前者はその役割を演じる時間的・空間的に限りがあり,同時にそのことが自分自身を守ることにもなっています.限られた時間帯と場所での援助ということです.限りがあることで自分自身のその他の役割(たとえば夫に対しての妻・子どもに対しての母親・母親に対しての娘など)を侵害されることなく果たすことができます.したがって「勤務時間ないしは職場環境によって守ってもらっている」というある程度の安心感があります.(中略)
後者は時間的・空間的に特に自分で設定しない限りは限りはないということがあると思います.限りがないということはその他の役割を同時にこなしながら援助を続けていくということです.時間的・空間的限界によって自分自身を守ることができない代わりに,私たちお道の信仰者はどうしているでしょうか?私たちには幸いにも「いつ何時でも親神様が守ってくださっている」という安心感があると思います.たとえ私生活との間に明確な境界がなくともその感覚で援助を続けていける面もあると思います.それでも人間ですから限界点はあると思いますが・・・.
さて,私がこの両者をどのように区別しているかと言いますと,仕事はあくまでも仕事です.それ以上の関わりをすることはありません.職業的役割関係以外に関係持ち込むことは職業倫理として禁じられているくらいです.また,そうすることが治療的だということもあります.(以下省略)
以前よりお聴きしてみたかったのですが、まおさん的には「精神科医」と「臨床心理士」、「精神保健福祉士」、さまざまな「カウンセラー」、さらには「お道のおたすけ」をどのように区別、関連、意義付けされておられるのでしょうか、
です.もうこの説明だけで十分な気がしますがそれでは記事として取り上げた甲斐がないので,もう少し考えてみたいと思います.人のために心をつかったり、体を使うこと惜しむ心づかい。物を貸したり、お金を払うことを惜しいと思い、また、手助けをするための労を惜しむなど、すべてに出し惜しみ、骨惜しみすること。
天理教公式ホームページより
このことから考えるに,をしいのほこりは,ためる(貯める・溜める)こととはなつ(放つ)ことと関係があるように考えられます.そして,をしいのほこりを積むときとは,両者のバランスを欠いたときと言えるかもしれません.「よく」のほこりとも関係していると思われますが,自分自身の欲求・欲望から,人のために放つことを惜しんで,必要以上に自分自身の力を抑制し,自分の中にためこむわけですから,それらのエネルギー(=労力,経済力,学力などあらゆる力)は自分の中に蓄積されていきます.生きるために必要なエネルギーというのは普通に生活することによって,消化・吸収されて自分の血や肉となっているわけですから,必要以上にためることは余剰物になりかねません.食事にたとえればカロリーオーバーによる体脂肪の増加,消化活動にたとえれば消化不良による便秘とでも言えるかと思います.もちろん,展望のある力の蓄積というのは必要ですが,目的のない場合に無駄にためこんだり,わが身思案で自分の欲望のためのみにためこんでは,自分の許容量を超えたエネルギーは余剰物となり,そのときは満足を得られても長い目で見ると不本意な形で残るので,やはりためこむのではなく日々の生活の中で消費する必要があるのです.その消費を惜しんだ瞬間「をしい」のほこりを積むことのなるのではないでしょうか.フロイトという精神科医は精神分析という学問体系を確立しましたが,彼は人間の発達段階を口唇期・肛門期・男根期・潜伏期・性器期に分類しました.どの時期にも達成すべき発達課題はあるのですが,2番目の発達段階である肛門期には昨日述べたことに通じる部分があります.
肛門を通して快感を得て発達・学習する時期を精神分析では肛門期と呼びます.ちょうど2歳〜4歳くらいですかね.肛門は幼児期に「出すことと溜めること」をトイレットトレーニングを通して学ぶ大事な部位でして,肛門性格という言葉もあるくらいです.過度に几帳面で倹約家,わがままといった執着的な性格傾向をもつ大人は幼児期における便のコントロールがうまくいかなかった肛門性格の人であると言われています.他者からみて「ケチ」「強迫的」「執着心が強い」などと思われる人はその傾向があるかもしれませんね.ここで学習する「出すことと溜めること」というのは象徴的なものでして便だけに限らず,その後の人生における様々な側面での出すことと溜めることに関係しています.要するに便意という身体のコントロールを通して心のコントロールを学ぶわけです.お金を出したり力を出したり時間をかけたりと,それらを貯める(惜しむ)ことなどに関係していると言えるかもしれません.
水と漬物しか食べられないような状況であれば,「何でうちはこんなに貧しいんだろう」「自分は情けない人間だ」などと考えて気分的に落ち込んでしまい,意欲を失ってしまう人は少なくないでしょうし,「これ以上失うものなんて何もありゃしない」と考えて,世の中に対する敵意を抱き,盗みという行動に出る人もいるかもしれません.そのような気分や行動は,「水と漬物しか食べられないという状況」に対して認知の部分で否定的自動思考が働いているから起こってくるのです.この認知が,仮に肯定的なものであれば,後に生じてくる気分や行動ももっと前向きなものになります.十年に亙る長い年月の間、かかる窮迫の中にも、教祖は、常に明るい希望と喜びとをもつて、陽気ぐらしへの道を説かれた。そして、時には、水と漬物ばかりで過されながら、「世界には、枕もとに食物を山ほど積んでも、食べるに食べられず、水も喉を越さんというて、苦しんでいる人もある。そのことを思えば、わしらは結構や、水を飲めば水の味がする。親神様が結構にお与え下されてある」と、子達を励まされた。
(天理教教典 第5章 ひながた)
素晴らしいです.私の院はキリスト教系の大学でしたが,無論カリキュラムにキリスト教観など含まれてはおりませんでした.天理大は素晴らしいです.天理教の宗教観を基盤にしながら、さらに現代社会における宗教の役割や、宗教と心理臨床の接点についての学際的な視点を身につけ、宗教における心理臨床活動を深める力を育てます。
1日 消防団訓練 3日 おぢば帰り 8日 屋根塗装ひのきしん 9日 消防団警備 17日 月次祭 24日 神社鳳笙吹き 30日 研修 31日 研修