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お道と臨床と~心づくりのたね~

お道(天理教)と臨床心理学の視点を含めて,まおという人間が考える日々の通り方や考え方について綴っています.日記風なこともわりとあります.

宗教の認識の転換を 

今の時代,「宗教」ときくと敬遠する人が多いというのが現状かと思います.その背景には,オウム真理教をはじめ,いくつかの宗教団体の社会への悪影響ということもあると思いますが,その他に戦後の核家族化が進み,親元の近くに子どもたちが住まなくなり,地域内の人間関係が希薄に成っていることもあると思います.さらには,物質的に豊かになり,目に見えるモノばかりを人が重視するようになってしまったこともあると思います.そして,もっとも言いたいのは宗教という概念に対する世間の誤解です.

核家族化,地域の人間関係の希薄化が進んだことにより,人は多くの人に見守られているという感覚を養う機会を失っている部分があると思います.祖父母がいて,一緒に遊んでくれて,外へ出れば近所のおじさんおばさんが声をかけてくれて,自然と町に大人に守られ育ててもらっているという感覚を感じられたと思います.そういう縦のつながり,横のつながりが薄くなっていると思います.よかれと思って言った一言が「他人の子どもには口を出すな」とトラブルの元になることさえあります.親がしっかりと伝えていればいいですが,いわゆる物騒だと言われるこの世の中では,むしろ知らない人には気をつけなさいと,自分が知っていること,自分が見たことを手がかりとして生活せざるを得ないような環境にあります.さらに,物質的には豊かになったものだから,食べ物を粗末にする,まだ使えるものでも買い換えるということも起こって,昔の人たちが感じていた物質に宿る魂だったり神様だったりという精神面を考える文化がなくなってきているということもあると思います.目に見えるものばかりを信じ,目に見えないものは信用しないという図式ができあがってしまっているのです.一方,クリスマスや正月,盆,節分など民間伝承という形で継承されてきた宗教的行事はまだすたれてませんし,そういう機会にはお参りする人もまだまだ多いので,宗教心がないわけではないのでしょう.願い,祈ることは信仰と結びつく思考活動です.それでも集団に迎合するのが日本人の心性でもありますから,単に皆が行くから行くというイベント感覚程度なのかもしれません.

もう1つ宗教が敬遠される背景は最初に述べたカルト教団など悪影響を及ぼす宗教団体ばかりが目立ち,宗教=騙されるといった図式ができあがっていることもあると思います.スピリチュアル的な関心が高まる一方で,「~教」と名の付くものに対し,否定的なレッテルが貼られ,疎まれる傾向にあることは否めません.ある教えを信仰することは,その人がその宗教団体を盲目的に追い続け,隷属するということを意味しません(そういう方もいるのかもしれませんが).宗教とは本質的には「人間のこころの成長と救済を目指すある教理によって規定される人生観を提供する信念体系」であり,信仰によって自らの行動を動機付け,それによって自分および周囲が日々を明るく通れる可能性を導くものであると思います.宗教という概念には儀礼と組織も含んで捉えられる場合が多いですが,最も重要なのは信念であります.そのことに社会の多くの人が気付いていないということがあると私は考えています.

多くの宗教が法制の下,宗教法人という形をとっていますが,それは宗教を流布するための単なる形式であって,宗教の本質はそこにあるわけではありません.ところが多くの宗教が会員制度や年会費をもうけ,あたかも個人が宗教団体に入っているかのような形になっています.世間でこうした「宗教に入る」という表現がよく使われていることには,1つには宗教が本来,人間救済のための人間の生き方を方向づける「信念体系」であるという観念的側面よりも「宗教団体」としての組織的側面のイメージが浸透しているということがあるように思います.このような組織的側面のイメージの浸透が生じる背景には,その宗教を信奉する指導的な立場にある者が,純粋なる教理の流布という観念的側面の伝達よりも信者数の確保,拡大といった組織的側面に固執している場合があるということもあるのではないかと私は思っています.本来宗教とはそういうものではないと私は思います.

布教とは「教えを布く」,つまり「教えを広く行き渡らせる」ことであり,世の人々に素晴らしい生き方・考え方があることを広く知っていただくことだと思います.それは先述した観念的側面の流布であり,決して組織的側面の拡大ではありません.観念的側面の流布の結果として組織的側面の拡大が達成されるのであればよいのですが,もし,後者のみに固執した場合,それは単なる団体活動への勧誘となる可能性があると私は思います.そして,誘う方も誘われる方にもこのような意識が漫然とあることが,「宗教に入る」という言葉が多用されていることの要因ではないかと私は思っています.

宗教を信奉する者が目指すのは本質的には自分自身が素晴らしいと思うことを他者にも知っていただくことであり,引き入れることではなく,行き渡らせることだと私は思います.その点,お道の「にをいがけ」という言葉は的を得ていると思います.においとは自然と広がって良くも悪くも他者の関心をひくもの,言わば自然と行き渡るものです.屋台の焼鳥など意図的に仰いで客を引き入れることにも使えますが,本来は空気の流れと共に自然と伝わっていくものと思います.

特に,おやさまが自らひながたをお示しくださった「お道」は,現代社会では「天理教」という宗教法人として認可されていますが,おやさまが天理教という教団を作ったのではありません.おやさまはただ人間が作られた目的を,皆が仲良く助け合う陽気ぐらしという元の教えを,親神様の教えを,私たち人間に伝えたかっただけだと思います.お道だけでなく,それ以前に素晴らしい教えを説いた開祖は組織の拡大や維持よりもただ教えを行き渡らせたいという思い一筋だったことと思います.そのことを信仰者は忘れてはならないと思うのです.

先に述べたように宗教においてもっとも重要なのは信念体系であります.したがって,信仰の実践とは,言わばその宗教のもつ価値観が個人のパーソナリティに内在化し,個人が意思決定や行動選択をする際に,その信念に基づいて一貫した言動を導くことですから,「宗教に入る」という表現は適切ではありません.むしろ,「宗教が個人に入る」わけです.個人が宗教を自身の生き方の指針として,人生のよすがとして,自己に取り込むわけです.

このように考えると,宗教とは入るものではなく,宗教が個人に入る,つまり宗教は自らに入れるものだということが分かるかと思います.したがって,私自身は「天理教に入っている」とは思っていませんし,そういう表現も使いません.お道の教えを自らの生きるよすがとして取り入れ(至らないながらも)実践させていただきたいと思って日々を過ごさせていただいているわけですから,「私にはお道が入っている」「お道を取り込んでいる」表現の方が自己感覚に合うわけです.この宗教の本質を大多数の人はおそらくは理解していません.宗教は自らが入るものではなく自らに入れるものであるというベクトルの転換ができ,それが社会に浸透すれば,宗教とは1つの人格成長のための手段,豊かな人生観と間違いのない生き方を養うための手段としてその敷居は下がるのではないかと思うのです.さらに,家族ぐるみであればあれば,共通の価値観を持ったつながりとなるわけですから,教えを通して強い絆ができるでしょう.

宗教とは人としての生き方を学び,自らに取り入れるものです.宗教は多くのことを人に教えてくれます.他宗教をあまり知らないのですが,人格の成長を促す教理のある宗教は基本的に悪いものではないと考えています.そういう宗教に触れる機会は祖先を大事にする心,自然への畏敬と感謝,他者への思いやり,人としてあるべき姿など,学校の道徳で教えてくれる以上のものを教えてくれると思います.そういうことを知る機会がなくなっているとしたら,それは心を豊かにする重要な1つの機会を失っているということになると思います.宗教でなくとも心を豊かにする教育は可能なのであえて1つの機会としておきます.

もちろん,だめの教えであるこのおやさまの教えを私が最も勧めるのは言うまでもありませんが.


宗教に関する関連記事です.是非閲覧ください.
信仰の本質~宗教というラベリングの影響
人をして宗教を知るということ(1)
人をして宗教を知るということ(2)
人をして宗教を知るということ(3)
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宗教は入るものではない 

よく「宗教に入る」という表現を用いる人がいます.私はこの表現に違和感を覚えずにはいられません.

本質的な意味での宗教とは,超越的な存在との関係において,あらゆる事象に究極的意味を与え,救済しうる,ある特定の価値観に基づいた信念体系であり,それを信仰として個人の人生ないしは生活において実践するものと思います.宗教という概念には儀礼と組織も含んで捉えられる場合が多いですが,最も重要なのは信念であります.

信仰の実践とは,言わばその宗教のもつ価値観が個人のパーソナリティに内在化し,個人が意思決定や行動選択をする際に,その信念に基づいて一貫した言動を導くことですから,「宗教に入る」という表現は適切ではありません.むしろ,「宗教が個人に入る」わけです.個人が宗教を自身の生き方の指針として,人生のよすがとして,自己に取り込むわけです.

「宗教に入る」と言うと個人が宗教に取り込まれる形となり,それこそ教団という組織的イメージの側面ばかりが強調され,その教団に隷属するという誤解を生みかねません.世間でこうした「宗教に入る」という表現がよく使われていることには,1つには宗教が本来,人間救済のための人間の生き方を方向づける「信念体系」であるという観念的側面よりも「宗教団体」としての組織的側面のイメージが浸透しているということがあるように思います.会員や年会費という概念が存在する教団もありますので,そのような側面が強調されてしまうのも無理のない話なのですが,本来はそういうものではないと私は思います.

このような組織的側面のイメージの浸透が生じる背景には,その宗教を信奉する指導的な立場にある者が,純粋なる教理の流布という観念的側面の伝達よりも信者数の確保,拡大といった組織的側面に固執している場合があるということもあるのではないかと私は思っています.

布教とは「教えを布く」,つまり「教えを広く行き渡らせる」ことであり,世の人々に素晴らしい生き方・考え方があることを広く知っていただくことだと思います.それは先述した観念的側面の流布であり,決して組織的側面の拡大ではありません.観念的側面の流布の結果として組織的側面の拡大が達成されるのであればよいのですが,もし,後者のみに固執した場合,それは単なる団体活動への勧誘となる可能性があると私は思います.そして,誘う方も誘われる方にもこのような意識が漫然とあることが,「宗教に入る」という言葉が多用されていることの要因ではないかと私は思っています.

宗教を信奉する者が目指すのは根本的には自分自身が素晴らしいと思うことを他者にも知っていただくことであり,引き入れることではなく,行き渡らせることだと私は思います.その点,お道の「にをいがけ」という言葉は的を得ていると思います.においとは自然と広がって良くも悪くも他者の関心をひくもの,言わば自然と行き渡るものです.屋台の焼鳥など意図的に仰いで客を引き入れることにも使えますが,本来は空気の流れと共に自然と伝わっていくものと思います.

特に,おやさまが自らひながたをお示しくださった「お道」は,現代社会では「天理教」という宗教法人として認可されていますが,おやさまが天理教という教団を作ったのではありません.おやさまはただ親神様の皆が仲良く助け合う陽気ぐらしという教えを私たち人間に伝えたかっただけだと私は思います.お道だけでなく,素晴らしい教えを説いた開祖は組織の拡大や維持よりもただ教えを行き渡らせたいという思い一筋だったことと思います.そのことを信仰者は忘れてはならないと思うのです.

したがって,私自身は「天理教に入っている」わけではなく,お道の教えを自らの生きるよすがとして取り入れ(至らないながらも)実践させていただきたいと思って日々を過ごさせていただいているわけですから,「私には天理教が入っている」―お道が入っている―お道が染み入るという表現の方が自己感覚に合うわけです.(染み方はまったく足りませんが….)皆さんはいかがでしょうか?

自分自身が「宗教に入っている」と思っている方は自らに「宗教が入っている」と感じられるように,これからの方は「宗教に入る」のではなく,自身に「宗教が入る」ように,それぞれ成長できるといいのではないかと思います.また,「宗教に入る」という表現を使っている方は,これからはその表現を改めてみてはいかがでしょうか?宗教は「入る」ものではなく,宗教の方が「入る」,つまり自らに「入れる」ものです.


宗教に関する関連記事です.是非閲覧ください.
信仰の本質~宗教というラベリングの影響
人をして宗教を知るということ(1)
人をして宗教を知るということ(2)
人をして宗教を知るということ(3)

人は人をして宗教を知る  

憂うところがあり,過去記事のリンクを並べています.是非目を通してください.
私だけでなく,誰にでも言えることと思います.

信仰の本質~宗教というラベリングの影響
人をして宗教を知るということ(1)
人をして宗教を知るということ(2)
人をして宗教を知るということ(3)

信仰のススメ 

未読の方はまず以下を閲覧ください.
次弟の身上より思う
神様のご守護

次弟のC型肝炎が治癒した出来事から,私は神様のお働きというものを感じたわけですが,信仰のない人にとっては到底理解できないことかもしれません.その場合,「運がよかっただけ」,あるいは「偶然」という言葉で処理されるかもしれません.

確かに,神の存在や働きを信じるということは非科学的なことではありますが,実はそのことはあまり問題ではないのです.このブログでもすでに何度か触れていることかもしれませんが,信仰をもたない人のために信仰をもつことの有効性を述べておこうと思います.

大抵の人の感覚において「不幸」と思われるような出来事について述べるのであれば,その出来事の生起という外的事実により,当事者を含めた家族がそれぞれの個人的体験において悲哀などの感情体験以外に何らかの神の思いを感じ,心の成長の道標となるものを確立したのだとしたら,そこに人生における創造的な価値を見出すことができたと言えると思います.そして,当事者のために祈り,練磨する経験があったのだとすれば,それは人格の成長につながるはずです.さらに,その出来事の解決という外的事実により,当事者を含めた家族がそれぞれの個人的体験において神の思いと感謝を感じ,そのご恩報じのための道―つまりは人をたすけようという志,あるいは人に喜んでもらおうという志を堅持して行動に反映させていくのであれば,それは道徳的観点から見ても,その個人の行動は評価されるべきものとなり得ます.

しかし,信仰がなかった場合,発覚の事実は単なる悲観のみに終わったかもしれませんし,治癒の事実でさえも安堵と喜びに終わってしまったかもしれません.個人的体験において幸福感が生じたということにおいては,信仰者と変わりありませんが,そこに外的事実に対する積極的価値や人格の成長,そこから導き出される行動に社会あるいは他者への貢献を生み出すことは通常なかなか達成されないのではないかと思います.

人生には様々な現象が起こり得ますが,その出来事が本当に神によってもたらされたものであるのかどうかは問題ではなく(私はもちろん神の働きによるものと理解していますが),その出来事が神によってもたらされたものであると信じ,その出来事に込められた神の思いや働きを感じることによって,人間としての成長の機会を得ているということがとても価値あることであり,信仰の有無にかかわらず皆に知っていただきたいことです.

ですから,何もお道に限らず信仰心が人間の心を正しい方向に導く限りは,信仰によって得られる恩恵というのは大きいと思います.中には信仰を持たなくとも,このように人生の様々な局面に積極的な意味づけをして自己成長の機会にすることができる人もいるでしょう.そのような人について心理学者のAllportはそれに変わる人生哲学をもっていると述べていた記憶があります.世界中の人間が信仰を必要とする中で日本人は特異です.特異ですが,宗教心はもっていると思います.信仰のない方は是非その眠れる心に触れてみることを私はオススメします.特に私がオススメするのはお道ですけどね.未読の方は是非カテゴリー「お道」および「お道×心理学」をお読みください.

人をして宗教を知るということ(2) 

未読の方はまず以下を閲覧ください.
信仰の本質~宗教というラベリングの影響
人をして宗教を知るということ(1)

結局,信仰がその人にとってどんな意味があるのかによって,その人の行動や考え方に及ぼす影響が違いますので,外発的な信仰ををもつ人の行為からその信仰対象となる宗教の善し悪しを判断・評価することはできないということです.

外発~内発のスペクトラムの中には宗教を利用する人から実践する人まで含まれています.このことが何を意味するかといいますと,たとえば教理から大きく踏み外す人がいたとしても彼の信仰が外発的なものであるならば,踏み外した行為は元々の彼の人格・価値観によって導き出されたものであるので,宗教の影響をあまり受けていません.なぜならば,彼は自分に都合のいいように宗教を利用するだけですので,信仰対象の思惑や物事の成り行きの意味について信仰的に考えることをしないからです.

ですから,カルト教団や宗教によって私腹を肥やそうとする代表などがいる教団はトップが外発的レベルの信仰しかもっていないのですから,やはり問題外かと思いますが,その他の比較的良心的な宗教の良し悪しを判断するにしても,一個人の行動だけで判断することはできないのです.あくまでも宗教は人がその宗教を内発的動機の下に信仰した場合に,信仰者の人格や行動に一貫性と寛容さを導くのです.

しかし,そうはいっても人は信仰スペクトラムのどこに位置するかわからない一個人の行動から判断します.ですから,自分が信仰者として公言する,あるいは周囲に知られているのであれば,なおさらそれにふさわしい生き方をしていく必要があるのだと思います.つまり,私たちの行動から他者は(正しい理解かどうかは別として)宗教を知ることができるということです.教会は当然その対象となります.

次回はお道に焦点を当てて考えます.

続きは以下を閲覧ください.
人をして宗教を知るということ(3)

人をして宗教を知るということ(1) 

関連記事になりますので,未読の方は以下を閲覧ください.
信仰の本質~宗教というラベリングの影響

以前に,宗教というラベリングのみで否定的に捉えるべきではないという話をしましたが,今日は逆に人から宗教を知るということについて考えてみたいと思います.

世の中には様々な宗教があります.世界三大宗教であるキリスト教,仏教,イスラム教,その他にヒンドゥー教などなど・・・未開文化であれば自然崇拝(アニミズム)もあるでしょう.日本をとってみても様々です.仏教には幾つもの宗派があり,神道では八百万の神が存在し,江戸末期の日本三大新宗教と呼ばれる天理教,黒住教,金光教,そして以後の新興宗教とたくさんの宗教があります.(近年の新興宗教は社会的に問題を起こす教団が多く,宗教全般が一般に敬遠される傾向にあることは否めません.)

さて,このように様々な信仰対象が存在するわけですが信仰のレベルは様々です.一言で「信仰」と片付けてしまうにはあまりにも幅があります.つまり,信仰対象あるいは信仰をどのようにパーソナリティの中に取り込んでいるかということで信仰のレベルは変わるわけです.

単に「家族や親戚が信仰しているので付き合いで」という人もいるでしょうし,「ご利益ありそうだし」「保険みたいなもんだよ」「助かりたいから」という現世利益的な人もいるでしょう.このあたりの人は心理学者のAllportによれば「外発的に動機づけられた宗教」と呼ぶようです.つまり自己の外にある利益のための信仰です.反対に「人だすけのため」「感謝のため」「心づくりのため」と「内発的に動機づけられた宗教」をもつ人もいます.つまり,自己の内に根付きその人の行動を導く信仰です.そしてAllportは「外発的宗教をもつ人は宗教を利用するが,内発的宗教をもつ人は宗教を実践する」と述べています.

単に宗教信仰といっても,その人がその宗教に対してどのような姿勢で向き合っているか,つまり意味づけによってその水準は全く違うわけです.そして内発的に動機づけられた宗教とはパーソナリティにおいて一貫した傾向を示す,すなわち個人の人格形成に大きく影響を与えるということです.自分の行為の基準が信仰対象の思惑,あるいは教義に基づいているのだとすれば,それは内発的と言えるかもしれません(教えの実践ということです).

信仰をもっている方は自分がなぜ信仰しているのか?という意味を是非考えてみてください.それが外発的なものであるならば,信仰をスペクトラムとして考えると低次に位置すると考えられ,都合が悪かったり,願いが叶わなかったり,ご利益がなかったりすると離れていくでしょうし,内発的なものであるのならば,スペクトラムの高次に位置し,たとえ困難な状況に置かれてもあなたの行動に一貫した指針を与えうるでしょう.

あなたの信仰は何がための信仰ですか?


続きは以下を閲覧ください.
人をして宗教を知るということ(2)
人をして宗教を知るということ(3)

信じることの強さ 

宗教を信じる人は心の弱い人間か?

答えは"否"です.何かに頼らなければ生きていけない人間の弱さが作り出したものであるというようなことは信仰をもたない人がたまに口にすることではないかと思います.しかしそれは真実ではないと私は思います.

よく考えてみてください.信仰とは目には見えないもの,神という実体のない存在,そしてその働きを疑いもせずに信じるということです.これは何を意味するのでしょうか.

目に見えるものを信じることはそう難しくはありません.川に橋がかかっていれば,私達はその橋をためらいもなく渡るでしょう.青信号で一時停止することなく交差店を直進することができるのは,目に見える青信号の意味を理解して信じているからです.仮に青信号が信じられなくなって何回も左右を確かめてからでないと渡れないとなると精神的に不穏になってきていると言えるかもしれません.

目に見えるものが信じられないときには,不安が高まっていたり,飛躍した考えをもっていたり,考え方が偏りすぎていたりといった状態になっていることが考えられます.相手の態度は変わっていないのに自分のちょっとした振舞いのせいで嫌われたのでは?と心配になってしまったという経験がある人は意外と多いと思います.一般に私達は目に見えるものをそれなりに信じて生活していますが,それでも私達は目に見えるものを信じられなくなることがあるのです.

反対に,目が見えないとしたら私達は何を便りに生活していくでしょうか.私自身は結構に目が見えるご守護をいただいておりますので憶測にすぎないのですが,まず聴覚や触覚,嗅覚など他の感覚を便りにするでしょう.視覚を補償するかのごとく他の感覚が一般よりも優れていると思います.それに加えて介護者や手を差し伸べてくれる人がいるのであれば,暗闇の中,その人に自らの身を委ねるかもしれません.そこに本当にその人がいるかどうか,感じ取ることはできるかもしれませんが,確証はないのです.これを信じることにどれだけの精神力が必要でしょうか.おそらく目に見えるものを信じる以上に膨大なエネルギーが必要なはずです.これは人を信じることも同様です.信頼感とは費やした精神的エネルギーの上に成り立つものです.赤ちゃんなら母親が費やしたエネルギーと赤ちゃんがそれに応えるエネルギーの相乗効果で基本的信頼感と呼ばれるものが成り立つものですし,友人,恋人の信頼関係もお互いを理解するために長い時間とエネルギーを費やしていることと思います.

ここで最初のテーマに戻りますが,信仰とは神という超越的な存在を信じ続けることです.それは実体のない存在を感じ信じること,見えない働きを信じること,目に見えることが全てではないと信じること,そして,それを何時も信じ続けることです.おそらく膨大なエネルギーが必要なのではないかと思います.どんな道であっても成ってきた人生に神の思惑があることを信じてやまない.たとえ苦労の道中にも,私達人間をご守護くださり,苦労を節として成長させてくださっていると信じ通せること,これが心の弱い,あるいは精神力のない人にできるでしょうか.いや,できないに違いありません.

目に見えるものしか信じられない,それこそ哀しいことで心の弱さの反映なのではないかと私は思います.ですから,あなた自身に信仰があるのなら,心の拠り所であると同時に,自分には信じ続ける強い精神力があるということを忘れないでください.それから,信心がないのでしたら,超越的な存在を感じる努力をしてみてください.また,それに代わる信念を持ってください.

心理学者のオールポートが「個人と宗教」という著書で興味深いことを書いています.岩波書店出版です.訳書も1953年のため,絶版かもしれませんが,ネットオークションで出品されていることもあります.興味があれば是非読んでください.

神を信じること,それは心の強さです.


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日本の宗教 

クリスマスなので少し宗教関連の話を.(といっても2年前のクリスマスの記事の転載ですが・・・.)

日本は諸外国と違い,特定の宗教を持ちません.中国は儒教,アメリカ,ヨーロッパならキリスト教,アラブ諸国ならイスラム教,インドはヒンドゥー教,パキスタンは仏教,シンガポールは・・・というように国家として宗教色が濃厚であるというのはよく見られます.しかし,日本にはそういった傾向はありません.正月には神社へお参りにいきますし,クリスマスにはキリスト教会へ拝みにいく人もいるでしょう.合格祈願に神社にお参りにいくかと思えば,葬儀は仏式で,結婚式は華やかにチャペルで牧師さんに契りを誓い・・・などなど,しかもそこに宗教的な観念はあまりなく,私たちの習慣として生活に密着しているというのが特徴です.

ですから,世界中のほとんどの人々が人間が生きていく上で何らかの宗教は必要であると信じている中で日本人は特異であると思います.しかしながら特定の宗教や宗派を信仰していなくても個人としての宗教性を持っている人は多いのです.日本には文化的伝承の形で働く宗教と個人に信仰を訴える形で働く宗教の二重性が存在すると思います.

前者は「お墓参り」「正月」「節分」「バレンタインデー」「節句」「お盆」「七五三」「クリスマス」といった年中行事に見られるような宗教性ですね.宗教的なものを意識している人はほとんどいないと思いますがこれらは元々宗教的な意味合いを帯びているのです.こられは特定の成立宗教をもたない日本人が,生活慣習の中で伝承してきたもので,普遍的であるがあまり宗教と意識されず,半ば社会規範としての宗教で民俗宗教と呼ばれます.

後者は特定の宗教に対して信仰をもつことですね.その宗教の教えを学び,生き方に反映させていくというものです.私の場合ですと天理教ということになります.このあたりを説明するのに心理学者のAllport(オールポート)という人がパーソナリティに内面化された宗教という形である概念を提唱しているのですがこれについてはまた時間のあるときに解説したいと思います.

このような宗教の複雑さが日本にはあるのです.
家に亡くなった家族を祀る仏壇や神棚があるという人は多いと思います.
「家族が亡くなった時には,~宗の○○寺に葬儀をやってもらってるから強いて言えば宗教は~宗かな」
という人多いと思います.しかし,その教理を自分の生き方に取り込んでないのだとすれば,それは信仰とは言えないのではないかと思います.

あなたは信仰がありますか?


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