徳川幕府以来、日本は儒教による身分と階層の差別による秩序で固められていました。そのために、日本における人間関係は疑似血縁制(他人であっても親子に擬した制度)で成り立ってきたといわれています(山本七平、岸田秀など)
一方、天理教は啓示による原典を教理の基本としていますが、明治から昭和20年に至るまで、政府により「みかぐらうた」は部分的に削除され、「おふでさき」は短期間を除いて60年間にわたり発禁、「おさしづ」が全教会に配布されたのは、明治20年から80年後の昭和40年ですから、まさに歴史の悲劇というべき空白がありました。その間に天理教には、教祖の教え以前の身分を肯定する儒教的な疑似血縁制、階層的な道徳が混入してきたのです。
原典「おさしづ」には「理の親」という語句は唯一回、教祖を示す意味で使われているだけで、教会長や役員は「親の代わり」「親の役目」を果たすように諭されている場合があっても、先天的に「理の親」の立場を認められている言葉はありません。
要するに、戦後の原典に基づく「復元」は建前に過ぎず、制度としての「理の親」は今も続いているのです。制度を変えるためには、別の民主的な制度を取り入れなければ不可能です。このままでは、教理にもなく、戦後の法律にも反した、時代錯誤の世にも不思議な教団としての存在価値しか認められなくなるのは当然でしょう。
親神様が望まれる談じ合いは「自分の考えや意見は,果たして教祖のお心に適っているのだろうかと,常に自分自身の心に尋ねつつ,神一条の思案に立って,お互いがしっかりと話し合い,励まし合うこと」と強調.
高い低いの理はあれど,何事するも話し合い、伝え合いが神の望や。十人なら十人,下は下の理がある。上は上の理を一つの心に結んで了う。おら気が合わんという事は言うたらよい。結構と思えば,俺はどうやと言えようまい。あんな事というは見て居られん。見苦しいてならん。綺麗なものなら,いつ\/までも楽しんで居らるやろう。めん\/心得てくれ。もうこれいつも変わらん。 (M31.5.9)
教団としての組織,体制を整えることは,公認を受けた教団としての社会的責任でもあり,また,それによって統一が取れ,安定した活動ができるようになる.
しかし,その組織や制度に安住し,内実を欠くようなことになったのでは,血のにじむような苦心を重ねて今日に至る基礎,骨格を築いてくださった先人たちの努力を台無しにしかねない.
教団の組織や規約のあり方は,教祖から直接お教えいただいたのではない.社会的に要請されたものもあれば,それぞれの時代に応じて,教団としての活動がしやすいようにと取り決められたものもある.もし,そこに本来の活動を妨げたり,時代にそぐわないものがあるようなら,見直し,修正することも考えなければならないだろう.
おやさまが教えてくださった親神様の教えは真実の教えであることは間違いありません。この人間世界は親神様によって作られており,天然自然の理によって物事がうまく運ぶようになっています。うまくいかないということは,今の天理教という教団の姿が人間思案によって親神様の目―天の定規と照らし合わせてずれているところがあるからに他ならないと思います。これは一信仰者の生き方とは別の問題であるかもしれませんし,それに加担している部分もあるのかもしれません。「いま一番求められているのは,教勢活性化のために何をすべきか,何ができるのか,その手がかりや"芽"となるものを探っていくことにある」
「現状に目をふさいで通るわけにはいかない。なぜ低迷しているのかというところから考え,なんとか歯止めをかけたい」
高い低いの理はあれど,何事するも話し合い、伝え合いが神の望や。十人なら十人,下は下の理がある。上は上の理を一つの心に結んで了う。おら気が合わんという事は言うたらよい。結構と思えば,俺はどうやと言えようまい。あんな事というは見て居られん。見苦しいてならん。綺麗なものなら,いつ\/までも楽しんで居らるやろう。めん\/心得てくれ。もうこれいつも変わらん。(M31.5.9)
「普段、所属の教会が遠くて行けない人は、近くの教会に気兼ねなくどんどん参拝したらいいと思うのです。それを理が違うとか違わんとかいうことをいったいだれが決めるのでしょう。私は堂々と参拝したらいいと思う。…(中略)…
ですから、もし親が遠くに居ても、子供として親を思う気持ちがあれば、毎日行くことはもちろん、毎月行くこともできないかもしれない。しかしながらなんらかの方法で、毎日行きたい、毎月運びたいという気持ちを、その教会につなぐ、心を通わせるという方法は、いくらでもあると思うのです。郵便もあれば電話もある。だから私は決して、近くの教会へ参るということは、理が違うわけでもなければ、間違っているとは思わんので、やはり寂しくて近くに知った人がいれば、お茶を飲みに出かけるように、日々頼りない気持ちを勇気づけていただくために近くの教会に参らせてもらうということは、どんどんやったらよいと思います」
【立教152年1月1日号『天理時報』三代真柱様お言葉】
教団としての組織,体制を整えることは,公認を受けた教団としての社会的責任でもあり,また,それによって統一が取れ,安定した活動ができるようになる.
しかし,その組織や制度に安住し,内実を欠くようなことになったのでは,血のにじむような苦心を重ねて今日に至る基礎,骨格を築いてくださった先人たちの努力を台無しにしかねない.
教団の組織や規約のあり方は,教祖から直接お教えいただいたのではない.社会的に要請されたものもあれば,それぞれの時代に応じて,教団としての活動がしやすいようにと取り決められたものもある.もし,そこに本来の活動を妨げたり,時代にそぐわないものがあるようなら,見直し,修正することも考えなければならないだろう.
・・・(中略)
時代の風潮や世俗的な欲望に流されることなく,この道が教祖お一人から始まった道であることをあらためて胸に刻み,ようぼく,すなわち陽気ぐらしの世界建設のための人材としての自覚を高め,まずは身近なところから,陽気ぐらしの輪を広げていくことが大切だと思う.
・・・(中略)
教祖の教え通りにしていれば決して間違いはない,という信念をもって教えを実践することが第一だと思う.
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Author:まお & あいこ
まお:お道を信仰するよふぼくであり,教会子弟です.現在は精神科で働いています.
あいこ:お道を信仰するよふぼくであり,まおと出逢って入信しました.現在は精神科で働いています.