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お道と臨床と~心づくりのたね~

お道(天理教)と臨床心理学の視点を含めて,まおという人間が考える日々の通り方や考え方について綴っています.日記風なこともわりとあります.

「理の親」は教理ではない 

植田先生のブログに理の親についての記事があります.
「理の親」は教理ではない(天理みさとブログ<心のテープ>)

ちょっと引用してみます.

徳川幕府以来、日本は儒教による身分と階層の差別による秩序で固められていました。そのために、日本における人間関係は疑似血縁制(他人であっても親子に擬した制度)で成り立ってきたといわれています(山本七平、岸田秀など)

 
一方、天理教は啓示による原典を教理の基本としていますが、明治から昭和20年に至るまで、政府により「みかぐらうた」は部分的に削除され、「おふでさき」は短期間を除いて60年間にわたり発禁、「おさしづ」が全教会に配布されたのは、明治20年から80年後の昭和40年ですから、まさに歴史の悲劇というべき空白がありました。その間に天理教には、教祖の教え以前の身分を肯定する儒教的な疑似血縁制、階層的な道徳が混入してきたのです。
 
原典「おさしづ」には「理の親」という語句は唯一回、教祖を示す意味で使われているだけで、教会長や役員は「親の代わり」「親の役目」を果たすように諭されている場合があっても、先天的に「理の親」の立場を認められている言葉はありません。

 
要するに、戦後の原典に基づく「復元」は建前に過ぎず、制度としての「理の親」は今も続いているのです。制度を変えるためには、別の民主的な制度を取り入れなければ不可能です。このままでは、教理にもなく、戦後の法律にも反した、時代錯誤の世にも不思議な教団としての存在価値しか認められなくなるのは当然でしょう。


長いこと日記風ブログを書いてきましたが,ちょっと刺激されたので文字を起こしてみます.

私も今のお道には「理の親」という言葉が不適切に使用されていることが多いと思っています.私にとって重要なのは原典およびおやさまのひながたでありますし,「理の親」という言葉を使うのであれば,それが意味することは親神様・おやさまを指す以外にはありえません.しかし,教会組織のヒエラルキー(残念ながら組織として見た場合そう言わざるを得ません)の上層にある立場の者を「理の親」と解している人が少なくない印象を受けます.植田先生が指摘されているように,正しい教え(原典)なく伝えられたきた時代の影響といってもよいと思うのですが,それを正しいと勘違いしてしまうと,理の親がたくさんいることになってしまい,判断の基準が見えなくなってしまいます.彼らを理の親と呼ぶことが問題なのではなく,そう思うことにより,ある種の強制力が働き,より親神様の思いに近い判断や選択の自由度を失ってしまう可能性があることが問題なのです.ヒエラルキーは所詮復元の前に人が作りしもの(それが戦後組織の復元がされなかったことは残念ですが),理の親は人間を創造された親神様をおいてないと私は思います.

大教会や所属教会など先人たちがつけた道より私の祖父母の信仰,両親とつながり,私にこの道の信仰が伝わっていることは事実ですし,先人たちに数々のご恩があることもまた事実であります.しかしながら,先人たちの足跡に敬意を払えども,彼らもあくまでも人間思案を持つ一信仰者であるということは覚えておくべきです.もちろんそれぞれに誰にでもできることではない御用をつとめていますし,素晴らしい人たちもたくさんいます.その姿より学ぶべきこともたくさんあります.が,すべての判断が正しいわけではありません.人がどれだけ代を重ねても不変であるものが理の親である親神様であると思います.だとすれば私たちが理の親と仰ぎ一切を受け入れる対象は親神様・おやさまであり,原典から推しはかることのできる親神様・おやさまの思いのみだと思います.それと自分の目の前に生じている事象とを近づける努力が大切であり,つまりは,立場上上層に位置する人の判断や選択に対しても,それが人間の為すことである以上,信仰者各々が親神様・おやさまの思いと照らし合わせて判断していくことが大切なのだと私は思います.同時に,上の教会に足を運び,祀られている神様を拝し,信仰を深めてきた私の祖父母,両親の姿があったからこそ,今の私や家族の姿があることも確かなことと私は思いますので,その姿,思いを辿り,拝し続けることはまた大切なことだとも思っています.つまり,おぢばにつながる教会に足を運びつつ,各人が信仰を深めて親神様の思いを準拠枠として心におさめて判断や行動をしていくことが肝要だと思うのです.

この考え自体も今現在の私の思うところであり,今後変わっていく可能性もあります.とにかく私はおやさまの教えが好きで,教えを知り,実践していくことで人生は大きく変わるものと信じています.それを流布していくのに枷となるような制度があるのであれば,改めていく必要があると思います.一末端教会の青年にできることではありませんが.
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談じ合いが大切 

天理時報(4246号)に「神一条の談じ合いを」という見出しで真柱様のお言葉が掲載されています.その中で印象に残った箇所を引用します.

親神様が望まれる談じ合いは「自分の考えや意見は,果たして教祖のお心に適っているのだろうかと,常に自分自身の心に尋ねつつ,神一条の思案に立って,お互いがしっかりと話し合い,励まし合うこと」と強調.


コミュニティの最小単位である夫婦,家族が談じ合い,神意を求めていくことが大切な事は言うまでもありませんが,組織レベルにおいても当然大切なことであります.しかしながら,特に教会活動や教区活動を見ていると,私自身がその中にいない上から見えないだけかもしれませんが,まだまだ談じ合いとは程遠く,トップダウン方式の報告が多いと感じます.物事の考え方は幾通りもあるのでありますし,重々承知しているつもりでも自分では気づかずに世情の理に流され,親神様の思いから程遠い決断や取り決めをしてしまうということも多々あるのではないかと思います.私自身教内の動きを見ていてがっかりするようなことがありますし,ということは自分自身もきっとあるのだと思います.だからこそ,同じ立場,同じような考え方の人のみならず,色々な人を交えての談じ合いが必要なのでしょう.

おさしづに以下のようにあります。

高い低いの理はあれど,何事するも話し合い、伝え合いが神の望や。十人なら十人,下は下の理がある。上は上の理を一つの心に結んで了う。おら気が合わんという事は言うたらよい。結構と思えば,俺はどうやと言えようまい。あんな事というは見て居られん。見苦しいてならん。綺麗なものなら,いつ\/までも楽しんで居らるやろう。めん\/心得てくれ。もうこれいつも変わらん。 (M31.5.9)


うちの教会は信者さんも少ないですし,遠方から来られる方も多いので,なかなか談じ合いはできていないのが現状ですが,真柱様の声を受けてもっと大切にしなければいけないと思いました.もっともこのことは数年前より「天理と刻限」の植田先生のおさしづの研究を読んで十分に分かっていることではありますが,改めてそう思いました.

あと,以前にも記事にしていますし,先日会長を通して修理人の先生にもお伝えしたことですが,全教会が教団レベルの談じ合いに参加するのは現実的に難しいでしょうから,せめて国々所々の教会,布教所などの声を聞き届ける部署の設立を是非教会本部には検討していただきたいです.ボトムアップシステムが何もないのが現状です.誰しもこの道を信仰していれば,親神様の思いに近づかせていただきたいと思っています.しかし,組織のあり方が枷となっている点があるのも事実ではないかと思います.もちろんその恩恵を受けてたすけられている面もたくさんあるのですが,見直すべき点も多々あるように思います.以前に真柱様は天理時報(第4103号)の真柱様神殿講話(要旨)の中で以下のように話されています.

教団としての組織,体制を整えることは,公認を受けた教団としての社会的責任でもあり,また,それによって統一が取れ,安定した活動ができるようになる.
しかし,その組織や制度に安住し,内実を欠くようなことになったのでは,血のにじむような苦心を重ねて今日に至る基礎,骨格を築いてくださった先人たちの努力を台無しにしかねない.
教団の組織や規約のあり方は,教祖から直接お教えいただいたのではない.社会的に要請されたものもあれば,それぞれの時代に応じて,教団としての活動がしやすいようにと取り決められたものもある.もし,そこに本来の活動を妨げたり,時代にそぐわないものがあるようなら,見直し,修正することも考えなければならないだろう.


組織の規模が大きいだけに何かが変わるのは容易ではないかもしれませんが,本部が打ち出せばすぐに変わる面もあるはずです.変わるべきところは変わっていってほしいと思います.


関連記事になります.
大祭神殿講話より思う
互い互い談じ合い
第215回定時集会の記事より思う
宗教の認識の転換を

失意 

ある件に関する教区の対応に失意の念を隠せません.詳しくは書きませんが情けなくなります.組織化されると,いや組織の上の立場になるとと言った方がいいでしょうか.もっとも大切な人の真実の心ということよりも組織の維持や運営の効率化ということに目が向いてしまうのでしょうか.これは教内に限ったことではありませんが,おやさまの教えを聞いている我々はせめて間違えないようにしたいです.私も知らず知らずのうちに誤っていることもあるかもしれませんので気をつけたいと思います.相手方の思いをきちんと考えられる,そういう人間でありたいです.

第215回定時集会の記事より思う 

12月6日の天理時報(第4159号)に第215回定時集会の記事があります。
上田表統領の発言が興味をひきました。

「いま一番求められているのは,教勢活性化のために何をすべきか,何ができるのか,その手がかりや"芽"となるものを探っていくことにある」
「現状に目をふさいで通るわけにはいかない。なぜ低迷しているのかというところから考え,なんとか歯止めをかけたい」

おやさまが教えてくださった親神様の教えは真実の教えであることは間違いありません。この人間世界は親神様によって作られており,天然自然の理によって物事がうまく運ぶようになっています。うまくいかないということは,今の天理教という教団の姿が人間思案によって親神様の目―天の定規と照らし合わせてずれているところがあるからに他ならないと思います。これは一信仰者の生き方とは別の問題であるかもしれませんし,それに加担している部分もあるのかもしれません。

この道の原点はおやさまの道すがら,おやさまの教えにあるということを考えれば,信仰者には何が間違っているのかはある程度推測が可能であると思います。(もちそんそこにも人間思案が入る恐れがありますので,慎重な判断が必要ですが。)一介の信仰者にできることは自分自身がおやさまのひながたや教えを胸に抱きつつ日々を過ごしていくことです。信仰者それぞれが教えに沿った生き方を志すことは言うまでもなく大事なことです。しかし,個人の信仰に教団としての組織を変える力は残念ながらありません。なぜ低迷しているのかを真に考えるのであれば,全国各地の信仰者が感じていること,地域や教会,布教所の現状などおやさまの教えを信心している人の生の声を直接聞き入れていくことが必要でしょう。そのような役割を果たす部署などの設立などがまずは求められるのではないかと私は思います。

企業とは違うかもしれませんが,お道を信仰するある社長さんが,経営がトップダウン方式の会社はどこかで行き詰まるがボトムアップ方式の会社は伸びると言っていました。実際に現場で動くのは末端の社員ですから,彼らの意見を取り入れずして真の解決方法は見えないということだと思います。

さらに言うと,そもそも人体の仕組み自体がボトムアップ方式が反映されるようできています。目や耳や皮膚などで見たり,聞いたり,触れたりして知覚された情報は,感覚神経を通ってトップである脳へ伝えられた後,それを脳が整理し,今度は脳から指令が出されて,運動神経を通って手や足など体の必要な部位に伝達されるわけです。末端からのフィードバックなくして人体の円滑な働きはありえません。そして,この仕組みは親神様が作られたものですから,天然自然の理にかなっていることは言うまでもなく,逆に言えば,これが正しく行われずして天の理にかなうわけがないと私は思います。これは,人体というシステムにとどまらずあらゆるシステムに言えることではないかと思います。

おさしづに以下のようにあります。

高い低いの理はあれど,何事するも話し合い、伝え合いが神の望や。十人なら十人,下は下の理がある。上は上の理を一つの心に結んで了う。おら気が合わんという事は言うたらよい。結構と思えば,俺はどうやと言えようまい。あんな事というは見て居られん。見苦しいてならん。綺麗なものなら,いつ\/までも楽しんで居らるやろう。めん\/心得てくれ。もうこれいつも変わらん。(M31.5.9)

互い互い談じ合い 

9月20日の天理時報(第4148号)に婦人会に関する記事が載っています.

会創立の目的について橋本よ志ゑ氏は明治31年のおさしづに言及し,「互い互い談じ合い,諭し合いをして成人すること」,「義理や体裁にとらわれず互いに寄り集まって,教祖のひながたを研究し,また先輩の足取りを学んで,たすけ一条の道を歩む決意と,たすけ一条の精神を定めること」と話されたとあります.

原典の勉強をあまりしてない私には確実なことは言えませんが,そもそも教会の元ととなった「講」をおやさまがお許しになったのも,おそらくは互いに談じ合い,諭し合って成人していってほしいという思いがあったのではないかと思います.

今の私たちの教会の姿に談じ合いは存在しているでしょうか?互いに疑問を対等に主張できているでしょうか?原典にある親神様の思いに沿うようつとめさせていただくことがお道の信仰と私は思います.同時に神様を祀らせていただている教会も親神様の思いに沿うようにあるべきと思います.個人の信仰を親の思いに沿わせていただくためにも,教会のあり方を親の思いに近づけさせていただくためにも談じ合いは必要でしょう.教会を預かる立場の者は家族やお参りに来てくださる方たちと練り合い,談じ合いをすることがどこまでいっても大事なのだろうと思います.うちの教会も心がけていきたいです.

教会へ通うということ 

所属の教会が遠いので・・・」九つここまで

何ヶ月か前の記事になりますが,かんぞ~さんのブログからの引用です.

「普段、所属の教会が遠くて行けない人は、近くの教会に気兼ねなくどんどん参拝したらいいと思うのです。それを理が違うとか違わんとかいうことをいったいだれが決めるのでしょう。私は堂々と参拝したらいいと思う。…(中略)…
 ですから、もし親が遠くに居ても、子供として親を思う気持ちがあれば、毎日行くことはもちろん、毎月行くこともできないかもしれない。しかしながらなんらかの方法で、毎日行きたい、毎月運びたいという気持ちを、その教会につなぐ、心を通わせるという方法は、いくらでもあると思うのです。郵便もあれば電話もある。だから私は決して、近くの教会へ参るということは、理が違うわけでもなければ、間違っているとは思わんので、やはり寂しくて近くに知った人がいれば、お茶を飲みに出かけるように、日々頼りない気持ちを勇気づけていただくために近くの教会に参らせてもらうということは、どんどんやったらよいと思います」

【立教152年1月1日号『天理時報』三代真柱様お言葉】


私もそう思います.前真柱様のお話とズレるかもしれませんが,遠くてにおいのかかった教会に通えなかったり,においがけをした教会の方が丹精する時間や意欲がなかったり,人間ですから気が合わないこともあるでしょう.せっかくお道という素晴らしい教えに出会ったのに,そのような理由でお道から遠ざかってしまっている人も多いのではないかと思います.それよりはどこか近くに気兼ねなく心の落ち着ける教会があれば,参拝に行ってお道とつながり続けることの方がよっぽどいいと私も思います.今現在うちの教会に参拝に来られている方の中には元々はほかでにおいのかかった方が何人もおられます.

信仰において大事なことは個人が神様とつながっていくことだと思います.教会は日々の参拝やおつとめでほこりを払い,神様に感謝を伝え成人させていただく,その媒介の1つであると私は思います.ですから,その人がどこかの教会に通うことで信仰を続けていくことができるのであれば,それはいいことであるというのが今の私の考えです.それに今のお道の現状として,教会によってかなり雰囲気や教えの伝え方が違うので,最初の教会で合わなくても,何箇所目かで自分に合った教会にめぐり合うかもしれません.それもまた縁だと私は思います.

また,教内に知り合いができれば,その教会を訪ねてみたいと思うのも自然なことですから,大いに行き来してたすけあったらいいと思います.それを仮にいちいち許可が必要だったり,堂々と参拝できなかったりするのであれば(ないとは思いますが),何のための教会だろうという疑問を私は感じざるを得ません.あくまでも個人と神様を信仰を通してつなげ,陽気ぐらしのできる人材を育てさせていただくのが教会の役目なのだろうと私は思います.

あ,でもうちで育った兄弟が他の教会に参拝に行ってうちに来なくなったら悲しいですので意外とこの問題は難しいですね.

大祭神殿講話より思う 

天理時報(第4103号)の真柱様神殿講話(要旨)の「信仰者の中身と信仰信念が肝心」「私たちに課せられた急務は布教伝道」という見出し内の次の下りが今の私には印象に残りました.

教団としての組織,体制を整えることは,公認を受けた教団としての社会的責任でもあり,また,それによって統一が取れ,安定した活動ができるようになる.
しかし,その組織や制度に安住し,内実を欠くようなことになったのでは,血のにじむような苦心を重ねて今日に至る基礎,骨格を築いてくださった先人たちの努力を台無しにしかねない.
教団の組織や規約のあり方は,教祖から直接お教えいただいたのではない.社会的に要請されたものもあれば,それぞれの時代に応じて,教団としての活動がしやすいようにと取り決められたものもある.もし,そこに本来の活動を妨げたり,時代にそぐわないものがあるようなら,見直し,修正することも考えなければならないだろう.
・・・(中略)
時代の風潮や世俗的な欲望に流されることなく,この道が教祖お一人から始まった道であることをあらためて胸に刻み,ようぼく,すなわち陽気ぐらしの世界建設のための人材としての自覚を高め,まずは身近なところから,陽気ぐらしの輪を広げていくことが大切だと思う.
・・・(中略)
教祖の教え通りにしていれば決して間違いはない,という信念をもって教えを実践することが第一だと思う.


うちの教会も母が3代目会長となって早5年です.初代の祖父の頃と比べれば随分とありがたい暮らしができるようにはなってきています.しかし,その台となったのは初代からの祖父,祖母,2代の父の伏せ込みがあったからにほかなりません.その真実を台無しにするような生き方はやはり慎まねばならないと思いますし,今教会に住まわせていただいている私たちが祖父や父の代の苦労を忘れることなく,同様の思いをもって生かさせていただくことが,その恩に報いることだと思います.同時にそれは次の代が成人して後にまた今の私と同様の感覚を抱く種にもなるかもしれません.

また,天理教も現代日本社会においては宗教法人の1つの団体の名称でもあります.元々はおやさまは「お道」―親神様の教えを広めることが願いであったわけで,団体であるがゆえ組織としてまとめあげるためのルールなどは一応決まってはおりますが,あくまでも応法の手段であり,目的ではないと私は思います.なればこそ,今の教会事情などをふまえて,真柱様が言われたように,見直し,修正することも考えなければならない部分もあるのだろうと思います.一名一人が手段を目的化することなくこの道を歩むことができれば,きっともっと多くの方にお道を知って感銘していただけるのでしょう.と書いていますが,私自身も職に就いている身で,にをいがけやおたすけに関しての実践が十分に伴っておりません.陽気ぐらしの輪を少しでも広げられるように,私は今の私にできることを少しずつでもさせていただこうと思うところであります.

10月26日の大祭に参拝することはできませんでしたが,天理時報を通して考えさせられる機会をいただきました.ありがとうございました.
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