お道と臨床と~心づくりのたね~

お道(天理教)と臨床心理学の視点を含めて,まおという人間が考える日々の通り方や考え方について綴っています.日記風なこともわりとあります.

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広告:道の心理臨床家の集い 2010 in 天理 

7月11日の天理時報(第4188号)に以下の記事が載っています.
私も昨年同様,参加の予定でいます.
⇒ウェブサイトはこちら

"心のおたすけ"の輪広げよう!
「道の心理臨床家の集い 2010 in 天理」

「道の心理臨床家の集い 2010 in 天理―道の心理臨床家のつながりを求めて」(主催=同幹事会)が10月10日,親里で開催されることになった.
昨年に続くこの「集い」は,心理臨床に携わる全国各地の教友がネットワークをつくり,互いに研鑽して信仰を深めようというもの.布教部の協力のもと,お道につながる臨床心理士などから成る同幹事会が中心となって準備を進めている.
今回のテーマは,「道の心理臨床家のつながりを求めて」.午前には,臨床心理士で元天理大学教授の堀尾治代さん(同「集い」顧問)が「宗教と心理臨床」と題して講演.続いて,臨床心理士で梅満分教会長の宮崎伸一郎さん(同「集い」代表)と堀尾さんによる対談が行われる.このほか,午後には少人数制での交流会も開かれる予定.
参加資格は,①臨床心理士などカウンセリング関係の資格を有する者,②臨床心理学・カウンセリングにに関する学習歴を有する者(大学水準以上),③臨床心理学・カウンセリングを学んでいる大学生および院生,④臨床心理学・カウンセリング関連領域(精神医学など)に関する資格を有する者.いずれも,ようぼく・信者を対象としている.
代宮崎さんは「心理臨床に携わっている教友の中には,信仰実践としての『おたすけ』と,職業としての『カウンセリング』の境界線に悩んでいる人も少なくない."心のおたすけ"を実践する専門家の輪を広げていくためにも,一人でも多くの人に『集い』に参加していただきたい」と呼びかけている.

◆日時
 10月10日(日)
 午前9時~午後4時
◆会場
 おやさとやかた南右第2棟3階
◆参加費
 一般1000円,学生500円(昼食代を含む)
◆締切
 9月30日(木)消印有効
◆申し込み・問い合わせ
 郵便番号,住所,氏名(ふりがな),生年月日,性別,電話番号,メールアドレスかファクス番号(参加確認の返信用),直属・所属教会名,満たしている参加資格を明記のうえ,ハガキ,ファクス,メールのいずれかで下記事務局へお申し込みください.

【事務局】
〒632-8501
天理市三島町271 布教部庶務課内
FAX 0743-63-7578
Eメール ※


※掲載することにより,大量の迷惑メールが送信されないようにするためにアドレスは掲載しません.ご了承ください.上記ウェブサイトの活動案内からメールを送ることはできるようです.


関連記事になります.
道の心理臨床家の集い 2009 in 天理
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広告:道の心理臨床家の集い 2009 in 天理 

7月5日発行の天理時報に以下の広告が掲載されています.

心のおたすけの輪広げよう!
「道の心理臨床家の集い 2009 in 天理」

「道の心理臨床家の集い 2009 in 天理」が8月9日,親里で開催されることになった.
これは,心理臨床に携わる全国各地の教友がネットワークをつくり,互いに研鑽して信仰を深めようというもの.お道につながる臨床心理士などから成る同幹事会が企画し,布教部の協力のもと,準備を進めてきた.
(中略)
参加資格は,①臨床心理士の資格を有する者,②臨床心理学に関する学習歴を有する者(大学水準以上),③臨床心理学を学んでいる大学生および院生.いずれも,ようぼく・信者を対象としている.
代表を務める宮崎さんは「心理臨床に携わっている教友の中には,信仰実践としての『おたすけ』と,職業としての『カウンセリング』との境界線に悩んでいる人も少なくない."心のおたすけ"を実践する専門家の輪を広げていくためにも,一人でも多くの人に『集い』に参加していただきたい」と呼びかけている.

◆日時
 8月9日(日)
 午後1~6時
◆会場
 おやさとやかた南右第2棟3階
◆申し込み・問い合わせ
 郵便番号,住所,氏名(ふりがな),生年月日,性別,電話番号,直属・所属教会名,満たしている参加資格を明記のうえ,はがき,またはFAXかEメールでお申し込みください.

〒632-8501
天理市三島町271 布教部庶務課
FAX 0743-63-7578
Eメール ※


お道と心理臨床,当ブログのタイトルとも関連する私の長い間の(放置している)テーマでもあります.当日は私も参加させていただく予定です.該当する方は是非参加しましょう.今までこういった集まりはなかったので初の試みですが,きっとよい出会いがあるのではないかと思います.おぢばですからね.

※お手元に天理時報があるならそれを見ていただくのが一番いいですが,ない場合,Eメールはご連絡いただければ個別にお教えします.掲載することにより,大量の迷惑メールが送信されないようにするための措置です.ご了承ください.

心理臨床と信仰~疑問を持つことと信じること 

心理臨床とは他者への臨床心理学的な知識や技術を生かした実践活動であり,信仰とは一個人の特定の宗教観・人生観に基づいた実践活動(精神的・行動的)と言えると思います.前者は疑問を持ち続けること(why do you think so?)が基本的態度としてあり,後者は対象を信じ続けること(I keep on believing)が基本的態度としてあると思われます.

なぜならば,心理臨床の実践は対象者に対する「なぜそう感じるのだろう?なぜそう考えるのだろう?」というWhyの問いを向け続けるところから始まります.(もっともこのWhyは対象者の理解という志向性から発せられていますが.)このWhyなくして心理臨床は成り立たないと思います.心理臨床では対象者に常に最大限の関心が向けられますが,関心を向けるということは相手の考え,感じ方,行動に対して不思議だという疑問を持ち続けることだと思います.あまりに素直に対象者の話や体験を受け入れすぎると,「そうだよね,もっともだよね」で終わってしまい,対象者についてそれ以上知ることはできません.それは対象者の気付きを促す機会の提供にはつながらず,対象者の悩みの解決にはつながっていかない可能性があります.だから,心理臨床では疑問を持ち続けることが求められると私は思います.

一方,信仰とは,信仰対象―仮に親神様としましょう―を信じることに始まり,信じることに終わると言っても過言ではありません.信じることの経過で「なぜ自分にこういう事態を与えられたのか?」「なぜこう教えられたのか?」と親神様の思惑という次元に対してWhyの問いを抱くことはあっても,親神様の教えや言葉自体に疑問は向けられず,それ自体は絶対的真実であります.その事態を説明できる親神様の教えや言葉が見つかったなら,やがてああそうかと信じることにつながっていきます.これが基本であり,そこにあるのは疑問を抱くよりもそれを素直に信じ実践する心であると思います.その真実を親神様は喜んで受け取ってくださり,そして,状況が変わっていきます(ご守護と言ってもいいかもしれません).やがては解決につながっていくこともあるでしょう.

そのように考えると,一個人の信仰の実践と他者への心理臨床の実践とは心構えとして相反する性質をもっているのではないかと思うのです.疑問を持つことと信じること.信じる態度は信仰の上では非常に大切ですが,殊,心理臨床においてはそれよりも疑問を抱く態度が大切で対象者の役に立つのではないかと思うのです.

しかし,別の見方をすれば,信仰においてもただ盲目的に信じるよりは疑問を抱いては教理の研鑽(神意の理解)によってその疑問を解決し,ということを繰り返すことにより,より揺るぎない篤い信仰につながっていくともとれるので,信仰においても疑問を抱くことは大切なこととも思います.また,心理臨床においても疑問を抱いて対象者の話を聞くことによってその疑問を解決し,ということを繰り返すことにより対象者との信頼が確立されていくので,結局のところ,疑問の先に信じることがある,あるいは疑問を向けながらより揺るぎない信仰・信頼が培われていくのであって,両者の態度は相反するものでもないのかもしれません.

ふと信じることと疑問を持つことについて考えさせられる機会があったので,まとまりませんが,雑記的に今の段階で思うことを綴ってみました.正しい答えなんてないんでしょうけどね.

おたすけにも枠を? 

未読の方は以下をまず閲覧ください.
おたすけの位置づけ

3日に宮崎先生にお会いした際に,先生は心理臨床の仕事をしていく中で,治療上重要視される「枠」ということを,おたすけにも活用していいと思うと話してくれました.そのことについて考えてみたいと思います.

以前,私は冒頭にあげた記事において,精神科臨床とおたすけの違いについて以下のように記述しています.

前者はその役割を演じる時間的・空間的に限りがあり,同時にそのことが自分自身を守ることにもなっています.限られた時間帯と場所での援助ということです.限りがあることで自分自身のその他の役割(たとえば夫に対しての妻・子どもに対しての母親・母親に対しての娘など)を侵害されることなく果たすことができます.したがって「勤務時間ないしは職場環境によって守ってもらっている」というある程度の安心感があります.(中略)

後者は時間的・空間的に特に自分で設定しない限りは限りはないということがあると思います.限りがないということはその他の役割を同時にこなしながら援助を続けていくということです.時間的・空間的限界によって自分自身を守ることができない代わりに,私たちお道の信仰者はどうしているでしょうか?私たちには幸いにも「いつ何時でも親神様が守ってくださっている」という安心感があると思います.たとえ私生活との間に明確な境界がなくともその感覚で援助を続けていける面もあると思います.それでも人間ですから限界点はあると思いますが・・・.

さて,私がこの両者をどのように区別しているかと言いますと,仕事はあくまでも仕事です.それ以上の関わりをすることはありません.職業的役割関係以外に関係持ち込むことは職業倫理として禁じられているくらいです.また,そうすることが治療的だということもあります.(以下省略)



これが正しいとは限りませんが,当時の私の理解を綴ったつもりです.お道のおたすけにおける実践という面がまだ私には乏しいので,書くこと自体恐縮なのですが,要するに心理臨床においては予め決められた時間・場所での援助ということになります.それに対して,お道のおたすけは予め決まっているわけではなく,救けを求めている人がいれば時間・場所にかかわらずいつ何時でもさせていただけるものというのが理想論としてあり,その実践のために際限なく勇ませていただく(援助する)という姿があるように思います.したがって,宮崎先生の言葉を聞いたときは「え!?いいの?」と思いました.私もいずれおたすけをするようになったら,無制限の援助をさせていただかなければいけないと思っていたからです.現に,過去私は天理の友人宅で深夜2時3時まで,お道の援助のあり方について,友人とその弟とその辺りのことで議論した覚えが曖昧ながらあります.(ベロベロでしたので・・・)

分かりやすくするために私と会長を例に比較してみましょう.私は病院において完全予約制で院内の心理室で50分間という時間をとって話を聞いていますが,会長は教会において参拝者や通話者相手に数時間話を聞くこともありますし,それが1日に何回にも及ぶこともあります.限られた時間内での援助しかしていない私にとって,際限なく援助を続けている会長の精神力には脱帽しています.今の私なら,途中で嫌気が差してしまうかもしれません.(←未熟)

論点はそこにあります.おたすけの心,おやさまの道すがらを辿ろうとする心を持って神にもたれていたとしても(私が持っているということではありません),際限なき援助ができるほど人間は万能ではないということだと思います.中にはそれができるキャパシティを持った人もいるのかもしれませんが,それでもおたすけの対象者が増えれば,たとえどんなにキャパシティがあっても1日は24時間しかないのですから,やはりどこかで体力・精神力の限界はやってきます.支えたくても支えきれないこともあるでしょうし,下手をしたら自分自身が消耗しすぎて嫌気が差してしまうこともあるかもしれません.それならば,最初から時間を区切って―「枠」づくり―の援助をするというのも1つのやり方だと思います.

「10時から20分だけなら時間とれるから」,「今から30分だけなら時間とれるけど」のように,予め時間を設定することで限りある時間を有効に使い,なおかつ自分自身が過度に消耗しないように守ることも可能になります.ある意味ドライだなぁという印象をも抱かせるやり方ですが,カウンセリングなどでは,その設定が目的意識と時間を大事に使う動機付けを高めることとなり治療的であると言われています.また,必ずしも無制限に相手の思いや要求をすべて背負いきることが,その人のため,あるいは親神様が望まれる道であるとも限りませんので,その人のことを思えばこその判断であれば,冷徹であるとか人間味がないというわけではないと思います.理由なく何でも切り捨ててしまうのであれば,そのようにも言えるかもしれませんが,その判断の裏づけとなる仮説なり展望があればいいのではないかと思います.

ただ,このおたすけのあり方についてどう通らせていただくべきなのかについては,私は現在教会に住まわせていただいているよふぼくという立場でありながら,おたすけにほとんど携わっていないという現状がありますので,自己主張はまだできません.何がよいか分からないのです.実働なき発言は説得力が無いことは承知ですが,あえて実働を伴わない立場から描く理想像だけを述べるならば,その救けを求めてやってきた人を皆どこまでも支えられればいいとは思いますが,それが普通の人間には不可能だということも感覚的に承知しているので,やはりこれといった答えも出せないのです.

先生のように,臨床心理学という学問において,あるいは心理臨床という場において治療的であり,有用とされている「枠」というものをおたすけに活かすというやり方もあるんだなぁというくらいしか言えません.もちろんこの先,自分のおたすけのスタンスを模索していく中で大いに参考にさせていただきたいです.そして,10年20年したらまた何か言えるかもしれませんので,そのときには改めて自分の経験を踏まえて述べてみたいと思います.(そのときまでblog続いているかな・・・)今日は,そういった視点の紹介ということで書いてみました.

皆さんはどう思われますか?あるいはどのようにされていますか?
おたすけをされている方のコメントお待ちしています.

※宮崎先生,私は記憶と理解がごちゃまぜになってしまうことがよくあるので,もし当該記事を読まれて誤った記述があればどうぞご指摘ください.即刻修正いたします.

人と人の背後に働く力 

かつての指導教官がキリスト教信者でして,その先生が「精神療法の背後には人智を超えた神の力が働いている」と言っていたことがありました.

それを聞いてなるほどと関心したのを覚えています.対象は違えど私も同様のことを感じていたからです.精神療法と言えども,人が為すものなれば,神の働きなしには成しえない.これは私からすればごく自然に理解できることです.キリストでいうところの神とお道でいうところの神は働きが違うと思いますが,神様によって生かされていて口が動いて言葉を発し,耳で相手の言葉を聴き取ることができるからこそ,会話による意志の疎通が可能であり,目をはじめとした他の器官によって雰囲気をつかみ,自分は受容されているという感覚を抱くのだと思います.そしてそこから徐々に変化が起こり治療が進んでいく・・・これは外枠的なもので内で起こっていることにももちろん神様の力は働いていると私は思います.

一般に精神療法はクライエントとセラピストの協同作業であり,共通の治療目標をもってセラピストはクライエントの自己治癒力を妨げないように援助する姿勢が求められると思います.ですから治療の成功はセラピストを活かして自己治癒していったクライエントに功があるのです.もちろんそれを妨げなかったセラピストも重要な働きをしています.

しかし,ここで教官の言葉が真であると考えるのであれば,その協同作業の背後に働く大きな力があるのです.クライエント(被面接者)のためによかれと思って,最大限の関心を払い,労い,共感し,自らの人格を以て相手の人生なり症状や生活の一部がよりよくなるように接していく誠真実の心がセラピストにあるのであれば,そこに神様が働いてくださってクライエントが薄紙を剥ぐようにご守護いただくということは理に適っているかもしれません.神様の話をするわけでもありませんし,おさづけを取り次ぐわけでもありませんが,人に救かってもらいたいという心においてはおそらく親神様の思惑と一致するものでしょう.また,クライエントの方も自分の悩みや問題を解決すべく,自らの性格や行いに関心を払い,改善しようと試みるのですから,よい心遣いに成っていけば,その心通りのご守護も現われ出るのかもしれません.

おたすけをしている方はもちろんだとは思いますが,それ以外の方法―たとえば看護や介護など様々ですが―で人だすけの種をまいておられる方,その道中で当事者や関係者以外の何か大きな力を感じることありませんか?それこそ私が知ってほしいと思う神様の働きです.

ゲド戦記 

見てないなぁと思いながらも,ずっとレンタルもしていなくて,そろそろ借りて見なきゃなぁと思っていたら,TV放送があったので辛抱した甲斐がありました.

今日はスーパーヴィジョンで先生の指導を受けてきたので帰宅したのがちょうど9時でして,帰るなりTVをつけました.しかし,疲れていたのか途中何度も落ちかけて,若干見ていない箇所があります.ストーリーとしては,なんだか難しく,訴えたいことは言葉を通してしか伝わりにくいなぁという印象を持ちました.子どもには難しいですよね,これは.

ゲド戦記と言えば大学のレポートで「ゲド戦記Ⅰ 影との戦い」について論述した覚えがあります.あのゲドはまだ子どもで自分自身の影と戦っていました.それが映画では大賢人になってて,それに至るまでの経過が気になりました.機会があれば,原作を読んでみたいと思います.

映画では影よりも命を大切にすることや生きることについてのメッセージが主だったのかなと思いますが,以下は影について少し.森羅万象は表裏一体.人間の内面も然り.陽があれば陰もあります.明るい自分を表に出していれば,暗い自分は影として存在しますし,暗く生きていても,明るい自分は影として存在します.影とは表立って生きられなかった自分自身の内面であると思います.それを知り,受け入れていくことは人格の成長につながるのではないかと思います.

また,この影は固体内だけでなく,世代間にも表れてきます.以前,宮崎先生の講話で聞いたことを,過去記事「子は親を写す鏡」より引用します.

以前に,宮崎伸一郎先生(教会長&臨床心理士)の講演の中で,「影」という言葉が出てきてなるほどと思った話がありました.記憶が曖昧なので自分の見解も加えて書きます.

世間的にも評価される両親の下で育ち,それを映したように子どもが育つ中に,一人だけ非行に走るような子どもがいたとしたら,それをどのように説明できるでしょうか.子どもは親を映す鏡であるのなら,そんな子どもに育つのはおかしいと思うでしょう.しかし,そうではなく,その子どもは親の生きられなかった影の側面を生きているわけです.どんなに人間的に素晴らしい人でも,人間である限り悪い心遣いだってします.それを表現する,行動に移すことが悪だと思っているとしたら,その行動は抑えられ,親の人生では生きられずに表だった人生の「影」として潜みます.そして,それは世代を超えて子どもに表れるのかもしれません.

ですから,子どもに問題が生じたときには,それを子どもの人格や養育環境のせいにするのではなく,親はこれまでの人生を顧みる必要があると思います.そして,子どもが自分の生きられなかった影の側面を生きているのだと理解したとき,以前は子どもが思うように育っていかない憤りや煩わしさ,疎ましさを知らず知らずのうちに子どもに向けていたかもしれませんが,子どもへの見方が劇的に変わることと思います.なぜならばその子は親が生きられなかった影の部分を一生懸命生きているのですから.子どもを通して,親はそういう面があったことに気がつき,自分の生き方の質を高めることができるのです.むしろその子に感謝する日さえ来るかもしれません.

どんな子どもでも,子どもは親の生き方を映しています.うちの子が何でこんなふうに・・・と嘆く親御さんがいらっしゃるかもしれませんが,そうではありません.親がやってこなかった,あるいはできなかった影の側面をその子が生きているのです.そのことを理解してあげてください.

子どもは親を映す鏡です.子どもをして自分の生き方を知るでしょう.


自分の影の部分を知ることは気持ちのいいものではありませんが,社会や家庭を通して,人は影の部分に気付かされることがあります.そのときには,目を背けることなく,自身の成長の糧にしたいものです.

ゲド戦記から思ったことを綴ってみました.

共時性にあるおやの思い 

「意味のある偶然の一致」のことを共時性と呼びます.シンクロニシティとも言います.

偶然の一致ですので因果関係はありませんし,科学的には証明できませんが,複数の事象の意味に類似性があり,ある事象に随伴して別の事象が生じる場合を,心理学者のユングは共時性(シンクロニシティ)と呼び,宇宙の非因果的原理であるとしています.人智を超えた原理ということですかね.

しばらく会っていない友人をふと思い出し,元気にやってるかなぁ?と思いをめぐらしているところにちょうどその友人から電話がかかってきた,あるいはばったり会ったとか,夢で息子が帰ってくる夢を見て起きたらちょうど息子が家に帰ってきていたとか,不思議な偶然(偶然なんだけれども偶然とは思えないような)の経験ってしたことあると思います.こんなとき私たち信仰者は神様のお導きやお計らいとして捉えてそのことに感謝して通らせていただいているかと思います.

私たちは信仰生活において,やはり因果関係はないのだけれども身上や事情に随伴して生じてくる出来事に,先述のように親神様のお導きであるとか,親神様の思惑あってのことであるというように意味づけて,感謝して通り,心の成人をさせていただいているわけですが,こうした私たちの悟りの中には上述のように共時性として捉えられる一連の出来事もあるわけです.(事象間に類似性がなく,共時性がない悟りももちろん多いですが)

つまり,私はこの共時性という人智を超えた因果のない偶然というのも親神様のお働きによるものではないかと思うのです.誰も仕組めない,何も意図しないのにまるで導かれたかのように生じる共時性を単に共時性として終わらせるだけでなく,そこにおやの思いという視点を含めると,感謝の念と心の成長を得ることができるのではないかと思いました.

おたすけの位置づけ 

遅くなりましたが,IZAMUさんよりコメントをいただいたので,それについてお答えしたいと思います.

以前よりお聴きしてみたかったのですが、まおさん的には「精神科医」と「臨床心理士」、「精神保健福祉士」、さまざまな「カウンセラー」、さらには「お道のおたすけ」をどのように区別、関連、意義付けされておられるのでしょうか、


「精神科医」と「臨床心理士」,「精神保健福祉士」,さまざまな「カウンセラー」に関しては過去記事「精神科で働く人たち」を読んでいただければと思います.ここではそれらとお道のおたすけについて書きたいと思います.

まず,両者はどちらも対人援助という点では変わりません.したがって,精神科医療で仕事をしながらお道のおたすけをしていくということが今現在の私の理想としてあります.この先どうなっていくかはわかりませんが,「お道と臨床と」というブログを書いているのも両者の知識と経験をいかに交えて互いに生かしていくかを模索していくためでもわるわけです(一応は・・・).もっとも最近は色々な都合から趣旨が変わってきてほとんど日記風になっていますが.それは置いておいて,生計を立てていくための手段が,精神科医療での援助という「他者の人生がその人にとっていいようになっていく手だすけをさせていただくこと」であることはお道を信仰する私にとって合目的的です.

両者の区別ということですが,まず一般的な見解として,精神科医療で働くということはあくまでも生業であり,私生活との区別があります.一方,お道のおたすけはそれを生業としている方もいますが,私生活との明確な境界があるわけではなく,いつ何時でもできるということがあると思います.

前者はその役割を演じる時間的・空間的に限りがあり,同時にそのことが自分自身を守ることにもなっています.限られた時間帯と場所での援助ということです.限りがあることで自分自身のその他の役割(たとえば夫に対しての妻・子どもに対しての母親・母親に対しての娘など)を侵害されることなく果たすことができます.したがって「勤務時間ないしは職場環境によって守ってもらっている」というある程度の安心感があります.家に帰ると安堵する経験は誰にでもあると思います.24時間続けなければいけなかったとしたらさすがに参ってしまうでしょう.

後者は時間的・空間的に特に自分で設定しない限りは限りはないということがあると思います.限りがないということはその他の役割を同時にこなしながら援助を続けていくということです.時間的・空間的限界によって自分自身を守ることができない代わりに,私たちお道の信仰者はどうしているでしょうか?私たちには幸いにも「いつ何時でも親神様が守ってくださっている」という安心感があると思います.たとえ私生活との間に明確な境界がなくともその感覚で援助を続けていける面もあると思います.それでも人間ですから限界点はあると思いますが・・・.

さて,私がこの両者をどのように区別しているかと言いますと,仕事はあくまでも仕事です.それ以上の関わりをすることはありません.職業的役割関係以外に関係持ち込むことは職業倫理として禁じられているくらいです.また,そうすることが治療的だということもあります.ただ,その限られた時間内に関しては今の自分ができる限りの援助はさせていただかないといけないという思いはあります.役割の限界外でできることは日々親神様に自分が関わっている患者さんのために祈ること(会長からもよく言われます)と自分自身の経験値と技術をあげることでしょうか.前者は心がけるようにしていますが,後者は最近さぼっています.本当は研磨していかなければいけないのでしょうが・・・.一方,おたすけに関しては私は素人同然です.仕事の経験は今後生きてくるでしょうが,今のところ他者へのアドバイス程度です.会長の代わりにおさづけに行かせていただくことはたまにありますが,自分自身でたすけを必要としている人を探してにをいがけやおさづけをさせていただくというところまでは全然達していません.最近ようやくリーフレット配りを始めたくらいであります.

なんだか書きながら未熟で未熟でどうしようもなく情けなさを感じてきましたが,それが今の自分なのですから,それをそれと受け止めて今後の成人に期待したいと思います.IZAMUさん,こんなんで回答になっているでしょうか.

関連記事として以下も閲覧ください.
お道と臨床と(旧ブログ)
相談することの重み
精神科で働く人たち

ほめること 

ほめることは大事なことです.ほめることは相手のことを認めること,「相手のしたこと,言ったことに対して」「その人がしたこと,言ったこととして認める」というところからはじまります.

例えば,小さな子どもが片付けを一人でやったら,大人はほめますよね.「すごいねー」「エライねー」「よくできたねー」というような声かけができるでしょう.ところが,ライバルが成功を収めたとき,心から喜んでほめることができる人はどれくらいいるでしょうか.表面的には,「すごいやんか」「おめでとう」と声をかけていても,心底そう思って声をかけられる人は意外と多くないかもしれません.それは相手のことを認められなくなっているからだと思います.「その人が」という視点がここでは大事なのですが,その人が今まで取り組んでた課題に対して成果を出したのなら,それは本質的には,あるいは絶対評価的には喜ばしいことなのです.その人がしたこととして喜んでほめてあげればいいのです.しかし,人はそこで相対的な評価を入れてしまうことがあるのです.「自分にはできないのに・・・」「うちの子はまだなのに・・・」と.賞賛に値する相手の行いに対して,素直にほめることができないとしたら,そこには絶対評価を相対評価にしてしまった個人的感情が背後に潜んでいると言っていいでしょう.

自分が相手を素直にほめられないときがあったら,そこには相手を「にくい」と思う感情があったり,相手に「うらみ」を感じてしまったり,自分と比較して「はらだち」を感じていたり,自分の優勢が危うくなるのを心配する「こうまん」さがあったりと,お道の言葉で言えば八つのほこりにもつながる気持ちが潜んでいる可能性があるのです.そういう気持ちに気付くことができたとき,人は自分自身の気持ちを改め,さらなる心の成長の機会を得たことになるのです.

相手をほめられないとき,何でかな?と考えてみてください.ほめることの原点は「相手のしたこと,言ったことに対して」「その人がしたこと,言ったこととして認める」ことです.自分がどうであるかは関係ないのです.これができないと難癖をつけたり,皮肉を言ったり,あげ足をとりたくなります.

ちなみに「相手のこと」を超えて「自分のこと」のように喜べる人は,もう1つ上の次元に達していると考えていいでしょうか.お道で目指す生き方は人が喜ぶ姿を見て共に喜ばせていただく通り方ですから,なかなか難しい通り方ですね.日々心がけたいものです.

子は親を映す鏡 

未読の方は以下を閲覧ください.
親の背中

子どもは親を映す鏡です.これは以前書いた「親の背中」の裏返しです.子どもが親のように育っていくということは,ひっくり返せば子をして親を知ることができるということです.

そんなことを言っても,子どもは親の思った通りに育ってくれないじゃないかと思う人もいるでしょう.確かにその通りです.子どもは親の思い通り,親の敷いたレールの上を歩んでくれるわけではありません.

以前に,宮崎伸一郎先生(教会長&臨床心理士)の講演の中で,「影」という言葉が出てきてなるほどと思った話がありました.記憶が曖昧なので自分の見解も加えて書きます.

世間的にも評価される両親の下で育ち,それを映したように子どもが育つ中に,一人だけ非行に走るような子どもがいたとしたら,それをどのように説明できるでしょうか.子どもは親を映す鏡であるのなら,そんな子どもに育つのはおかしいと思うでしょう.しかし,そうではなく,その子どもは親の生きられなかった影の側面を生きているわけです.どんなに人間的に素晴らしい人でも,人間である限り悪い心遣いだってします.それを表現する,行動に移すことが悪だと思っているとしたら,その行動は抑えられ,親の人生では生きられずに表だった人生の「影」として潜みます.そして,それは世代を超えて子どもに表れるのかもしれません.

ですから,子どもに問題が生じたときには,それを子どもの人格や養育環境のせいにするのではなく,親はこれまでの人生を顧みる必要があると思います.そして,子どもが自分の生きられなかった影の側面を生きているのだと理解したとき,以前は子どもが思うように育っていかない憤りや煩わしさ,疎ましさを知らず知らずのうちに子どもに向けていたかもしれませんが,子どもへの見方が劇的に変わることと思います.なぜならばその子は親が生きられなかった影の部分を一生懸命生きているのですから.子どもを通して,親はそういう面があったことに気がつき,自分の生き方の質を高めることができるのです.むしろその子に感謝する日さえ来るかもしれません.

どんな子どもでも,子どもは親の生き方を映しています.うちの子が何でこんなふうに・・・と嘆く親御さんがいらっしゃるかもしれませんが,そうではありません.親がやってこなかった,あるいはできなかった影の側面をその子が生きているのです.そのことを理解してあげてください.

子どもは親を映す鏡です.子どもをして自分の生き方を知るでしょう.

夢をみるということ 

少し前のことになりますがチャコの夢を何回か見たので,夢を見るということについて考えてみたいと思います.

夢の本質は体験を消化・吸収する過程です.ですから,消化・吸収された体験(夢)は記憶に残らないと言われています.消化・吸収に失敗した夢が記憶に残るのです.そう考えると「夢を見た」という表現は適切ではないかもしれません.「夢を覚えていた」と言った方が理論的にはしっくりくるでしょうか.

断片的に覚えている夢もあれば,はっきりと覚えている夢もあり,また見た気はするがまったく覚えていない夢,あるいは夢自体見てもいない,と様々な体験のレベルがありますが,それはどの程度現実に起こった体験を夢の機能によって咀嚼したかということと関係があるようです.ただ,夢は様々な置き換えや逆転や凝縮,象徴化などが起こっているので見た夢をただそのまま捉えればよいというわけではないようです.しかし,夢見手の連想が大事とは言われています.私は専門的な勉強をしているわけではありませんので,正直よくわかりません.このくらいにとどめて,いち信仰者としてのまおの視点から書いてみましょう.

おそらく夢自体は毎晩見ているのだと思います.ただ夢によって現実生活で解消できなかった部分を解消できた場合,まったく記憶に残らないのでしょう.逆に記憶に残っている場合,何らかのメッセージがあるとは思います.それは無意識からのメッセージと心理学では言うかもしれませんが,それだけではなく,私は親神様からのメッセージととれることもあると思っています.

親神様が私たちに伝えたいことがある,それはお手紙として私たちにくださるわけですが,身上や事情だけでなく夢もその手段として用いられることもあるだろうと思うわけです.ですから,同じ夢を何回も見る場合,その夢には何か意味があることもあるのでしょう.また,その時々の旬に合わせた象徴的な意味深い夢を見ることもあると思います.それもやはりお手紙である可能性があります.

ただそこで気をつけねばならないことは,あくまでも可能性であって,やはりそれがすべてではないということです.あくまで受け取る側の解釈の問題なので,自分にとって都合のいいように受け取っている可能性もあります.それが自分自身の心や行動の方向性を決めることにのみ影響するのであればまだ構いませんが,それがより多くの他者にも影響を及ぼしうる場合は,自分本位にならないよく考える必要はあると私は思います.周囲の人に相談してみるとかですね.

なんだか書いてみたはいいもののまったくまとまりません.要するに夢を理解するということは非常に難しいものなので,後で振り返ったときに「あれはそういうことやったんやなぁ.神様は以前から知らせてくださったんやなぁ」と思えるくらいでもいいのかもしれませんね.

一応結論として,「夢にはメッセージ性があり,神様の思いが込められていることもあるが,関係者が自分だけではない場合は,あくまでもその事象にまつわる関係者を交えてその夢に込められたメッセージを検討してみるのがよい」としておきたいと思います.ただこれは自論ですし,今記事を書いている段階でそうおさまったのであって,後に理解の仕方は変わる可能性はあるということをお断りしておきます.

関連記事になります.
チャコの夢(1)
チャコの夢(2)

「をしい」のほこり 

未読の方はまず以下を閲覧ください.
陽気に楽しく生きよう

八つのほこりについて書くと予告してしまったので,こうしてキーを叩いているわけですが,どういった形で綴るといいだろうかと考え中です.とりあえず1つずつ書きましょうかね.

八つのほこりとは「をしい」「ほしい」「にくい」「かわい」「うらみ」「はらだち」「よく」「こうまん」の八つのわが身勝手の心遣いのことです.これらを神をほうきとして絶えず掃除するよう教えられています.

「をしい」とは

人のために心をつかったり、体を使うこと惜しむ心づかい。物を貸したり、お金を払うことを惜しいと思い、また、手助けをするための労を惜しむなど、すべてに出し惜しみ、骨惜しみすること。

天理教公式ホームページより

です.もうこの説明だけで十分な気がしますがそれでは記事として取り上げた甲斐がないので,もう少し考えてみたいと思います.

過去記事「心身相関(その3)」で私は以下のように述べています.

フロイトという精神科医は精神分析という学問体系を確立しましたが,彼は人間の発達段階を口唇期・肛門期・男根期・潜伏期・性器期に分類しました.どの時期にも達成すべき発達課題はあるのですが,2番目の発達段階である肛門期には昨日述べたことに通じる部分があります.

肛門を通して快感を得て発達・学習する時期を精神分析では肛門期と呼びます.ちょうど2歳~4歳くらいですかね.肛門は幼児期に「出すことと溜めること」をトイレットトレーニングを通して学ぶ大事な部位でして,肛門性格という言葉もあるくらいです.過度に几帳面で倹約家,わがままといった執着的な性格傾向をもつ大人は幼児期における便のコントロールがうまくいかなかった肛門性格の人であると言われています.他者からみて「ケチ」「強迫的」「執着心が強い」などと思われる人はその傾向があるかもしれませんね.ここで学習する「出すことと溜めること」というのは象徴的なものでして便だけに限らず,その後の人生における様々な側面での出すことと溜めることに関係しています.要するに便意という身体のコントロールを通して心のコントロールを学ぶわけです.お金を出したり力を出したり時間をかけたりと,それらを貯める(惜しむ)ことなどに関係していると言えるかもしれません.

このことから考えるに,をしいのほこりは,ためる(貯める・溜める)こととはなつ(放つ)ことと関係があるように考えられます.そして,をしいのほこりを積むときとは,両者のバランスを欠いたときと言えるかもしれません.「よく」のほこりとも関係していると思われますが,自分自身の欲求・欲望から,人のために放つことを惜しんで,必要以上に自分自身の力を抑制し,自分の中にためこむわけですから,それらのエネルギー(=労力,経済力,学力などあらゆる力)は自分の中に蓄積されていきます.生きるために必要なエネルギーというのは普通に生活することによって,消化・吸収されて自分の血や肉となっているわけですから,必要以上にためることは余剰物になりかねません.食事にたとえればカロリーオーバーによる体脂肪の増加,消化活動にたとえれば消化不良による便秘とでも言えるかと思います.もちろん,展望のある力の蓄積というのは必要ですが,目的のない場合に無駄にためこんだり,わが身思案で自分の欲望のためのみにためこんでは,自分の許容量を超えたエネルギーは余剰物となり,そのときは満足を得られても長い目で見ると不本意な形で残るので,やはりためこむのではなく日々の生活の中で消費する必要があるのです.その消費を惜しんだ瞬間「をしい」のほこりを積むことのなるのではないでしょうか.

たとえばゴロゴロしているのであれば,動けるだけの余剰体力を労力として消費する,使っていない家具や電化製品を所有しているのであれば,その余剰所有物を貸与・譲渡して消費する,特製手料理のレシピを知っているのであれば,独り占めせずに共有知識として伝授して消費する,など出し惜しみしない,ためこまないで力を出す,欲を放つ(欲から放れる)ことで「をしい」のほこりを積む機会は減じられるのかもしれません.そして,ためずに惜しまず放つ(消費する)ことで,他者が助かったと感じ,喜んでもらえるのであれば,それは親神様の喜ばれる陽気ぐらしにつながる行動になるかと思います.さらに,自分のために必要な分さえためずに,他者のために消費することができるようになると,より高い次元へと成人できるのだろうと思います.ためることと放つことのバランス,難しいですが日々の中で心がけたいものです.

ちなみに,「ゴロゴロしているのであれば,動けるだけの余剰体力を労力として消費する」などと書いてしまったので,うっかり兄弟に当該記事を読まれた日には,私は動け動けと兄弟から責められることになるのは言うまでもありません.これも成人への道でしょうか・・・.

お道の考え方を生かす(2) 

未読の方はまず以下を閲覧ください.
お道の考え方を生かす(1)

お道では,教理の中心に「かしもの・かりものの理」というのがあります.当ブログでも過去に触れていますので,未読の方はお読みください.(⇒かしもの・かりものの理

私たちのこの身体は親神様からのかりものであると教えられています.(つまり,親神様からすれば,私たちに身体をかしているということです.)心臓が休みなく動くのも,呼吸ができるのも,手足が動くのも皆神様からおかりしているこの身体に親神様のお働きがあるからです.親神様のご守護なくしてはわたしたちは指一本動かすことすらかないません.

また,親神様よりおかりしているのは,身体だけでなく,実はこの世にある全てのものです.自然も空気も,便利な文明機械も皆親神様からのかりものであります.家族や友人,恩師といった身の回りの人間関係でさえも親神様が私たちにかしお与えくださっているものです.つまり,私たちはこの世に生を受けて,親神様のご守護によって生かされているだけで,計り知れない恩恵を親神様より受け続けているということになります.

それは,どんな苦境におかれても,世の中にはなお感謝に値することに満ち溢れているということだと思います.人間,良くない出来事,不快な出来事があると,どうしても心に不足を抱えがちですが,それでもなおその状況を明るく捉える一条の光は常に存在するのです.そのことをおやさまは身を以て教えてくださっています.

以下は天理教教典からの引用ですが,水と漬物ばかりの貧しい生活をしていた頃の逸話です.

十年に亙る長い年月の間、かかる窮迫の中にも、教祖は、常に明るい希望と喜びとをもつて、陽気ぐらしへの道を説かれた。そして、時には、水と漬物ばかりで過されながら、「世界には、枕もとに食物を山ほど積んでも、食べるに食べられず、水も喉を越さんというて、苦しんでいる人もある。そのことを思えば、わしらは結構や、水を飲めば水の味がする。親神様が結構にお与え下されてある」と、子達を励まされた。

(天理教教典 第5章 ひながた)

水と漬物しか食べられないような状況であれば,「何でうちはこんなに貧しいんだろう」「自分は情けない人間だ」などと考えて気分的に落ち込んでしまい,意欲を失ってしまう人は少なくないでしょうし,「これ以上失うものなんて何もありゃしない」と考えて,世の中に対する敵意を抱き,盗みという行動に出る人もいるかもしれません.そのような気分や行動は,「水と漬物しか食べられないという状況」に対して認知の部分で否定的自動思考が働いているから起こってくるのです.この認知が,仮に肯定的なものであれば,後に生じてくる気分や行動ももっと前向きなものになります.

たとえば,引用文のように水と漬物しか食べられないような貧しい人がいたとして,「水と漬物しか食べられないという状況」に対して「それでも水が飲めるご守護を与えられている」「水を飲めば水の味を感じられる」という認知が働きますと,結果として「ありがたいという感謝の気持ち」が沸いてくるでしょうし,行動として,その感謝に応えるべく人に喜んでいただく奉仕活動に勇んで取り組めるかもしれません.

これはどんな状況においても,当てはめることができます.私の体験で言えば,一昨日携帯電話を落としたときもそうですし,過去に車にガソリンをこぼしてしまったときでもそうです.たとえ,認知療法・認知行動療法を知らずとも(もちろん知っていればなお力になることでしょう),不快に思える出来事が起こっても,神様の存在を知っていて,そのお働きを心に感じられると,自動思考はおのずと肯定的なものになるのです.それは人生の様々な局面を乗り越えていく上でとてもたすけになる考え方だと私は思います.ですから,お道の教えを知っている方は是非その考え方を生かして人生を歩んでいってほしいと思いますし,知らない方は是非知っていただきたいと私は思うのです.

認知療法・認知行動療法はまだ歴史が浅いですが,お道のこのような喜びや感謝を見つける捉え方は160年も前から存在し教えられてきたことです.前者のように,残念ながらエビデンスはありませんが(それとも誰か実証研究しましたかね?),心理学的に考えてもとっても有効性の高いものだと思いますよ.

お道の考え方を生かす(1) 

物事のどのように捉えるか,それを「認知」と言いますが,この認知(思考あるいは考えと置き換えてもらって結構です)によって後の反応(気分・行動・身体)は大きく変わります.

たとえば,ある子どもが先生から叱られたときに,「先生はボクのことが嫌いだから叱ったんだ」と思ってしまうと,悲しい気分になるでしょうし,身体の反応として涙が出るかもしれません.行動として自分のことを嫌っている(と自分で思っている)先生を避けるかもしれません.

これはネガティブな考えです.もしかすると,自分は怒られても仕方のないことをしたのかもしれませんし,先生だって叱りたくないけれども,彼のことを思って叱ったのかもしれません.十分な事実確認をしないうちから「自分は先生から嫌われている」と思い込んでしまうことは早計と言えるでしょう.このネガティブな考えが後のネガティブあるいはアボイダント(回避的)な反応を引き起こしてしまうのです.

ところが,叱られたときに「先生はボクのことを思って叱ってくれているんだ」と思うとどうでしょう.先ほどのような気分になるでしょうか.人によっては励まされた気がして元気が出るでしょうし,次は気をつけようと反省する人もいるでしょう.そう悲しくなるようなことはないだろうと思います.涙も出ないでしょうし,先生を避けることにもならないでしょう.

このように,出来事に対してどのような認知をするかで後の気分や行動が大きく変わるのです.この出来事に付随して自然と出てくる考えを「自動思考」と言いますが,落ち込みやすい人や心配になりやすい人は,この自動思考がネガティブになっていることが多く,物事を悪い方向に捉えがちです.

ですから,そこでの考え方をネガティブではなく「もっと別の考え方をしてみよう」と思うことが大事なのです.心理学的にはこれは認知療法あるいは認知行動療法と呼ばれるものです.心理業界や精神医療業界ではここ数年ブームでもあります.

しかし,このセラピー,1960年代に登場したもので実はまだその歴史は40年余りです.この認知療法・認知行動療法とほとんど変わらない考え方を,160年以上も前に生き方として人々に伝えているのがお道の教祖である中山みき(おやさま)であります.

さて,そのお道ではどのように考えるのでしょうか.次回はこの続きからお話します.

相談することの重み 

面接の合間に時間があったので,ふと面接室での自分の座っている位置ってどんな風に患者さんに映るのだろうか?私だったら,何をセラピストに話すだろうか?と思い,普段患者さんが座る椅子に腰を下ろしてみました.

自分の位置はこういう角度で映るのか・・・と確認した後,自分の思考や感情に注意を向けて,どんな話をするだろうかと考えてみましたが,何もありません.特に話すことがないのです.誰もいない心理室で一人で椅子を移動している姿は滑稽だったかもしれませんが,私は人が他者に相談することの重さを改めて実感しました.

カウンセリングに来る患者さんは自分自身の目標のために,あるいは問題解決のために,毎週50分もの時間を割くのです.うまく言えませんが,それだけの時間を費やせるだけの悩みを抱えているということですし,それだけ時間をかけてでも何とかしたいという思いがあるということだと思います.それはこちらが思っている以上に重いことかと思います.しかも,(信頼関係はファーストコンタクト以降に徐々に形成されていくものですが)初回来談時には,まったくの他人に対して自分の悩みを打ち明けようというのですから,よほどの思いがあるのだと思います.それは常々意識しておかなければならないことですが,今日椅子に座ってみて改めてそのことを思いました.

これはおたすけにおいても同様かと思います.こちらからのにをいがけとなるとまた別ですが,相手の方からお道に,教会に,たすけを求めてきたとするならば,その人の事情・身上には相当の重みがあるということです.ましてや,まったく知らない門を叩いてきたということであれば,その抱えたる悩みたるや簡単には理解できないものかもしれません.それを引き受けてたすかっていただくには,私たち引き受ける側にもそれ相応の器や経験が必要ということだと思います.

なんだか自分で書いててとても大変な気がしてきましたが,ひとつひとつの相談の重みをしっかりと感じて器や経験を培っていく必要があるのだなぁと思いました.イマイチ納得のいく文章が書けていませんが,夜も更けてきたことですし,まだ明日の講義の準備が終わっていないのでこれで終わります.

今日は椅子に座って重みを感じたということを言いたかったのでした.
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