを継ぎ伝える者は神意を人間思案からではなく,神一条に思案する必要があると思います.どうあれば親神様・おやさまはお喜びになるか,その元は神意が説かれている「みかぐらうた」「おふでさき」「おさしづ」の三原典に発します.加えて天理教教祖伝や逸話篇を親神様・おやさまの思いを知るのに参照することは大切でしょう.人が言ったことをそのまま鵜呑みにするだけでなく,それが神意に沿うかどうかを常に考える姿勢を持つことが大切だと思いました.(切に感じながらも私自身も勉強が足りませんのでこれは自分に対する戒めでもあります.)もっとも,それを経ても我が身かわいさから人間思案が混じるのが人間ですから,互いに談じ合い,神意を求めていくことが大切なのだと思います.

おさしづに以下の一節があります.

「互い/\知らし合い,互い/\の研究諭し合い道という」(明治24.11.25)


青年求道者講習会の講義録とのことですので,私を含めてこれから道を求めていく人たちがこの講義録を読んで何かを学ぶ際に,親神様の思いに沿わない間違った解釈をしてしまっては申し訳ありませんので,至らないながら私の考えるところで述べさせていただきました.これは今の私が考えるところでありますが,今後原典を知るにしたがって変わっていく可能性もあります.これが正しいかどうかはおやさまの道すがら,原典で繰り返し述べられているをやの思いと照らし合わせれて判断していただければと思います.

おつくしの意味(1) 

「教会と信仰」と題して,第54回青年求道者講習会の講義録があらきとうりょう238号に載っていました.気になる点があったので若干引用します.

やはり,おつくしをしなければ,たすけていただくことはできません.これは理屈ではありません.おつくしを一生懸命することで,神様の御恩も分かってくるのです.
(中略)
「おつくしは,嘘偽りのない真実や」と.身上などのふしに際して,私たちはよく,「これからは絶対不足しません」「これからは主人を立てます」「低い優しい心で通ります」「低い優しい心で通ります」などと心を定めます.しかし,こうした心定めは,神様に約束手形を出したようなもので,往々にして不渡りになります.ところが,おつくしはいくら惜しみの心があっても,形のあるものを出しますから,うそではありません.ふしに際しては,まずおつくしをすることです.おつくしをすることで,理立てとなり,自分が定めた心定めも実行できるようになっていくのです.
(中略)
おつくしをしてもらわなかったら,徳を積んでいただけませんし,信仰も切れてしまいます.


ここで言うおつくしとは「形のあるもの」と書いてますので,文脈的に所謂お供え(つまり物や金)のことを指しているのだろうと最初読んだ感じでは思いましたが,そう解釈すると親神様・おやさまの思いとは異なると思いますので,そう限定して捉えない方が親神様の思いに沿うでしょうし,理に適っていると思います.私の第一印象同様間違って理解する人がいるといけないので思うところを綴ります.

おつくしの本来の意味は「真実の心」を尽くすことであると思います.親神様への日々の感謝を込めて,また,たすけてもらいたい一心から,互いに仲良くたすけあう姿を見たいという親神様の思いに適うよう「人のために」「真実の心」を尽くすことがおつくしであり,その手段として金銭や物,時間,労働力などがあるわけです.それぞれの立場・状況が違うように,手段にもできるものとできないものがあり,尽くし方もそれぞれ異なるわけで,おつくしとは必ずしも金品のことを指すのではありません.大事なのは当事者が心を尽くして自分の精一杯のことをさせていただくことであります.惜しんでするようでは神様は喜ばれません.真実の心を親神様は何よりも喜ばれます.それは以下のおさしづからもうかがえます.

さあ頼もしい/\心供えば受け取る/\。泣く/\するようでは神が受け取れん。百万の物持って来るよりも、一厘の心受け取る。(明治35.7.20)


そして,尽くした分は受け取り働いてくださいます.逸話篇においても繰り返し「神の方には倍の力」ということで教えてくださっていますし,同様逸話篇に以下のお言葉もあります.

「そっちで力をゆるめたら,神も力をゆるめる.そっちで力を入れたら,神も力を入れるのやで.この事は,今だけの事やない程に.」(174 そっちで力をゆるめたら)


ここで比喩的におやさまが伝えていることは先述した人のために力・心を尽くすということでしょう.尽くした分は神様も力を入れて働いてくださるのですから,各人の置かれた立場・状況から精一杯のおつくしとして人のために心を尽くすことは大事です.ですから,おつくし=真実の心を尽くすことであり,おつくし=金品ではありませんし,そのような伝え方をしてはいけないと私は思います.


続きは以下をお読みください.
おつくしの意味(2)

路傍講演原稿 

未読の方はまず以下をお読みください.
三日講習会Ⅲ

三日講習での路傍講演の記事です.当時は懸命に書きましたので気付きませんでしたが,今読み返すと修正点はたくさんあります.ほとんどの人が聞いていませんでしたが,心は勇んでたように思います.最寄り駅でもそのうちさせていただきたいと思っているところですが,いつからかは未定です.

私には今妊娠6ヶ月になる妻がいます.無事元気な赤ちゃんが生まれることを願うばかりですが,お道では「をびや許し」という安産の願いがあります.私の信心する神様は親神様と申し上げますが,親神様を信じて凭れきっていれば,出産も何も危ないことはなく,安産のご守護がいただけると言われています.事実,わたしも母のをびや許しを経て無事生まれさせていただき,今日に至っているわけです.15日に私もをびや許しをいただく予定です.をびやさえいただげば安産は間違いはありません.では,何故をびや許しには安産のご守護があるのでしょうか.

私たち人間はそれぞれ父・母より生まれたことはご存知のことと思いますが,それは親から言われたことをそう信じているだけで誰もこの目では見ていません.私たちの親々を含めて元々の人間の親は誰なのか,そもそも人間はいかしにして作られたのか,ということを知らない方は多いと思います.親神様は私たち人間が陽気にくらす姿を見て共に楽しみたいゆえから,私たち人間を作られました.ですから,私たち人間の元の親なわけです.それを教祖であるおやさまを通して教えられたのがお道です.親がそう教えたのですから子である私たちはそれを疑う術はありません.創造主である親ですから,子どもを無事生まれさす方法も知っていて私たちに教えてくださっているわけです.神様が教えてくださったのはそれだけではありません.人がどう生きれば人生を明るく楽しく過ごせるかも教えてくださっています.

私たちのこの身体は神様からのかりものであります.かりものですから病気もしますし怪我もしますし,いつかはお返ししなければなりません.心一つが我がの理と教えられ,心だけが自分のもので思い通りに使えるのです.自由に使える心で私たちはどんな心遣いもできます.好き勝手に振舞うもよし,利益ばかりを求めるもよし,人を思いやるもよしです.しかし,人間が陽気ぐらしという皆が明るく楽しくたすけあって過ごすために作られたことを考えれば,どんな使い方をするのが神様の思いにかなうのかは明らかですね.そうです,この心を我さえよくばと自分勝手に使うのではなく,人のために使い,皆が仲良く気持ちよくくらせるような使い方をさせていただけばよいのです.この世は親神様が作られた天然自然の理によって成り立っています.人のためにこの心と身体を使わせていただくことが理にかなった生き方であり,それを心がけることで自分自身にもあらゆる面でよい巡り合わせがやってくるようになります.「まいたるたねはみなはえる」という言葉に教えられているように,人のためによい種をまかせていただくことが自分自身によい芽が出ることにつながるのです.これが自然の理であると言うことは皆さんも経験的に知っておられることと思います.りんごの種からみかんの実は成りません.りんごの種をまけば実るのはりんごなのです.

また,かりものである身体は自分の思い通りにはなりませんし,人生にも思い通りにならないことはあります.もし,病気や怪我,あるいはどうにもうまくいかないことがあったら,親神様の名前を思い出してください.かりものである身体に神様は印をつけて私たちにメッセージをくださっています.「よくやってくれているがもう少し皆が陽気に過ごせるよう成長してくれんか」という神様からの手紙として受け取ることで,いやなことであってもそれだけに終わらず,自分の心を振り返り,清く澄んだ心へと成長をしていくことができるのです.神様の思いに沿った心でいれば明るく楽しい幸せな人生が送れるので,言わばこの教えは幸せになるための道しるべと言えると思います.だからお道と呼んでいます.お道の教えを知り,皆様の心におさめていただくことで,人生は今まで以上に豊かなものになると思います.

生まれてくる子も今生きている人も親神様の目から見れば皆かわいいわが子,常に余すことなく注がれている親心に気付き,与えを喜び感謝し,幸せに過ごす道を歩むために是非お近くに教会がありましたら足を運んでみてください.

をびや許し 

おふでさきに

たいないゑやどしこむのも月日なり むまれだすのも月日せわどり(6号 131)

とありますように,子どもを授けるのも親神様のお働きでありますし,生まれ出すのも親神様の働きであります.人間を創造された親である親神様が人間のふるさとである元のぢばから出される安産の許しでありますから,親神様を信じて凭れていれば何の心配もいりません.

普通の御供さんはおやさまにお供えしたものでありますが,をびや許しの御供は年間を通して不定期に行われるをびやづとめでかんろだいにお供えして安産の願いをかけたものです.

御供は3つの袋に分かれていまして,袋も中身も皆同じものですが,いただく時期が違います.まず1服目は「身もちの御供」,これは家に帰ったらさっそくいただくもので,出産まで身持ちよく母親も元気に赤ちゃんも健やかに育つよう親神様にお願いしていただきます.2服目は「早めの御供」,陣痛が始まったら出産させていただきたい時間を仕切ってのお願いしていただきます.3服目は「治め清めの御供」,出産後に産後の肥立ちが順調であるようお願いしていただきます.

そもそも親神様が人間が陽気ぐらしをするのを見て共に楽しみたいゆえから,地と天とを型取りて夫婦をこしらえたわけですから,夫婦が親神様の思いにかなった陽気ぐらしができるよう夫婦仲良く通らせていただくことが大事であります.その心で神様に凭れきっていれば間違いはありません.


三日講習終了後の15日,私は単身をびや許しをいただいて参りました.過去に何度かほのめかしてはいたのですが,現在21週目です.あいこも一緒に行ければよかったのですが,母体の大事をとり一人で行ったのです.そこで上記のような話を聞かせていただいたのでした.そして,人間宿し込みの場所であるぢばの一点にお供えしておつとめをした御供が働かないわけがない,これは絶対のものだと確信しました.

今日もあいこは検診でした.前回4日の検診で赤ちゃんが少し下がっていると言われ,無理をしないようにということを言われました.通常この時期は1ヶ月毎の検診ですが2週間後の今日経過を見せに行ったのです.前回より赤ちゃんは5mm上に上がったようですが,これ以上は上がることは考えにくい人のことで,子宮が収縮して赤ちゃんがこれ以上下に下がらないよう,はり止めなどいくつかの薬が処方されました.副作用の強い薬のようですが,どんなに辛くても飲んでくださいとのことだったようです.下がると早産の危険性があるのでこれは守らないといけません.をびや許しをいただいて神様に凭れて通らせていただけば安産の御守護をいただけると思いますので,毎日のおさづけにおつとめ,ひのきしんと勇んでつとめさせていだきたいと思います.

あいこも赤ちゃんを第一に考えながらも日々を勇んで喜んでつとめてくれています.私たちに子どもを宿し仕込んでくださった親神様に感謝することは言うまでもありませんが,この命が無事生まれるよう夫婦ともども引き続き喜び勇んで過ごさせていただきたいと思います.

お道と臨床と(4) 

今夏の道の心理臨床家の集いを迎えるにあたって考えていたお道と心理臨床について,今の自分が考えることを綴ります.だめの教えと対人援助の学問ですから,そもそも異なるのですが,互いに活用できる部分もあると思います.今回は異同について書いてみたいと思います.また,これは今の私自身が考えることで今後いかようにも変わってくるものでもあります.

まず,重なる点を2点先に挙げておきます.1つ目は人の援助に活かせるということ.2つ目は自分が上手く生きるために活かせるものであるということです.しかし,世の中の道理・真理を説いているのがお道の教えであり,一方,心理臨床学は人間の心を研究する一学問でありますが,つきつめればこの世界に見せていただいているものはすべて親神様からのかりものと考えられますので,お道の教えの実践に生かすために親神様のお与えくださったものという点ではそもそも区別されます.

続いて,異なる点を挙げていきますと今思いつく限りは4点ほどあると思います.1つ目は基本的枠組み,2つ目はモデル,3つ目はライフサイクル,4つ目は援助などのあり方です.

お道は全人類の陽気ぐらしによる救済を目的としていて,自分自分が対象ではなく基本はすべての人々であり,すべての人が仲良く陽気にくらすために自分がどうあるかという「全ありての個」という捉え方があります.その一方で,心理臨床の理論は基本的には個についてを扱っていることが多く,個が適応するために全との関係を扱うことはありますが,あくまでも個が充実するための全であり,これが全が充実するための個というお道とベクトルがまったく異なる点ではないかと思います.つまり,お道は皆の陽気ぐらし実現のために個々が存在しているというのが基本的な枠組みであり,心理臨床は個の自己実現のために全との関係をどのように生かしていくかというのが基本的な枠組みであるように思います.

個のあり方についても決定的な違いがあり,お道には陽気ぐらしの雛型としてのおやさま50年の道すがらが示されていて,個が何を目指せばいいのかの道がはっきりと共通のモデルとして示されています.それに対して,心理臨床にはこうした雛型はなく,個が自己実現のために必要に応じてモデルを探していくということがあるように思います.人間の真にあるべき姿,陽気ぐらしを導く心のあり方が雛型がない分,心理臨床は自由度は高いと言えるかもしれませんが,親神様が望まれる生き方にたどり着くのは容易ではありません.

また,お道は天然自然の理の教えであり,出直しの教理をはじめとした,一代に限らない命の連鎖を説いているため,ライフサイクルは一代で完結するわけではありません.個は先祖代々続く命の連鎖,自身の生まれ変わり出変わりの魂の連鎖の中に位置づけられ,人生の何時でも次の人生,次の世代へつないでいくというライフサイクル論から生への強い動機付けを得ることができます.一方,心理臨床一般の理論はこうした概念がなく,ライフサイクルとして1人1人の人生を対象とします.個は必ずしも連鎖の中で存在するわけではありません.この点が異なります.

援助に対しても,お道のおたすけの目指すところは心だすけ(身上・事情だすけも含む),長期的には信仰によって身上・事情の根を切るということが目的としてあるかと思います.当面の問題が解決してもいのちの切り替えのために丹精し,関わり続けることになります.したがって,お道の教理は当事者の人生に大きな影響を及ぼします.一方,心理臨床は目指すところは主訴の解決(適応の改善,症状の緩和・改善など)であり,長期的にはパーソナリティの変容などの課題に取り組むこともありますが,職業的役割関係の中での援助であるため,主訴が解決すれば一般に関係は終わりになります.人生における一時的な関わりとなりますが,やはり大きな影響力を持つとは思います.しかし,当事者の主訴の解決は必ずしも親神様の思いに沿うわけではないという点があります.天の理に明らかに沿っていないと思われてもそれが本人にとっての解決であるならそれでよしとする,ある意味それが職業的役割関係の限界なのかもしれませんが.

もっとたくさんあるのでしょう.ざっと書きましたが,以上がお道と心理臨床の異同について今の私が考えるところです.どちらの経験も未熟ながら最近思うことがあります.それは,心理臨床でも何でも援助によって人の適応や問題は解決したり,上手に生きられたりするようにはなるが,元にあるいんねんの根,身上・事情の根を切ることは天の理に沿ってこの心と身体を使わせていただき,おつとめによる命の切り替えをしていくことによってしかなし得ないのではないかということです.(もっともこれは私が本当に未熟がゆえになしえないのかもしれませんが.)

なぜなら,ここもまた未熟さ全開なのですが,おやさまがおつとめで命の切り替えをしていくということを教えてくださったからです.おふでさきには

このつとめなんの事やとをもている よろづたすけのもよふばかりを(02.009)
とのよふなむつかしくなるやまいでも つとめ一ぢよてみなたすかるで(10.020)
このみちがたしかみゑたる事ならば やまいのねゑわきれてしまうで(04.094)
しやんせよやまいとゆうてさらになし 神のみちをせいけんなるぞや(03.138)

など,おつとめややまいについて色々な言及があり,おつとめをしっかりつとめ,親神様の思いに沿ってこの道を通るならば,どんな病でもたすかり,病の根は切れると教えてくださっています.そもそもこの病さえ,親神様が皆が陽気に通るための道を教えてくださっているお手紙なのですから,元の親である親神様の示される通り通らせていただけば根が切れるのも了解できます.親神様は人間が憎くて身上・事情をくださるのではありませんからね.子どもかわいい親心からなんとか互いにたすけ合える心になってほしいと思って道教せしてくださるわけです.そういうわけで,適応をはかるなら心理臨床の援助でも可能ですが,元の根を切るにはお道の信仰とおつとめが大事なのだろうと私は思うのです.


関連記事になります.
お道と臨床と(1)
お道と臨床と(2)
お道と臨床と(3)

親心と子ども心 

増田正義先生の講話で触れられた「親心」についても綴っておきます.これも例によって先生の話をヒントにほとんど私の言葉で書きますので,先生のお話と誤解されぬようお願いします.

私たちは様々なことから喜びを感じるかと思いますが,何に喜びを感じるかでその心も「親心」と「子ども心」に分かれます.端的に言えば,人に何かをしてもらって喜ぶは「子ども心」,人に何かをして喜ぶは「親心」ということになります.

子どもは無邪気です.ほめられて喜び,お菓子をもらって喜び,人に与えてもらうことによって喜びを得ます.これが「子ども心」です.人はやがて大人になっていきますが,人はいくつになってもこの子ども心は失わない方がよいでしょう.この無邪気で素直に与えを喜ぶ心は陽気ぐらしには必要です.してもらったことに喜びを見出すことができるようになることは喜び方の第一歩と思います.これを第一段階とします.成人が進むと,同じ子ども心でも,この世界および自分の人生が自分の力だけで成り立っているのではなく,たくさんの存在に支えられて(たくさんのものを与えられて)今日の自分があるということに気づき,その与えに喜びを感じられるようになるかもしれません.これこそが子ども心の第二段階です.おふでさきに

たん/\となに事にてもこのよふわ 神のからだやしやんしてみよ(3.40)

とありますように,人間の親である親神様に私たちはたくさんの与えをいただいており,それを素直に受け取り感謝していく心になっていくことが大切です.

しかし,受身的に与えを喜ぶだけでは心は子どものままであります.子ども心を忘れてはいけませんが,同時に人は心の成長と共に親神様が私たちが喜ぶ姿を見て楽しまれるように,私たちもおやを見習い,「親心」も身につけていく必要があります.

おさしづに

子が満足して親と言う。どんな事も、成らん処育てるが親の役、親が腹を立てゝはどうもならん。これをよう聞き分けてくれ。(M31.11.13)

とあります.すでに子どもの親になられた方は経験されていることでしょうが,親とは子どもに無償の愛を与え,自分に利益がなくとも子どもが喜ぶ姿を見て喜びを得るものと思われます.子が満足する,喜べるよう,させていただくことが親の役割,そして子が満足し,喜ぶ姿を共に喜べるようになることが「親心」であると思います.広く言えば,相手に尽くすことで自分自身が喜びを得る,それが親心です.これは何も自分の子どもに対してだけではありません.たとえ親にならずとも,人は誰に対してでも親心を使えるのです.言葉かけ,気遣い,贈り物,どんなことでも相手に尽くし,相手が喜ぶ姿を見て自分も嬉しい,楽しいと感じたならばその心は親心と言えるでしょう.

この親心も陽気ぐらしには必要であります.皆がしてもらって喜ぶだけでは,共に喜ぶ世界は実現しません.反対に,親心だけで子ども心がないと,親心でいくらしてもそれを喜んでもらえなければやはり共に喜ぶ世界は実現しません.してもらう側はそれを大いに喜んで,させてもらう側は相手の喜ぶ姿を見て大いに喜ぶ,この2つの条件が満たされることで共に喜ぶ陽気な姿が現れるのではないかと私は思うのです.そして,各人はどちらの役割を担うこともある故から,してもらったときには大いに喜んで,させてもらったときには相手の喜ぶ姿を見て大いに喜ぶ,という両方の心を持てるといいのだろうと思います.

万物は表裏一体,二つ一つが天の理,人の心も然りです.自由を与えられていますが,どちらの心だけでも陽気ぐらしは成り立ちません.「親心」と「子ども心」,双方の心を互いが必要なときに引き出せることが肝要と思います.

他者は神様の郵便配達人 

先日の増田正義先生の講話で印象に残った話を私の中で私の理解として綴っていきます。例によって一度私の中で咀嚼されていますので,先生の話そのままということは困難ですのでそのことを予め述べておきます。

これは「ほっ」にも載っていた話ですが,「他者は郵便配達員」であるという理解の仕方です。

私たちは親神様よりこの身体をお借りし,心の自由を与えられて日々を送っているわけですが,自由が与えられている心ですから,どんなふうに思うも,またどんなふうに考えるもその人の自由です。神様の喜ぶような心の遣い方,つまり皆が明るく喜べるようにこの心を遣わせてもらえればいいですが,実際はそれがままならないこともあります。相手に言われたことによっては腹が立つこともあるわけです。

そんなときには相手のことを郵便屋さんだと思うのです。手紙を配達してくれる郵便屋さんに私たちは手紙を持ってきてくれたことに感謝こそすれども,その手紙の内容がたとえ自分にとって不都合だったり,腹の立つ内容であったとしても,郵便屋さんに怒りを向けることはないと思います。これと同様に,私たちの気に障るようなことを言ってくる人も神様からのお手紙を運んでくれる郵便屋さんだと思えば,郵便屋さんはただ神様からの手紙を配達しにきただけです。一刻は腹を立ててしまうかもしれませんが,後で思い直すことができます。言われたくない人から言われるから余計に腹が立つのでしょうが,あくまでもその人は皆神様からのお手紙を運んでくれる人で,たまたま配達人がその人だったのです。

この話を知っているか知らないかだけでも私は人生の質が変わってくるのではないかと思います。なぜなら,知らずにいてはこの考えに至る可能性は低いからです。知っていればいつそう思えるか分かりません。

増田先生のこのお話はより一般向けの話ですが,私は前にある会長さんから,「相手の肩の上に赤い着物を来たおばあさん(おやさま)が座っていて,相手にそうさせているのだから,心配はいらない。君が心をしっかり定めていれば必ず乗り越えられる」というようなことを言われて,大層心強かったことを覚えています。おやさまが私の成人のためにしてくださっていると思うことで,苦労もありがたく感じます。これが信仰の力かもしれません。

この人生において成ってくることは,皆神様の深い思惑があって起こってくることと聞かせていただいています。そして,喜んで受け取ったならば,それは親神様の喜ばれる天に届く理となるのですから,喜んで受け取りたいものですね。それが,先々の喜びの種になります。

「いんねん」について思うこと 

三日講習Ⅱではいんねんの話題が結構多かった気がしました.
(そもそもいんねんとは何かと言いますと,魂の持つある傾向(性質・癖)―とでも言いましょうか.原典にどういう説明がなされているのかは把握していないのですが,そんな感じかと思います.)

班の練り合いではいんねんという言葉にあまりいい印象を持ってない方もいました.私もそうでした.何か暗いイメージが伴い,間違って用いると相手を責めることになりがちなものという感じがして敬遠しがちでした.単に「縁」という言葉に置き換えて用いることも多いです.しかし,最近教理を知るにつれていんねんの教理はやはり大変重要なものだと思っています.でもやはり何か暗いイメージが伴う.だからこそ誤解なく理解し伝えなくてはならない教理であると思うのです.まぁどの教理も誤解なく理解し伝えなくてはならないのはそうなんですけどね.

いんねんに対して,そういう暗いイメージを持っている人がどれだけいるか分かりませんが,それはいんねんの教理をきちんと理解していないからかもしれません.そもそも人間には誰もが陽気ぐらしができるという「元のいんねん」があります.生まれ変わり出変わりの中で個人の心遣いによって,個人にいんねんが現れてくるわけですが,このいんねんは何も悪いものばかりではないのです.おさしづには以下のようにあります.

世界にもどんないんねんもある.善きいんねんもあれば,悪いいんねんもある.(M28.7.22)
どれだけいんねんじゃ,いんねんじゃと言うても,白いんねんもある,悪いんねんもある.(M31.9.30)

つまり,ほこりが積もり重なれば悪いんねんとなりますが,ほこりを払い徳を積んでいくことで白いんねんにもなるわけです.現れていることは皆親神様が個人の魂に合わせて見せてくださっているものであり,そのことをすべていんねんと呼ぶわけですが,とりわけ悪いいんねんばかりが話として持ち出されてきた背景があり,悪いイメージを持ってしまう場合があるのではないかと私は思います.また,白いんねんは単に徳という言葉に置き換えられて使われている感じもあると思っていて,いんねん=悪いんねんと捉えられがちな風潮が漫然とあるのではないでしょうか.いんねんの教えが間違っているとはまったく思いません.おやさまの教えに間違いはありません.間違いがあるとすれば,それを受け取り使ってきた人間の理解の仕方だと思います.

おやさまが教えられたこの道は知ることで人が勇めるようにならないかんと思います.そう考えるといんねんの話の取り次ぎ方にも工夫が必要だと思うのです.経験豊かな方はうまい話し方を知っているのでしょうが,少なくとも理解も経験も少ない私にとっては工夫が必要です.実践の伴わない理屈にすぎないのですが,いんねんの教理を取り次ぐ必要のある場合,同時に元のいんねんの話と白いんねんの話を十分にする必要があると私は思います.元々陽気に幸せに暮らせる資質を持っているということを伝え,加えてどんな人にだっていい経験,縁,与えはあるはずですから,そういうものがよい心遣いによって表れてきていることを話す必要もあるでしょう.その上で悪いんねんの話を持ってきてそれを切り替えるにはどうしたらよいかを説くという3段構えの姿勢が必要なのではないかと思います.(←もしかして当たり前のことだったりします?)そして,その話が相手に入るためには,やはり旬を待つ,伝えるべき時機を見極めることが必要なのではと思います.それは相手に受け入れるだけの器ができてくるということかもしれませんし,取次ぎ手との信頼関係かもしれません.

以上の手続きを踏まずして,家族のいんねんならまだしも個人の前世いんねんなどいきなり聞かされても得心するのは難しいのではないかというのが今の私の考えるところです.ある先生は「いんねんは諭すものではなく悟るもの」と聞かせてくださいました.なるほどと思いました.家族のいんねんはその流れは見えますが,前世からのいんねん(その人の魂が持っている性質・癖)は神様以外知る由はありません.それを一方的に決め付けてしまう人がいるとすればそれは間違いでしょう.

カウンセリングやソーシャル・スキル・トレーニングにおいても,相手に次のステップに勇んで進んでもらおうと思ったら,まず本人の資質を十分に褒める,できている部分,変わった部分などを十分に評価した上で,工夫するとよい点などを話します.これはその分野のみに限らず,学校教育だって子育てだって同じだと思います.まず十分なプラスのストロークをもらってこそ変えようという意欲,勇み心が湧いてくるのではないかと思うのです.信仰から遠い・浅い人ほど相手が受け入れやすい土壌をしっかりと作ることが必要な気がします.

なんてことを三日講習の練り合いから思いました.


関連記事になります.
世代間連鎖の根を切る
親の背中
信仰により変わりゆく背中
子は親を映す鏡

お道と臨床と(3) 

関連記事になります.
お道と臨床と(1)
お道と臨床と(2)

私自身のお道と心理臨床の関係性について過去を振り返りながら綴ってみたいと思います.

きっかけというきっかけは特にありませんでした.高2か高3で進路について考えたとき,贅沢な話ですが最初はもう大学進学はやめようと思ったんです.勉強が大嫌いだったからです.そのことを父に言ったら,「それなら専修科に入れ」と言われました.それだけは勘弁と思った私は,ならば教師を目指そうと思ったんです.父が教員免許持ってたのだけれど祖父の道一条でつとめてほしいという思いからできなかったという背景もありまして.そんな中,所属教会の青年会講話で母が宮崎先生の話を聞いて,両親が「初代は情熱と根性でいいがこれからの時代は心理も必要,おたすけに役立つ仕事として学んでみてはどうか」とすすめてくれました.いずれ自分も将来教会長としてやらせていただきたいということは頭にあったので,学ぶなら人だすけに直結し,おたすけにも知識・スキルとして生かせることをと思い,臨床心理が候補にあがったわけです.つまり,臨床心理学をお道の上に生かす手段として学ぼうと思ったわけです.

当時,雅楽を大学でもやりたいと思っていた私は(関連記事:私と雅楽),天理大に臨床心理があるからと周りの反対を押し切って天理大を受験することにしましたが,落ちたらいやだと思って間際になって社会福祉に乗り換えようとしたんです.どちらも対人援助という点で一緒だしと当時の私は考えました.しかし,そのときに父が「ダメだ,臨床心理を受けろ」と強く私に言いまして覚悟を決めて受験したわけです.ですから,そもそもの始まりは奇しくも宮崎先生とのご縁,そして今は亡き父が私の背中を押してくれたという経緯があったのです.

大学4年間は遊びほうけていた時代だったのでほとんど何も考えていなかったですが,大学院の頃にはお道の上に臨床心理学を生かすということと共に,心理臨床の上にお道の教えや自然の理を生かすということも考えるようになりました.これは卒後も数年思うこととなります.ただこのときは両立ということが頭にありました.もちろんおたすけが第一だけれども,今の時代,宗教は敬遠される傾向にあり,宗教との関わりを好まない人もある,そういう人には臨床心理学や心理臨床の経験を生かした援助をすればいいという二刀流,二足のわらじ的なことを考えていました.つまり,初めはおたすけの上に生かすという目的で学び始めたものが,いつの間にやら対等になっていたわけです.この時期には当ブログなども書き始め,自分のお道と臨床に対する考えを整理していこうと思っていました.しかし,なかなか双方のつながりのようなところまで考えるには至らなかったし,最近は日記と化してしまっているところもあり,事実上停滞を見せています.ところが,今年のみちのとも(立教172年2月号)に松本滋先生の講演要旨が載っていて,信仰と学問を両立させていこうと考えていた松本先生に二代真柱様が言われた言葉に,今更ながら心を打たれたわけです.

「両立ということではない.何事にもあれ,信仰がベースだ.そのうえに学問があり,芸術があり,スポーツがあり,あらゆる人間の活動があるんだ」


このお言葉を読んで,私は元を思い出したというか,ベースはお道だ,おたすけだ,信仰だということを再確認したわけであります.ベースがお道と考えると,今私がさせていただいている仕事も合目的的なものとなります.すべてはお道がベースであり,その上に心理臨床の実践があるわけです.どちらの知識や実践も互いに生かしていくことはできますが,あくまでもよふぼくという自分があっての心理臨床家の自分であり,心理臨床に携わることは神様の用材としての役割を果たすための1つの手段であります.また,最近会長である母よりよく聞くのは,信仰初代であり初代会長であった祖父の代には精神の病(統合失調症に限らず)のおたすけをたくさんお与えいただき,入れ替わりで何十人とお世話させていただいていたとのこと.そういう故からも,私にも教会のあるいは家族のいんねんとして心の病を抱える方とのご縁があり,今の仕事を神様からの御用と思ってさせていただくことが自らのいんねん切りになるのではないかと思うところもあり,心理臨床は私のお道の信仰という基盤の上に乗っかっている感じになっています.


みちのとも10月号より 

みちのとも10月号に「天理教教典公刊六十年に寄せて」という特集がありました.
戦後に復元がなされる以前の事情についてあまり詳しくなかったので非常に勉強になりました.

お道の教えはみかぐらうた,おふでさき,おさしづの三原典がすべてであることは周知のことと思いますが,教典が「原典へ入る橋渡し」であり,これを1つの台として,原典をしっかり読ませていただくことが肝要とのことです.原典の勉強をしなくてはと常々思っている私ですが,その前に原典への導きの書である教典を読むところからはじめようと思いました.
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