今の時代,「宗教」ときくと敬遠する人が多いというのが現状かと思います.その背景には,オウム真理教をはじめ,いくつかの宗教団体の社会への悪影響ということもあると思いますが,その他に戦後の核家族化が進み,親元の近くに子どもたちが住まなくなり,地域内の人間関係が希薄に成っていることもあると思います.さらには,物質的に豊かになり,目に見えるモノばかりを人が重視するようになってしまったこともあると思います.そして,もっとも言いたいのは宗教という概念に対する世間の誤解です.
核家族化,地域の人間関係の希薄化が進んだことにより,人は多くの人に見守られているという感覚を養う機会を失っている部分があると思います.祖父母がいて,一緒に遊んでくれて,外へ出れば近所のおじさんおばさんが声をかけてくれて,自然と町に大人に守られ育ててもらっているという感覚を感じられたと思います.そういう縦のつながり,横のつながりが薄くなっていると思います.よかれと思って言った一言が「他人の子どもには口を出すな」とトラブルの元になることさえあります.親がしっかりと伝えていればいいですが,いわゆる物騒だと言われるこの世の中では,むしろ知らない人には気をつけなさいと,自分が知っていること,自分が見たことを手がかりとして生活せざるを得ないような環境にあります.さらに,物質的には豊かになったものだから,食べ物を粗末にする,まだ使えるものでも買い換えるということも起こって,昔の人たちが感じていた物質に宿る魂だったり神様だったりという精神面を考える文化がなくなってきているということもあると思います.目に見えるものばかりを信じ,目に見えないものは信用しないという図式ができあがってしまっているのです.一方,クリスマスや正月,盆,節分など民間伝承という形で継承されてきた宗教的行事はまだすたれてませんし,そういう機会にはお参りする人もまだまだ多いので,宗教心がないわけではないのでしょう.願い,祈ることは信仰と結びつく思考活動です.それでも集団に迎合するのが日本人の心性でもありますから,単に皆が行くから行くというイベント感覚程度なのかもしれません.
もう1つ宗教が敬遠される背景は最初に述べたカルト教団など悪影響を及ぼす宗教団体ばかりが目立ち,宗教=騙されるといった図式ができあがっていることもあると思います.スピリチュアル的な関心が高まる一方で,「~教」と名の付くものに対し,否定的なレッテルが貼られ,疎まれる傾向にあることは否めません.ある教えを信仰することは,その人がその宗教団体を盲目的に追い続け,隷属するということを意味しません(そういう方もいるのかもしれませんが).宗教とは本質的には「人間のこころの成長と救済を目指すある教理によって規定される人生観を提供する信念体系」であり,信仰によって自らの行動を動機付け,それによって自分および周囲が日々を明るく通れる可能性を導くものであると思います.宗教という概念には儀礼と組織も含んで捉えられる場合が多いですが,最も重要なのは信念であります.そのことに社会の多くの人が気付いていないということがあると私は考えています.
多くの宗教が法制の下,宗教法人という形をとっていますが,それは宗教を流布するための単なる形式であって,宗教の本質はそこにあるわけではありません.ところが多くの宗教が会員制度や年会費をもうけ,あたかも個人が宗教団体に入っているかのような形になっています.世間でこうした「宗教に入る」という表現がよく使われていることには,1つには宗教が本来,人間救済のための人間の生き方を方向づける「信念体系」であるという観念的側面よりも「宗教団体」としての組織的側面のイメージが浸透しているということがあるように思います.このような組織的側面のイメージの浸透が生じる背景には,その宗教を信奉する指導的な立場にある者が,純粋なる教理の流布という観念的側面の伝達よりも信者数の確保,拡大といった組織的側面に固執している場合があるということもあるのではないかと私は思っています.本来宗教とはそういうものではないと私は思います.
布教とは「教えを布く」,つまり「教えを広く行き渡らせる」ことであり,世の人々に素晴らしい生き方・考え方があることを広く知っていただくことだと思います.それは先述した観念的側面の流布であり,決して組織的側面の拡大ではありません.観念的側面の流布の結果として組織的側面の拡大が達成されるのであればよいのですが,もし,後者のみに固執した場合,それは単なる団体活動への勧誘となる可能性があると私は思います.そして,誘う方も誘われる方にもこのような意識が漫然とあることが,「宗教に入る」という言葉が多用されていることの要因ではないかと私は思っています.
宗教を信奉する者が目指すのは本質的には自分自身が素晴らしいと思うことを他者にも知っていただくことであり,引き入れることではなく,行き渡らせることだと私は思います.その点,お道の「にをいがけ」という言葉は的を得ていると思います.においとは自然と広がって良くも悪くも他者の関心をひくもの,言わば自然と行き渡るものです.屋台の焼鳥など意図的に仰いで客を引き入れることにも使えますが,本来は空気の流れと共に自然と伝わっていくものと思います.
特に,おやさまが自らひながたをお示しくださった「お道」は,現代社会では「天理教」という宗教法人として認可されていますが,おやさまが天理教という教団を作ったのではありません.おやさまはただ人間が作られた目的を,皆が仲良く助け合う陽気ぐらしという元の教えを,親神様の教えを,私たち人間に伝えたかっただけだと思います.お道だけでなく,それ以前に素晴らしい教えを説いた開祖は組織の拡大や維持よりもただ教えを行き渡らせたいという思い一筋だったことと思います.そのことを信仰者は忘れてはならないと思うのです.
先に述べたように宗教においてもっとも重要なのは信念体系であります.したがって,信仰の実践とは,言わばその宗教のもつ価値観が個人のパーソナリティに内在化し,個人が意思決定や行動選択をする際に,その信念に基づいて一貫した言動を導くことですから,「宗教に入る」という表現は適切ではありません.むしろ,「宗教が個人に入る」わけです.個人が宗教を自身の生き方の指針として,人生のよすがとして,自己に取り込むわけです.
このように考えると,宗教とは入るものではなく,宗教が個人に入る,つまり宗教は自らに入れるものだということが分かるかと思います.したがって,私自身は「天理教に入っている」とは思っていませんし,そういう表現も使いません.お道の教えを自らの生きるよすがとして取り入れ(至らないながらも)実践させていただきたいと思って日々を過ごさせていただいているわけですから,「私にはお道が入っている」「お道を取り込んでいる」表現の方が自己感覚に合うわけです.この宗教の本質を大多数の人はおそらくは理解していません.宗教は自らが入るものではなく自らに入れるものであるというベクトルの転換ができ,それが社会に浸透すれば,宗教とは1つの人格成長のための手段,豊かな人生観と間違いのない生き方を養うための手段としてその敷居は下がるのではないかと思うのです.さらに,家族ぐるみであればあれば,共通の価値観を持ったつながりとなるわけですから,教えを通して強い絆ができるでしょう.
宗教とは人としての生き方を学び,自らに取り入れるものです.宗教は多くのことを人に教えてくれます.他宗教をあまり知らないのですが,人格の成長を促す教理のある宗教は基本的に悪いものではないと考えています.そういう宗教に触れる機会は祖先を大事にする心,自然への畏敬と感謝,他者への思いやり,人としてあるべき姿など,学校の道徳で教えてくれる以上のものを教えてくれると思います.そういうことを知る機会がなくなっているとしたら,それは心を豊かにする重要な1つの機会を失っているということになると思います.宗教でなくとも心を豊かにする教育は可能なのであえて1つの機会としておきます.
もちろん,だめの教えであるこのおやさまの教えを私が最も勧めるのは言うまでもありませんが.
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