2時過ぎに山口の教会に着きました.参拝をしてさっそく祖母に会いにいきました.ベッドには黄疸で肌は黄色くなり力無く横たわる祖母がいました.話し掛けると頷きはしますが発語はありません.祖父の話によると26日の祭典が終わったら出直すのよと言っていたそうです.今日12時頃までは口を開いていたようですし数日前から私が来るのを知っていたので「まお、まお」と呼んでいたそうです.これまでのお礼と教会は心配いらないことを伝えました.祖母はたまに頷くだけでした.
傍らにいる祖父をみてさぞかしつらいだろうと思いました.祖父につらいだろうにと声をかけると「この年まで夫婦揃ってるのはなかなかありゃしない」と言いました.この状況にあってもPositiveな意味を見出だす祖父に強さを感じました.
以前に名前を出したことがあったと思いますがフランクルというオーストリアの精神科医は「意味への意思」を唱え実存分析という心理学体系を築きました.「どんなときでも人生には意味がある」というのです.
大いに共感できます.たとえ痛みに苦しみ言葉さえ発することができない状況においてもなお生き続ける意味があるのです.お道的に言うなれば生かされている意味があるのです.家族を含めいくばくかの人が祖母を前に回想し感謝するでしょう.それは非常に人間的経験であり祖母を媒介に各自に体験されるものです.自らの思いを伝えられずともなおこのような経験を周囲に与え生かされている意味をそして喜びを実感させる機会を与えることこそが祖母の生の意味だと思います.お道的にみても親神によって生かされている限り存在価値があるのですからその生が果てるまでその意味を自他共に失わずにいたいものです.
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