感想ってないものですね.このことから派生して思ったことがありますので書いてみます.
そもそも見返りを求めるものではないので,反響がないことに対して不足に思うべきではありません.私の自認しているここでの役割はあくまでも情報―お道や心理学的視点を含めて人生について考える―を発信することであります.したがって,感想を求めた時点で私は私の役割をたんのうしきっていなかったことになります.人間ですから,自分がしていることが他者にどのように映っているかは気になるものです.そしてその評価により,人は自尊心を高めたり,あるいは落ち込んだりするのです.それを求めることはある意味では当然の心理なのですが,これに潜む危険性を自分自身で認識しているかどうかが重要です.
見返りを求めずにただ親神様に生かされていることへの感謝の気持ちでさせていただく行為をお道では「ひのきしん」と呼びます.人救けもそうです.見返りを求めるものではありません.あくまでもこちらの感謝の意を行動で表明すること,あるいはその人が救かることが目的であり,感謝されることを求めるべきではありません.結果として感謝されることもありますが,たとえ感謝されようがされまいが,自らが目指すべきは1つであり,その真理こそ親神様が受け取ってくださるものであります.しかし,本来結果としてついてくるものが目的となったらどうでしょうか?本末転倒であります.二次的に獲得される対象が一次的に希求されたとき,ひのきしんや人救けの行為は見かけ上(表面的に)はその意味を保ちますが,本質的な意味を失います.
したがってスケールは違いますが今回のことでいえば,結果としてついてくるべきものを目的に摩り替えたとまではいかないまでも,私はこのブログが誰かの人生のどこかで役に立つことがあればいいということを望んで発信さえすればいいのであって,反響を自ら求めるべきではなかったと思うわけです.反響は結果として得るものであり,一次的に希求するものではありません.それを自ら求めた私には,おそらくそれを通して自らの自尊心の足しにしたいという無意識の欲求があったのだと思います.表面的には「読んでいる人はどう思っているのか知りたい」という動機を当てはめることができます.深層では書くのも恥ずかしいですが「役立っている,参考になっているという声をききたい」という動機があったのではないかと思うわけです.そしてそれは「高慢」のほこりにつながるものです.むしろ読んでくれてありがとうという謙虚さを持たねばなりません.私は日々謙虚であろうと心がけているつもりですが,インターネット上でその謙虚さを忘れかけていたのです.先日のブログを書かねば気付かなかったことです.気付かせてもらってよかったです.
自分が求めることの背景にそうした無意識的欲求があるということは往々にしてあります.自分が他者に何かを求めるとき,「何故私はそれを求めるのか?」ということを自問自答すると,表面的な欲求に潜む,ほこりに気付けることと思います.そして,それに気付けなかったとき,人はもっていたものを失くしていくことになるかもしれません.気をつけましょう.私も今後気をつけます.
今日の話は日常的に人の援助をおこなう立場にある援助職に就いている人やおたすけをしている人にとってはとても重要なことだと思います.
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