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お道と臨床と~心づくりのたね~

お道(天理教)と臨床心理学の視点を含めて,まおという人間が考える日々の通り方や考え方について綴っています.日記風なこともわりとあります.

新型うつ病(1) 

昨日の研修についてです.今話題となっている「新型うつ病」についてのレクチャーが午前中にありました.

今日の日本の精神医学は,一般にDSM-Ⅳ-TR(アメリカ精神医学会発行)の操作的診断に基づいているので,いわゆる「うつ病」と言われるものは「大うつ病性障害」の診断基準を満たす症状が現れていることを示していることが多いと思われます.つまり,「抑うつ気分,あるいは興味・喜びの喪失のいずれかがあり,なおかつ体重・食欲の変化,睡眠障害,精神運動症状,易疲労,無価値感・罪責感,思考力・集中力の減退も含めて5つ以上の症状が2週間以上続き,機能障害をきたしている,そしてそれが他の疾患によるものではない」という基準を満たしてはじめて「うつ病」ということになるわけです.

うつ病になった背景を問われることはないため,うつ病といっても色々なケースがあります.別離や喪失体験など第三者が考えてもそうなるのも無理はないと思うような出来事をきっかけにして生じる心因性うつ病,脳や身体の器質的な病気や薬物による身体因性うつ病,原因がよくわからず内部からひとりでに起こるとされる内因性うつ病など様々な分類がありまうす.これらの原因は操作的診断では問われないので,皆「うつ病」となるわけです.さらに,最近注目されているのが,うつ病のクライテリアを満たさないんだけれども,抑うつ症状を訴える「新型うつ病」です.

・・・続く.(最近眠すぎでエネルギー切れです.また後日)
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言葉とイメージ 

ある言葉には一般的な意味合いがありますが,各自が抱くイメージはそれに納まるとは限らず,その人によって違います.

たとえば,私が他人と話をしていて,その人が「元気になりたい」と言ったときに,私が抱く元気イメージとその人が抱く元気イメージは必ずしも一致するとは限りません.いや,一致しないことの方が多いでしょう.仮に私の元気イメージが「ごはんをモリモリ食べること」だとして,他人が抱く元気イメージは「週6日間働けること」かもしれませんし,「犬の散歩にいけること」かもしれません.あるいは「人に自分から声をかけられること」だったりもするでしょう.

それを私が私の元気イメージで捉えてしまって「じゃぁ元気になるためにはどうしたらいいだろうね」と一緒に考えたとしても,そもそも2人の描く元気イメージが一致していないかもしれないわけですから,話に食い違いが出てくるでしょうし,的外れな発言をしてしまわないとも限りません.

ですから,その前に「君にとっての元気ってのはどんなイメージ?」「元気っていうのはどういうときに感じる?」など,その人の持つイメージや感覚を話してもらって2人の間で共有してはじめて上記のような質問が効果的になってくるのです.


心がけていないと意外と忘れてしまうもので,今日のSVで先生に指摘されまして,近頃大事なステップを飛ばして自分イメージで「早分かり」していたことに気づかされました.これからは気をつけたいと思います.


似てるかもしれないので関連記事としてあげておきます.
行為と意味

枠組みを生かす 

こんな話があります.

ある人(Aさん)が勝ち負けにこだわったり,怒りや苛立ちを感じたりしやすい性格からどうも人と関わるとうまく付き合えないと.そのことを相談されたBさんは「どうして私には怒りや苛立ちなく接することができるのでしょうか」とAさんに問いました.するとAさんは「私はあなたに教えてもらう立場と思っていますから」と答えました.

それを聞いたAさんは【教えてもらう立場】に違和感を感じたため撤回しようかと思いましたが,あえて次のように言いました.「ならば,あなたの生活で関わる人に対しても教えてもらう姿勢で接してみてください.いいことも悪いことも人は他者を通して学ぶものです.よい行いをする人はよい模倣手として,悪い行いをする人は反面教師として,あなたはこれまでも色々周囲の人に教えてもらっていることと思います.上に立とうと思うのではなく,自らが1段下がり,低い心でもって教えていただくという姿勢で接してみてください.そうすれば,うまくいくかもしれません」と.

この話はここまでで結果がないので,その後どうなったのかわかりませんが・・・まぁ簡単に教えてもらう姿勢になれれば,今まで苦労していないとも思います.しかし,そういう視点に気付かなかったがためにできなかっただけで,それがフィットして解決してしまうケースもあるのでなんとも言えません.

相手の枠組みを利用したところは特記すべき点かと思います.自分自身を【教えてもらう立場】と持ち上げられるとある程度謙虚さのある人であれば,すぐさま「いやいや・・・」と撤回したくなるのではないかと思うのですが,AさんのBさんとの関係の枠組みを逆に他者への枠組みに利用するという発想は有用に思えます.その枠組みがその場ですぐさま利用可能であれば,(たとえ自分自身が腑に落ちなくとも)相手にフィードバックし,その枠組みをより広い範囲に適応できるように促すのも有効かもしれません.うまくいけば,この介入でAさんの他者認知が,推測ですが【人付き合いは競争である】とか【他人より上に立つべきだ】という枠組みから,【人付き合いは学ぶ場である】とか【他人から教えてもらおう】という枠組みに変化する可能性があります.

これは,わりと普通にやっていることだと思います.たとえば,家族には挨拶はできるけれども恥ずかしくて友達になかなか挨拶のできない子どもに挨拶を教える場面もそうかもしれません.

お母さん「たけしくんはどうしてお母さんにはおはようできるのかな?」
たけし「おはようするとお母さんが笑っておはようってゆってくれるから」
お母さん「そうね.お母さんおはようされると嬉しくて思わず笑っちゃうのよ.お友達のかなえちゃんも同じじゃないかな?今度会ったらおはようって言ってごらん」
たけし「うん,わかった.やってみるよ」

なんて,会話.【挨拶をすればお母さんは笑ってくれる】という枠組みを【挨拶をすれば友達は笑ってくれる】という枠組みに拡大させようとする試みですよね.同時に【友達に挨拶をするのが恥ずかしい】という枠組みが【友達に挨拶をすると気持ちがいい】という枠組みに変化する可能性もありますね.もっとも大人は子どもと違って余計な思慮が働きますから,こんなに簡単にはいかないことの方が多いかもしれませんが・・・.だから,素直な「さんさい心」は大切なんでしょうね.

話がそれましたが,このように枠組みは今現在のその人にとっての枠組みなだけであって,介入によりいくらでも変えることが可能なのだと思います.様々な思考やそれに伴う感情が妨げとなってなかなか変えられない面もありますが,うまく染みる言葉に出遭えると意外と枠組みが変わってしまうこともありますし,何度も試行錯誤しながら新しい枠組みを獲得していく場合もあります.どちらにしても,自分にとっても他人にとっても(要するに皆ですね),お互いにとって生きやすい枠組みを作っていけるといいですね.

他者との距離 

他者との距離について少し.

距離にはその人が相手に対して,あるいは相手の話す話題に対して抱く気持ちが表れます.よい印象を持てれば自然と距離は近くなりますし,悪いイメージしかもてなければ自然と距離をとりたくなります.

これは1対1でも大勢でも変わりません.講義や講話などでも前の方に座る人はよほどその講師によい印象を持っているか,その話題に興味があるかのどちらかであると思います.そうでなければ距離をとりたいと思うのが人の心情というものです.

私も学生の頃は総じて熱心な方ではなかったものですから,講義などは常に後ろの方に座っていました.特に講師に興味もなかったですし,講義内容にも興味がありませんでした.しかし,最近は研修や講演などがあるとできるだけ前の方に座るようになっています.講師個人には格別思い入れがないことが多いですが,その内容をできるだけ理解して吸収したいという思いが自然と距離を詰めるのです.

これが一般的だと思いますが,一方で誰に対しても距離が遠い人,あるいは近い人もいます.距離が遠い人は人付き合いが苦手だったり,人と接触すること自体に敏感で警戒心が強かったりするのだと思いますが,距離が近い人の心情というのは簡単には理解できないなぁというのが実感です.好意的な証拠,無警戒な証拠なのかもしれませんが,それが必ずしも相手に許容されるとも限りません.検査や面接などをしていても椅子を自ら前に移動させて近づいてくる人,立って話をしていてもだんだん距離を詰めて気がつくと20cmくらい前に立っている人,こちらの心情としては「近いよ」と思うわけですが,下がってもまた近づいてくるので結局距離を広げることができません.

適度な距離というのは難しいですが,エドワード・ホールによると,密接距離(0~45cm),固体距離(45~120cm)社会距離(1.2~3.6m),公衆距離(3.6m以上)とあり,親しい間柄であれば固体距離,ビジネスや社交場面,「ながら」状況(ex.作業しながら会話)であれば社会距離くらいが適度なようです.公衆距離をとると個人的関係が成立しにくいので,避けたい人にはそのくらいの距離を維持するとよいようです.講演・講義などは公衆距離ですね.

しなしながら,これも一般にということですので,結局のところ自分の印象によって他者との維持したい距離は変わってきますが,他者の自分への印象を考慮した上で伸縮させて適度な距離にしていく必要がありますのでより難しくなるのでしょうね.

グラスの効能  

人と話をするときにグラスやカップ,湯のみなどがあるのとないのでは心の余裕がまったく違うように思います.気を遣わない親しい間柄であればあまり関係ないですが,そうでない場合,緊張感や不安感が多少なりとも伴うものです.

そんなとき,手を伸ばせる位置にこれらがあることが役に立つのです.誰でも経験していることだと思いますが,飲食店や飲み屋でファーストドリンクが出てくるまでって何か落ち着かない感じがありませんか.飲み物が来ないうちは何回もおしぼりで手を拭いたり,おしぼりを折りたたんでいる人を見たことはないでしょうか.私はあります.自分も思い当たる節はありますが,何か腰を据えている感じがしないのです.単に飲みたい気持ちを抑えられないというわけではなくです.

しかし,一旦ドリンクが出てくると水を得た魚のように心が楽になり,緊張感が緩和され,落ち着けるのです.この手を伸ばせば届く対象があるということが間を埋めてくれるんですね.しかも,不自然さをかもし出すことなくです.ちょっと話題が途切れたとき,返答に困ったとき,手を伸ばして口をつけるという行動が我々を救ってくれているのです.ただ,あまりに頻回になると不自然さは否めませんが・・・何でもやりすぎはいけません.これは飲み物でなく,食べ物でも同様です.さらに言うと,書類など目を通すものがあるとより救われることがあります.視線をうつせるところがあるだけで気が楽になるんですね.実際,私も面接では発言に困ったときはしばしばメモ書きやカルテに視線を移すことが多いです.ドリンクがあればもう少し楽なのかもしれませんが・・・.

自分が話しやすくするためにももちろんですが,相手にリラックスして話をしてもらうためにも,このグラスの効能は日常から生かしていきたいですね.特に慣れない場所に来られた方などにはグラスや湯のみが空いているのを見たら「おかわりどうですか?」とすすめてあげる配慮をしたいものです.それが相手にいくばくかの余裕を与えます.ただ,早く帰りたいのに注がれてしまって帰るに帰れないということもありますので,相手の様子を見ての判断が求められますが・・・.


余談ですが,私個人が喫煙者を唯一うらやましく思うのはこの間を有効に使える効能についてです.飲み会などで運悪く話す相手がいなくなるときってあると思うのですが,そのとき喫煙者は煙草をふかしているだけで間をうまく作り出せていて,あまり孤独という印象がないんですよね,むしろ積極的にくつろいでるぜ!みたいな雰囲気さえ漂っていて様になっていると私には感じられます.一方,非喫煙者はこのウエポンがありませんので,グラスを口につけたり,食べ物をつついたりしてごまかすことは可能ですが,あとはボケーっとしているしかりませんので,しっかりと孤独感がにじみ出ます.学生の頃,運悪くこの事態に遭遇してしまったときは彼ら喫煙者をうらやましく思ったものです.もっともそれでも煙草を吸いたいとはまったく思いませんでしたけどね.



頭にないことは実行できない 

ある事件の報道後,似たような事件が増えるのはメディアの弊害と言えるかもしれません.

最近では母親が子どもを殺害する事件が増加しています.しかし,ここでは数年前の話になりますが,バナナに針が入っていたという事件を例として考えてみましょう.例えばストレスを抱えてイライラしていて社会に対して何か報復してやりたいと考えている少年がいたとしましょう.彼にどれくらいその手段の引き出しがあるかはわかりませんが,そう手段を思いつくものでもありません.そこで,バナナに針が入っていたというニュースを彼が見たとすると,彼の引き出しにその手段が加えられるわけです.これまで思いつきもしなかった手段を彼は不幸にもメディアを通して入手することになるのです.

メディアからすれば国民の知る権利として事件を報道すると共に,そうした事件の危険性を伝えようという意図があるとのだと思いますが,これがかえって模倣犯を育てることになっている一面もあると思います.

頭に思い浮かばないことを意図的に実行することはできません.遊園地の存在を知らない幼児が両親に「遊園地連れてって~」と駄々をこねることはありませんし,テニスやラケットを知らない人が自主的にテニスボールをラケットで打ってみるということもしないと思います.ガスコンロが登場する前の時代の人であれば,むしろラケットに魚をのせて七輪で焼くかもしれません.失敗を繰り返した結果,正しい用途を知るということはあるかもしれませんが,やはり引き出しとしてないことを実行するのは難しいのです.

ですから,いろいろな事件を報道することは必要なことではあるけれども,その弊害として,こうした事件の手段・手順を知らなければ実行することもなかった人も中にはいるということです.バナナに針を入れるなど,普通は思いつきません.報道後数年経ちますが,売り物の中に危険物を混在させるような事件が増えているようであれば,その犯人はその事件により自分の引き出しにその方法が加えられた人かもしれないのです.まぁ通常はそうした引き出しがあっても,良心(超自我)によりコントロールして実行しないものですが・・・.

特に子どもに情報を与えるときには配慮が必要です.ただやみくもに情報を与えるのではなく,その正しい用途や間違った用途もきちんと伝えなければいけませんし,そうした善悪の判断が子どもに備わっているかどうかを見極めないといけません.この情報を伝える,あるいは知ることが適切でないと判断されれば親は情報をシャットアウトするということも必要です.様々なメディアや人間関係からいろいろな情報が流れてくる現代の情報化社会において,これらをコントロールすることは難しく,必要なときに正しい情報を伝えていくことは我々の課題かもしれません.

ホーム・アドバンテージ 

一般に自分のテリトリーで勝負や交渉をすると有利であると言われています.

野球やサッカーなどスポーツの試合ではよく言われることです.ビジターは敵地に乗り込むというプレッシャーと使い慣れていないグラウンド,支援してくれるファンの規模の違い,などなどホームに比べると不利です.一方,ホームのチームは馴染みのグラウンドとファンに囲まれ,ビジターチームに比べると有利だと言われています.

これは,スポーツだけでなく,交渉や説得など対人間のコミュニケーションにおいてもあてはまることです.自分の思うように話を進めたいときには,このホーム・アドバンテージを有効活用するといいと思います.

たとえば,営業マンと応対する家人の関係を思い浮かべるとわかりやすいでしょうか.家や会社でそれを応対する人は自分のテリトリーで応対するため,心理的に優位な立場にあります.要求があれば少々強く言っても許容されますし,気に入らなければ断ればよいのです.反対に,こちらが頼みたいことがあって相手のテリトリーに入っていくときは,こちらは下手に出て対応する必要があります.

ですから,相手を説得したい,有利に交渉を進めたいといったときには,相手の家に訪問するよりも,待ち合わせ場所をこちらの馴染みの指定する,あるいは家や会社まで来てもらう方が成功率はあがります.反対に,説得されたくないときには,ホームにはいかないでこちらの馴染みの場所を指定すると心理的に不利になる要因を1つ排除することができます.ホームを獲得した側は自分のテリトリーですから,ゆとりをもって話を進めることができますし,ビジターはわざわざ出て来たにもかかわらずアウェイ入りしたことで,感じる必要のない居心地の悪さなどを感じ,劣勢になるのです.

といっても,ホームの権利獲りをしたからといって,劇的にうまくいく確率が上昇するなどということはなく,結局は個々人のコミュニケーションスキルが大事なのですが,それを展開する舞台を抑えることで話を進めやすくするということです.目に見えてはっきりとその違いがわかるというものでもありませんが,無意識的にこれは影響を与えると思います.交渉・説得する,あるいはされるときには,このホーム・アドバンテージを意識しておくと役に立つこともあるのではないかと思います.

混雑が生み出すもの 

「混雑」が生み出すものについて.混雑は攻撃性と競争的雰囲気を生み出します.

分かりやすいのは通勤ラッシュでしょうか.我先と電車に駆け込みますし,身体接触が増えてイライラする人が多いことでしょう.車の渋滞も同様です.割り込んでくる車両がいれば腹立たしく感じるでしょうし,進まないと苛立ちを覚える人が多いことと思います.

混雑とは空間的あるいは時間的に余裕がない状態で,心理的にも余裕がない状態とも言え,人は苛立ちを覚えたり,焦りを感じたりするのです.それは相手を出し抜く競争心や他人を責める攻撃性につながる行動を生み出すのです.

雀荘やパチンコなどギャンブル性のある娯楽場は窮屈に台が並んでいて隣の人との距離も近いと思いますが,実はこの効果が利用者の競争心や野心を高め,より挑戦させて身銭を浪費させるという作用を生み出しているのです.(ちなみに,私はギャンブルをしないのでこれらの作用を味わうことは適いません)

また,カラオケや飲み会なども同様です.大いに盛り上がって騒ぎたいときには狭い部屋に大勢詰め合った方が盛り上がりますし,会話も弾みます.カラオケボックスや飲み屋の店員はこのことを十分に認識しておく必要があります.客の身なりや雰囲気から適当な席や部屋を紹介できるようでなくてはいけません.少人数で行ったのに広い部屋に通されてイマイチ盛り上がらなかったという経験はないでしょうか?

以上のように,混雑は日常嫌なものかもしれませんが,うまく利用すれば場の雰囲気作りに大いに貢献するものでもあるのです.これは対話にも流用できます.活発に議論したいときや勢いが必要なときには狭い部屋で話を展開するといいでしょう.反対に,穏便に会議を進めたいときや,失敗をやんわりと解決したいときなどはゆったりとした部屋で話したいものです.

睡眠 

最近,ありえないくらい眠いです.睡眠はだいたい6~7時間はとっています.睡眠不足というほどではありません.ですが,眠いのです.しかし,眠いこと,眠れることは1つありがたいこともあります.

睡眠はこころの健康のメルクマールです.眠れないことは苦痛が伴います.私もよく眠れない時期というのがかつてありましたが,夜眠れないと考えなくていいことまで考えてしまいますし,それが不安を引き起こし,更に眠りから遠ざけるということがあります.ストレスが溜まると睡眠に影響することがあります.眠れないことがストレスからきていると思い当たる節があるならば,ストレス発散,あるいはストレス因の除去を心がけましょう.眠れないなぁと感じる人には以下のことが役に立つかもしれません.

睡眠障害には,夜なかなか寝付けない「入眠困難」,朝早く目が覚めてしまう「早朝覚醒」,夜中に目が覚めてなかなか寝付けない「中途覚醒」,まったく眠れない「全不眠」などがあるのですが,寝付けないときには,人肌くらいに温めた牛乳を1杯飲むと睡眠導入になると言われています.なかなか寝付けない人は試してみてください.

朝遅刻しないで起きれるかが心配で寝付けない人には暗示が意外と効きます.私は子供の頃は朝起きたい時間の数だけ枕をたたくとその時間きっかりに起きることができました.6時なら6回,6時半なら6回と7回目を軽く叩きます.するとその時間ぴったりに起きることができるのです.自己暗示なので「私はその時間に起きることができる」と思い込まないと効果はないと思いますが.最近は試していないので久しぶりにやってみようと思います.ちなみに「全不眠」が3日続くとまずいので,全く眠れない日が2日続いたら,メンタルクリニックの門を叩き,睡眠薬の処方を受けるといいと言われています.早期発見,早期治療にこしたことはありませんから.また,最寄りに教会があれば,悩みを相談したり,神様のお話を聞いたり,おさづけを取り次いでもらってもいいと思います.親神様がお働きくださるでしょう.

ちなみに,身体の病気による睡眠の影響についてはよく知りません.今日の話はあくまでもこころと睡眠とのつながりです.お間違えのないように.

治癒(完治),寛解―再発,再燃 

病気が治ることを,【治癒】といいます.狭義には「よくなった」ことを指し,完全に治ったことを【完治】と呼びます.これらは馴染み深い表現ですね.一方,【寛解】という言葉もあり,一般的な意味で完治しなくとも,臨床的に「問題ない程度」にまで状態がよくなることや,問題ない状態が続いている状態をいいます.

続いて,【再発】と【再燃】です.【再発】という言葉は馴染み深いですね.【再発】とは【治癒】したあとに再び同じ病気にかかることをいいます.一方,【再燃】とは病気が治りきったわけではないが,症状が薬で抑えられたり,時間と推移と共におさまったりして,安定した状態にあったものが,再び症状が活発になることをいいます.

つまり,【治癒】していて同じ症状が出れば【再発】であり,【寛解】していて同じ症状が出れば【再燃】ということになると思います.

統合失調症は投薬により症状がおさまって社会生活を問題なく送れるようになっても薬を飲み続けなければいけないことが多いので,【治癒】ではなく【寛解】状態にあることが多いです.もちろん【治癒】する人もいますが,【寛解】状態なのに服薬をやめてしまう人が中にはいて【再燃】してしまうことが多々あるようです.もちろん,【治癒】したからといって【再発】のリスクがまったくないわけではありませんが・・・.

ちなみに,私のある身上は通常【寛解】にありますが,まれに親神様のお手入れにより,【再燃】します.心遣いや行いを改めることを心に決め,おさづけを取り次いでもらい,薬の修理を施すとしばらくのち【寛解】してくれます.お与えいただいた身上によって心の成長ができる,親神様はいいようにしてくださるなぁとつくづく思います.

親孝行 

統合失調症と親孝行
-Satoruさんのブログ『プシコ・メモメモ』からの引用です.

講演を聞いていたら、東洋英和女学院の教授&横浜クリニック院長の山田先生が、昔にしたアンケートの話が出てきました。
病棟に長期入院している統合失調症の50名に「生きがいは何ですか?」と聞いて、紙に書いてもらったそうです。
すると45人が「親孝行」と書いたとのこと。
統合失調症で入院だけの生活を送ってる人にとって家族、特に親の存在は大きいものなんですね。


精神科病棟に長期入院している患者さんって,病状が悪くて退院できない場合もありますが,いわゆる社会的入院といわれている人たちもいます.病状は安定しているのだけれども,単身で生活するのは難しい,しかしながら家族が受け入れを嫌がったり,あるいは親兄弟が高齢のために面倒を見れずにやむを得ず入院し続けている人たちを指すことが多いです.

家族が受け入れを拒否している場合は別ですが,そうでない場合は家族に悪いイメージを持つこともそうないと思います.統合失調症に限らずですが,長期入院している場合,どうしても社会とのつながりに乏しくなり,かつての友人ともだんだん疎遠になり,孤立感を覚えることも多いと思います.そうなると,家族とのつながりというのがとても重要になりますし,それでもなおつながっていてくれる家族に対して,孝行したいという気持ちが自然と湧いてくるのかもしれません.

人間,豊かな社会資源に囲まれているときは親を口うるさく疎ましくと感じることもしばしばですが,周囲から孤立を感じたとき,それでもなお変わらず親として存在してくれたら,それほど心強いものはないかもしれません.誰しも元々は親の懐に抱かれ,育ってきたのですから,その感覚も当然のものでしょう.できることなら,日ごろからそのありがたみは忘れずに常に感謝して過ごしていきたいものです.

よい未来イメージはよい未来を生む 

私たちは生活する中で,先の展開や予定を色々イメージしながら日々を送っていることと思いますが,どのように成っていくのかをイメージするときに,よい未来をイメージできるかどうかは重要です.なぜならばイメージしていないことは意図的に引き起こすことが困難だからです.

たとえば,ある日の私ですが,「仕事を終えたら,帰りに日供の神餞物を買って帰ろう,そして帰宅後は夕食をとって,ジョギングと筋トレをしてとりだめしてあるビデオを見て寝よう」という素晴らしい未来をお昼の段階でイメージしていたとします.そういう予定,展開をイメージしているのですから,予想外の偶発的な出来事がない限りはそのように過ごすでしょう.

反対に,「今日も家に帰って特にやることもなくTVをダラダラ見て寝るんだろうな」というイメージしか持てないと,他に何も未来イメージがないわけですから,きっとその通りダラダラ過ごして寝ることでしょう.

帰りに買い物をしていくとか,外食していくとか,帰宅後は読書をするとか,家族と談話するとか,散歩に出るとか,人間の行動レベルで見れば,行動の選択はたくさんあるはずなのに,なぜそのような選択をすることなしに予定通り,展開通りの行動をとるのか.それは単純明快でして,それ以外の選択を頭にイメージしていないからだと思います.もし,イメージしていれば,複数のオプションの中から選択するわけですから,そのような行動に出る可能性もあります.

この頭に抱くイメージが,1つしかないと人はその行動しかとれずに終わってしまうことが多いかと思いますが,イメージの段階で複数の展開をイメージしておくとそれだけ行動の選択肢が広がります.たくさんのイメージを抱くことはたくさんの行動の実行可能性を生むということです.この際にはできればよい展開をたくさん描くようにすると,よい行動を選択できる可能性が高くなってよりいいのではないかと思います.そして,よい行動の選択肢が広がるということは,よい気分や感情を引き出す可能性も高くなるということでもあります.

ですから,タイトルに述べたように,よい未来イメージはよい未来を生むのです.よく考えると,喜べば喜びの理がまわり,案じれば案じの理がまわる,というのと似ていますね.ということは,お道を信仰している方にはごく自然なことですね.

考えに焦点を当てる 

「音楽が聞きたかったので集会室に行って音楽をかけたら,集会室にいた人達が皆出ていったんです.私は嫌われているに違いありません.」

ちょっと待ってください.それだけで「私は嫌われている」という信念を持ってしまうことは早計です.その考えが信じるに値するかを十分に検討してからでも遅くはないでしょう.

客観的事実として存在することは,あなたが述べた文章の最初の1文のみです.後の1文はあなたの考えです.それはおわかりですか?だとしたら,本当にあなたが考えた通り皆はあなたを嫌っているのでしょうか?

「私が部屋に入っていったら出ていったのだから,私が嫌だったに違いありません」

なるほど.その考えしか頭になければそう思うしかないでしょうね.別の可能性も考えてみませんか.ちょうど話が一段落して解散するところだったのかもしれません.あるいは,音楽を聞くのにざわざわ話をしていたら迷惑になると思って気を遣って部屋を空けてくれたのかもしれませんよ.そういう経験これまでになかったですか?

最初の考えしかないと,それしか選択肢がないのですから100%その考えを信じざるを得ませんが,今の2つは可能性として考えられることではありませんか?その2つを加えると,選択肢は3つになるので,あなたが嫌われているという可能性は確率論的には33.3%に減少します.ということは,嫌われていない確率は66.6%あるのですよ.これは嫌われていると信じるに足りる値でしょうか.

騙されていると感じる方もいるかもしれませんが,うまくその人に沁みることもあります.

場の演出 

講師などを呼んで話をする場合の部屋の広さなどについて少しお話します.当たり前のことですが.

講演会のように,人に話をしてもらう際には話す方にとっても聞く方にとっても部屋の広さと詰める人数のバランスというのが意外と大事です.ぎゅうぎゅうでも窮屈で落ち着いて話を聞けませんし,話す方も圧迫感,注察感があります.がらがらでも聞く方の意欲は削がれますし,話す方も同様です.適度な人数がいいのです.部屋にある程度人が詰まっていれば,きっとそれなりにいい話をされる人なんだろうなという先入観を聞き手に持たせることができます.

教会の月次祭などで講話を聞く機会がある人もいるかと思います.この場合は場所を選ぶことができませんので仕方ありませんが,場所を選べるのであれば,予定人数に見合った場所を確保した方が話し手に失礼がありませんし,場所を選べないのであれば,可能な限り適度な人数を確保するようにした方がいいと思います.

ちなみにうちの神殿は20畳なのですが,月次祭の講話のときは大抵10人未満です.少し少ないですがそう簡単に確保できません.現実的にはなかなか難しいですね.

「私達」という言葉 

私達という言葉には「和」があります.

君と僕,あなたと私,というよりも僕達,私達,という言葉を用いた方が,一人ではなく一緒にやるんだなという協同意識をもつことができます.前者の場合,目指すものは一緒かもしれないがそれぞれが別に行うのかな?というニュアンスがあるように思います.互いに立てあって助け合っていくんだよというのが相手に伝わりやすいのは後者のように思います.

親神様は人間が陽気ぐらしをして共に楽しみたいゆえから我々人間を創造されたと聞いています.神人和楽の世界を望まれたわけです.仲よく助け合って生活していくのであれば,できるだけ和のある言葉を使った方がいいと思います.その意味でも誰かと一緒に何かをおこなうときには協同意識の持てる"we"を日頃から使いたいものです.それは互いを認め,信頼していくための一歩です.

カウンセリングでも,「私達」という言葉を使います.困って援助を求めにやってくるのは患者さんの方ですが,治療目標,援助目標に向かってカウンセラーと患者さんとで一緒に考えていくわけで,治療同盟,あるいは作業同盟を結ばなければいけません.つまりやっつける共通の敵は困っていることであり,獲得すべきは患者さんの目標であり,それに向かって二人はチームを組んで歩んでいくわけです.そこにはカウンセラーである私と患者であるあなたがいることは前提なのですが,言葉として表すのは「私達」という和を意識した関係なのです.この和の関係が信頼感として育っていくのです.

家でも職場でも「和」を意識して日々を歩ませていただきたいと思います.
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