"心のおたすけ"の輪広げよう!
「道の心理臨床家の集い 2010 in 天理」
「道の心理臨床家の集い 2010 in 天理―道の心理臨床家のつながりを求めて」(主催=同幹事会)が10月10日,親里で開催されることになった.
昨年に続くこの「集い」は,心理臨床に携わる全国各地の教友がネットワークをつくり,互いに研鑽して信仰を深めようというもの.布教部の協力のもと,お道につながる臨床心理士などから成る同幹事会が中心となって準備を進めている.
今回のテーマは,「道の心理臨床家のつながりを求めて」.午前には,臨床心理士で元天理大学教授の堀尾治代さん(同「集い」顧問)が「宗教と心理臨床」と題して講演.続いて,臨床心理士で梅満分教会長の宮崎伸一郎さん(同「集い」代表)と堀尾さんによる対談が行われる.このほか,午後には少人数制での交流会も開かれる予定.
参加資格は,①臨床心理士などカウンセリング関係の資格を有する者,②臨床心理学・カウンセリングにに関する学習歴を有する者(大学水準以上),③臨床心理学・カウンセリングを学んでいる大学生および院生,④臨床心理学・カウンセリング関連領域(精神医学など)に関する資格を有する者.いずれも,ようぼく・信者を対象としている.
代宮崎さんは「心理臨床に携わっている教友の中には,信仰実践としての『おたすけ』と,職業としての『カウンセリング』の境界線に悩んでいる人も少なくない."心のおたすけ"を実践する専門家の輪を広げていくためにも,一人でも多くの人に『集い』に参加していただきたい」と呼びかけている.
◆日時
10月10日(日)
午前9時~午後4時
◆会場
おやさとやかた南右第2棟3階
◆参加費
一般1000円,学生500円(昼食代を含む)
◆締切
9月30日(木)消印有効
◆申し込み・問い合わせ
郵便番号,住所,氏名(ふりがな),生年月日,性別,電話番号,メールアドレスかファクス番号(参加確認の返信用),直属・所属教会名,満たしている参加資格を明記のうえ,ハガキ,ファクス,メールのいずれかで下記事務局へお申し込みください.
【事務局】
〒632-8501
天理市三島町271 布教部庶務課内
FAX 0743-63-7578
Eメール ※
心のおたすけの輪広げよう!
「道の心理臨床家の集い 2009 in 天理」
「道の心理臨床家の集い 2009 in 天理」が8月9日,親里で開催されることになった.
これは,心理臨床に携わる全国各地の教友がネットワークをつくり,互いに研鑽して信仰を深めようというもの.お道につながる臨床心理士などから成る同幹事会が企画し,布教部の協力のもと,準備を進めてきた.
(中略)
参加資格は,①臨床心理士の資格を有する者,②臨床心理学に関する学習歴を有する者(大学水準以上),③臨床心理学を学んでいる大学生および院生.いずれも,ようぼく・信者を対象としている.
代表を務める宮崎さんは「心理臨床に携わっている教友の中には,信仰実践としての『おたすけ』と,職業としての『カウンセリング』との境界線に悩んでいる人も少なくない."心のおたすけ"を実践する専門家の輪を広げていくためにも,一人でも多くの人に『集い』に参加していただきたい」と呼びかけている.
◆日時
8月9日(日)
午後1~6時
◆会場
おやさとやかた南右第2棟3階
◆申し込み・問い合わせ
郵便番号,住所,氏名(ふりがな),生年月日,性別,電話番号,直属・所属教会名,満たしている参加資格を明記のうえ,はがき,またはFAXかEメールでお申し込みください.
〒632-8501
天理市三島町271 布教部庶務課
FAX 0743-63-7578
Eメール ※
前者はその役割を演じる時間的・空間的に限りがあり,同時にそのことが自分自身を守ることにもなっています.限られた時間帯と場所での援助ということです.限りがあることで自分自身のその他の役割(たとえば夫に対しての妻・子どもに対しての母親・母親に対しての娘など)を侵害されることなく果たすことができます.したがって「勤務時間ないしは職場環境によって守ってもらっている」というある程度の安心感があります.(中略)
後者は時間的・空間的に特に自分で設定しない限りは限りはないということがあると思います.限りがないということはその他の役割を同時にこなしながら援助を続けていくということです.時間的・空間的限界によって自分自身を守ることができない代わりに,私たちお道の信仰者はどうしているでしょうか?私たちには幸いにも「いつ何時でも親神様が守ってくださっている」という安心感があると思います.たとえ私生活との間に明確な境界がなくともその感覚で援助を続けていける面もあると思います.それでも人間ですから限界点はあると思いますが・・・.
さて,私がこの両者をどのように区別しているかと言いますと,仕事はあくまでも仕事です.それ以上の関わりをすることはありません.職業的役割関係以外に関係持ち込むことは職業倫理として禁じられているくらいです.また,そうすることが治療的だということもあります.(以下省略)
以前に,宮崎伸一郎先生(教会長&臨床心理士)の講演の中で,「影」という言葉が出てきてなるほどと思った話がありました.記憶が曖昧なので自分の見解も加えて書きます.
世間的にも評価される両親の下で育ち,それを映したように子どもが育つ中に,一人だけ非行に走るような子どもがいたとしたら,それをどのように説明できるでしょうか.子どもは親を映す鏡であるのなら,そんな子どもに育つのはおかしいと思うでしょう.しかし,そうではなく,その子どもは親の生きられなかった影の側面を生きているわけです.どんなに人間的に素晴らしい人でも,人間である限り悪い心遣いだってします.それを表現する,行動に移すことが悪だと思っているとしたら,その行動は抑えられ,親の人生では生きられずに表だった人生の「影」として潜みます.そして,それは世代を超えて子どもに表れるのかもしれません.
ですから,子どもに問題が生じたときには,それを子どもの人格や養育環境のせいにするのではなく,親はこれまでの人生を顧みる必要があると思います.そして,子どもが自分の生きられなかった影の側面を生きているのだと理解したとき,以前は子どもが思うように育っていかない憤りや煩わしさ,疎ましさを知らず知らずのうちに子どもに向けていたかもしれませんが,子どもへの見方が劇的に変わることと思います.なぜならばその子は親が生きられなかった影の部分を一生懸命生きているのですから.子どもを通して,親はそういう面があったことに気がつき,自分の生き方の質を高めることができるのです.むしろその子に感謝する日さえ来るかもしれません.
どんな子どもでも,子どもは親の生き方を映しています.うちの子が何でこんなふうに・・・と嘆く親御さんがいらっしゃるかもしれませんが,そうではありません.親がやってこなかった,あるいはできなかった影の側面をその子が生きているのです.そのことを理解してあげてください.
子どもは親を映す鏡です.子どもをして自分の生き方を知るでしょう.
以前よりお聴きしてみたかったのですが、まおさん的には「精神科医」と「臨床心理士」、「精神保健福祉士」、さまざまな「カウンセラー」、さらには「お道のおたすけ」をどのように区別、関連、意義付けされておられるのでしょうか、
です.もうこの説明だけで十分な気がしますがそれでは記事として取り上げた甲斐がないので,もう少し考えてみたいと思います.人のために心をつかったり、体を使うこと惜しむ心づかい。物を貸したり、お金を払うことを惜しいと思い、また、手助けをするための労を惜しむなど、すべてに出し惜しみ、骨惜しみすること。
天理教公式ホームページより
このことから考えるに,をしいのほこりは,ためる(貯める・溜める)こととはなつ(放つ)ことと関係があるように考えられます.そして,をしいのほこりを積むときとは,両者のバランスを欠いたときと言えるかもしれません.「よく」のほこりとも関係していると思われますが,自分自身の欲求・欲望から,人のために放つことを惜しんで,必要以上に自分自身の力を抑制し,自分の中にためこむわけですから,それらのエネルギー(=労力,経済力,学力などあらゆる力)は自分の中に蓄積されていきます.生きるために必要なエネルギーというのは普通に生活することによって,消化・吸収されて自分の血や肉となっているわけですから,必要以上にためることは余剰物になりかねません.食事にたとえればカロリーオーバーによる体脂肪の増加,消化活動にたとえれば消化不良による便秘とでも言えるかと思います.もちろん,展望のある力の蓄積というのは必要ですが,目的のない場合に無駄にためこんだり,わが身思案で自分の欲望のためのみにためこんでは,自分の許容量を超えたエネルギーは余剰物となり,そのときは満足を得られても長い目で見ると不本意な形で残るので,やはりためこむのではなく日々の生活の中で消費する必要があるのです.その消費を惜しんだ瞬間「をしい」のほこりを積むことのなるのではないでしょうか.フロイトという精神科医は精神分析という学問体系を確立しましたが,彼は人間の発達段階を口唇期・肛門期・男根期・潜伏期・性器期に分類しました.どの時期にも達成すべき発達課題はあるのですが,2番目の発達段階である肛門期には昨日述べたことに通じる部分があります.
肛門を通して快感を得て発達・学習する時期を精神分析では肛門期と呼びます.ちょうど2歳~4歳くらいですかね.肛門は幼児期に「出すことと溜めること」をトイレットトレーニングを通して学ぶ大事な部位でして,肛門性格という言葉もあるくらいです.過度に几帳面で倹約家,わがままといった執着的な性格傾向をもつ大人は幼児期における便のコントロールがうまくいかなかった肛門性格の人であると言われています.他者からみて「ケチ」「強迫的」「執着心が強い」などと思われる人はその傾向があるかもしれませんね.ここで学習する「出すことと溜めること」というのは象徴的なものでして便だけに限らず,その後の人生における様々な側面での出すことと溜めることに関係しています.要するに便意という身体のコントロールを通して心のコントロールを学ぶわけです.お金を出したり力を出したり時間をかけたりと,それらを貯める(惜しむ)ことなどに関係していると言えるかもしれません.
水と漬物しか食べられないような状況であれば,「何でうちはこんなに貧しいんだろう」「自分は情けない人間だ」などと考えて気分的に落ち込んでしまい,意欲を失ってしまう人は少なくないでしょうし,「これ以上失うものなんて何もありゃしない」と考えて,世の中に対する敵意を抱き,盗みという行動に出る人もいるかもしれません.そのような気分や行動は,「水と漬物しか食べられないという状況」に対して認知の部分で否定的自動思考が働いているから起こってくるのです.この認知が,仮に肯定的なものであれば,後に生じてくる気分や行動ももっと前向きなものになります.十年に亙る長い年月の間、かかる窮迫の中にも、教祖は、常に明るい希望と喜びとをもつて、陽気ぐらしへの道を説かれた。そして、時には、水と漬物ばかりで過されながら、「世界には、枕もとに食物を山ほど積んでも、食べるに食べられず、水も喉を越さんというて、苦しんでいる人もある。そのことを思えば、わしらは結構や、水を飲めば水の味がする。親神様が結構にお与え下されてある」と、子達を励まされた。
(天理教教典 第5章 ひながた)
Author:まお & あいこ
まお:お道を信仰するよふぼくであり,教会子弟です.現在は精神科で働いています.
あいこ:お道を信仰するよふぼくであり,まおと出逢って入信しました.現在は精神科で働いています.