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お道と臨床と~心づくりのたね~

お道(天理教)と臨床心理学の視点を含めて,まおという人間が考える日々の通り方や考え方について綴っています.日記風なこともわりとあります.

かしもの・かりものの理 

天理教の教理の中心に「かしもの・かりものの理」というのがあります.

私たちの身体は親神様からの「かりもの」であると教えられています.かりものであるがゆえ,自分の身体は思うようになりません.病気や怪我をしないように健康を心がけることは出来ますが,それでも思い通りにならない部分はあります.病気にはいつなるかわかりませんものね.心臓が休まず血液を体中に送り続けるのも,指1本動かすのも皆当たり前なのではなく,親神様のお働きによるものなのです.ですから私たちは親神様のご守護で生かされていることに感謝しなければなりませんし,病気や怪我をしたときに思うのではなく,元気なときからそのことがわかるようになってほしいと思います.

しかし,我々人間は浅はかなもので健康であるとついそのことを忘れてしまいます.そして,寝込んだり,怪我をしたりして,不自由さを味わってはじめてそのことを思い出す,あるいはわかるのです.失って気付くのではなく,日頃からそのことを忘れないようにしたいですね.このことが心におさまってくると自ずと神様への感謝の意を込めたことをしなくてはと思ってくるでしょう.では,何をしたら親神様は喜んでくださるのでしょうか.

それには親神様の思いにそって、この身体と心をつかわせていただけばよいのです.親神様は我々人間が陽気に暮らすのを見て共に楽しみたいゆえから人間を創造されたのですから,皆が明るく楽しく暮らせるように,日々世のため人のために惜しまず勇んでこの身体をつかわせていただくことです.自己中心的なおこないをするのではなく,他人が喜ぶおこないをさせていただきましょう.

人を喜ばすことは親神様に喜んでいただくことでもあるのです.神様への感謝の気持ちを行為としておこなうことをお道では「ひのきしん」と呼びます.何でもいいから日々結構に生かされていることに感謝し,人が喜ぶことをさせていただくことを心がけましょう.(ひのきしんについては後日また書きたいと思います.)

家に帰ったら靴がバラバラだったので揃えたよ,お年寄りが電車に乗ってきたから席を譲ったよ,道に迷っている人がいたから教えてあげたんだ,というふうに誰にでもできることでよいと思います.勤め人をされている方であれば,自分の仕事を神様への感謝の気持ちを抱きながら少しでも自分が関わる人の救けになるように働いてみてもいいでしょう.どんなことにでも神様へのありがとうという気持ちでつとめたいものです.

せっかくこの世に生を受けて身体を貸していただいているのですから,この身体をお返しするその日までいいことに使わせていただきたいと思います.


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教会のあり方 

kanzoさんの記事から孫引きさせていただいております.

天理教の言う陽気ぐらしとはどういう暮らしを言うのですか、と、人から尋ねられたら、
あの教会へ行ってごらんなさい、私が説明するよりもよくお分かりいただけますよ、と言うて、
あの教会を紹介できるような教会にならせてもらうということが、私は、土地や所の手本と言われる教会の理想の姿やと思うんです。

(148 第21回新任教会長の集い)
【前真柱様『成人への日日』より】

なるほど,よくわかる話です.陽気ぐらしを説く教会が陽気に暮らしていなかったら,人に話すことができません.うちの教会は名称をいただいて30年になります.天理さん天理さんと近所から呼ばれ,名前こそ知られてはいますが,なかなか近所にはにをいはかかりません.それでも家族は至らないながらもそこそこ陽気に過ごさせていただいているつもりです.それだけでなく足を運んでくださる信者さんにも喜んでもらえるよう,あるいは不足をさせぬよう,陽気ぐらしの手本となるたねを蒔かないとですね.そして,それに終わることなく近所や自分と関わる人すべてに対して陽気ぐらしのよさを知ってもらえるとなおいいのでしょうね.なかなかそれは難しいでしょうが・・・.
kanzoさんよいお言葉を掲載してくれてありがとうございました.


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友人への天理教の紹介 

ちょっと昔の話ですが,ある友人から「天理教って仏教なの?家はお寺?神社?」とメールがありまして,そのときに以下のような返信をしました.

仏ではない.寺ではないし神社でもないよ.祭儀式とかは明治・大正の宗教弾圧の中,神道としての形をとらねば生き残れず,その形に近いが.信仰対象は神.親神天理王命.
ここまで聞いてないかもしれないがせっかくなので.我々の体は神様からのかりものだと教えられている(教えの根本ね).だから,生かされていることに感謝し,神様が喜ぶような使い方をさせていただこうという教え.それは,人救けであり,人のために尽くすこと.現世利益を目的とした自己完結型なものでなく,人を救けてわが身救かるという奉仕ありきの心の成長を説いた教えかなぁ.願い通りではなく,心通りのご守護なので正しい心の使い方をして人に喜んでもらう通り方を心がける中に,病や事情から救かっていく道が開かれる.またどんな中も神様のご守護を感じ,喜びを探して通ることを示している教え.親なので起こること全ては子どもかわいい親心ゆえのこと,病や事情は親神の子どもの成長を期待する手紙と考える.心理学的には実存分析と認知療法に近いかな.どんな状況でも意味を見つけ,肯定的に捉え,感謝を感じていくこと.今の時代に必要なことと思っとります(゜゜ゝゝ

返事がどうだったか忘れましたが,そのとき,その友人に,私が伝えたのは以上のような内容でした.今の私が書くのと微妙に表現は違うかもしれません.表現の仕方などは時と共に,あるいは誰に伝えるかで変わってくる部分はあるでしょうが,変わらない教えの本質だけは逃さずに伝えたいものです.


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身上から成長を遂げるということ  

昨日,末弟がおさづけを取り次がせていただいた私の友人とその父について旧ブログから転載・加筆したいと思います.

私の高校からの友人で,お互いの実家に気兼ねなく行き交える人がいます.むしろ私にとっての第二の実家とさえ言えるかもしれません.

気兼ねなくといっても実家同士は500km以上離れているのですが.私が天理にいた頃は彼が天理に実家があるので私はしょっちゅうお邪魔していましたし,よくしてもらいました.(始めて行った高校2年生のとき,私はいきなり居間でごろ寝しました.なかなかできることではないと気に入ってもらえたそうです.今思うと常識知らずだっただけなのですが・・・以来親しくさせてもらっているわけです)

両親が熱心なお道の信仰者でして,ご飯を腹一杯ごちそうしてもらったり,昼寝させてもらったり,引っ越しのときに重箱いっぱいの弁当を持ってきてくれたり,一人暮らしの家に帰るとドアの前に食料が置いてあったりと,本当にお世話になっていました.私の家に泊まっていた友人が発熱したときには,私がアルバイトに行っている間に彼の家に搬送されていたくらいでした.友人の彼も夏休みや春休みなどの長期休暇があれば私の教会に遊びに来るということが学生時代何度もありました.

友人は一昨年くらいから東京の国税局勤務となって現在も東京に住んでいますのでちょくちょく教会に遊びに来ます.反対に天理を離れた私はあまり彼の実家に行くことはなくなりましたが,今まで私が散々お世話になったので逆になったのかなぁと思っています.それでも,今年7月におぢば帰りをした際には寄らせてもらいました.また,私の父の死後,母同士も面識を持つようになり,会長がおぢば帰りをした際には話をしてくることもありますし,手紙のやり取りもしているようです.

彼の家族は本当に親子仲睦まじく,どこに出しても恥ずかしくないと思います.私がこれまで見てきた家族の中でもっとも家族関係が良好と言えるかもしれません.お父さんは本当に熱心なお道の信仰者で,お母さんも熱心でとても献身的で面倒見が良く,彼らの背中を見て育ってきた4人の子どもたちもそれはそれはよい子です.(関連記事;親の背中

さて,そんな仲睦まじく素晴らしい家族なのですが,今,お父さんが身上をいただいています.初めてその話を聞いたのはもう1年以上も前だったかと思いますが,おそらく家族は「なぜ??」という実存的問いと先を憂いたつらさを感じたことと思います.徐々に身体の筋肉が弱っていく難病で,現在はスプーンを持つのも重たいそうで,心筋機能も弱っているので,酸素吸引機をつけて生活しています.それでもお父さんは弱音を吐くことなく,日々を結構に喜んで通らせていただいているという話ですので感心するばかりです.

私が7月にお邪魔した際に,お母さんが「うちのお父さんはお道の人だからどんな話をしても大丈夫よ!何も気にすることないから」と言い,なんて言葉をかけたらいいのだろう・・・と少し頭を悩ませていた私の迷いを払拭してくれました.お母さんもまた強い人だと思いました.私はおさづけを取り次がせていただきました.今回も私と末弟とが1回ずつではありますが,おさづけを取り次がせていただきました.

生前父がよく口にしていたことですが,神様のご守護は鮮やかなご守護をいただけることもあれば薄紙をそぐように少しずつご守護をいただけることもあるそうです.どちらも神様のお働きだからそのご守護を喜ぶようにと父は言っていました.友人の父は病を抱えながらも,それでも「あれができなくなったではなく,まだこれができる,まだあれができる.そのことがありがたい」と言って感謝していました.神様のお働きがなければ息をすることさえかなわないのですから,なるほど病気が急速に進行せずに,自宅での生活を続けられることもまた神様のご守護だと思うわけであります.苦難の中においても日々を喜んで通っておられる友人の父を友人も私もとても尊敬しています.

また,この病気を通して家族や親戚は色々成人させてもらっていると聞いています.家族が力を合わせて助け合う意義を再確認したのかもしれませんし,苦労の中においても喜びを見出すことができることを父の姿から再確認したのかもしれません.親はわが子が親を思う心をひしひしと感じたかもしれませんし,子は親の大切さ,ありがたさ,孝行することの意味を発見したかもしれません.この身上が彼らにとってどのような意味があったかは彼らに聞かないとわからないことですが,いち信仰者として言えることはこのような苦労の道中にさえ,親神様のあたたかい親心は注がれ続けているということです.それは家族を超えた人類の親である親神様が子どもである彼らの成長を期待してなされることであり,彼らならば乗り越えられるだろうという親心あってのことなのではないかと思います.そして各々がそれを信じる心を持つことで,家族が遊離することなく家族全体を支える力になっているのだろうと思います.

このことは,病に対して何の意味づけができない人よりも,出来事をうまく処理できていると言えるでしょう.「運が悪い」「私は・私の家族はついてない」と考えて終わりだと,その病との闘いの中で家族はやり場のない不満や怒りを感じるでしょう.それをお互いにぶつけ合うことすらあるかもしれません.しかし,そこに自己を超えた超越的存在の力を感じることで意味が生まれるのだとしたら,信仰というものも無意味なことではなく,人生に意味を与え,人を成長させ,物事に対する寛容さを導く一助をなしうるものであると思えないでしょうか?

私は彼の家族を心から尊敬しています.そして,お父さんがその生を喜びの中で全うすることを願っています.


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おさづけの理拝戴 

昨日、末弟がおさづけの理を拝戴しよふぼくとならせていただきました.ようやくこれで5人の子弟全員が拝戴したことになります.

よふぼくとは「用木」と表記され、お道の目指す陽気ぐらし普請(建設ということですね)の用材としてその柱となり人だすけの道を歩ませていただく役割を担う者という意味かなと思います.

「おさづけ」をいただくとよふぼくとなります.おさづけは痛いところや病んでいるところに取り次がせていただくもので、人にたすかってもらいたいその誠真実の心を親神様が受け取りお働きくださり不思議なご守護をいただけると教えられています.

末弟も昨日その理を授かったので、身上にある私の友人の父に是非最初にということで今朝取り次がせていただきました.さっそく人だすけに使わせていただきとてもありがたかったです.

※友人の父に関しては,「身上から成長を遂げるということ」をご覧ください.


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初めてのあやまち!? 

昨日あるお店を友人とぶらぶらしていて単四電池が目についた私はちょうど入り用だったのでそれを手にとりました.そして店内を眺めた後その店を去りました.

しばらく歩いてから手が寒いので上着のポケットに手を入れると何か硬いものが入っています.何だろうと思って取り出してみると単四電池です.

「あれ?これ金払ったっけか?」

そう思った私は記憶の糸をたどります.店で手にとって店をぶらぶらした後レジに………行ってない?!慌てて財布を見ますがレシートも入っていません.

「やべー!買い忘れた!これ万引きってやつですか!?やってもうた!」
私は友人にそう叫びました.何たる失態!!ボーッとしていたのか手にとった電池を知らぬ間にポケットに入れてしまったようです.無自覚とはいえ大変なことをしてしまいました.とにかくお金を払わなくてはと思った私は、友人といそいそと引き返して店内に戻ると、手に握っていた単四電池をレジに出しました.

「250円になります」
250円を渡しレシートを受け取ります.
「シールでよろしいでしょうか?」
「はい結構です」

シールを確認し終了です.お金を払うことにこれほど安堵と喜びを感じたのは初めてでした.この後何度か電池に貼られたシールを確認し友人と笑い合いました.危なかったです.

この体験から思ったことは小難を無難にしていただいてとてもありがたかったということです.無自覚とはいえポケットに電池が入るところを店員に見られたら「ちょっとお客さん!」と言われてしまったかもしれませんし、セキュリティのしっかりした店なら防犯ブザーが鳴ったかもしれません.神様は結構に小出しにして私たちに色々なお手紙をくださいます.最近ボーッとしている私に走査と注意を怠らぬようメッセージをくださったのかもしれません.

一見よくない、ついてないと思われる出来事にもよく考えてみるとこのように意味を求めることができるのです.その時々に生じたことの意味を考え、心に修め、それを積み重ねていくことによって心の成人をさせていただくのが「お道」であり信仰であると私は思います.

まぁできればしたくなかった経験ですが、起こった以上それを今この時期に必要だった経験として受け止めることもまた大事なことなのかなと思います.


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天理にやってきました 

昨晩、21時50分発、青春ドリーム号に乗り、今朝天理にやってきました.実に4ヵ月ぶりのおぢばがえりであります.

日曜に月次祭を参拝してから帰りますのでそれまでは携帯端末から更新できればしたいと思います.

ところで昨日は(株)シオザワの社長の講演を聞く機会があり、前日ろくに睡眠をとっていなかった私は寝やしないかと思っていたのですが、非常に興味深い話を聞かせていただきました.彼は製紙会社の社長であり教会の後継者でもあるそうです.

組織改革の必要性という私が常々必要と感じていることと同様のお話もあり、やはりそういう時代にきているのだと感じました.教え(お道)はいつの時代も変わらないものでありますが組織は所詮人が創りしもの、時代や問題の発生により修正や改革の必然性を認めます.そのことに取り組まずしてこの素晴らしい道を広げていくことは困難です.
このことは神との超個人的なつながりを求める一般信仰者にはあまり関係のないことですし、心づくりのたねを掲げる当ブログで深く述べる必要のないことなので記述はしません.とにかくいい話を聞かせていただいてよかったです.

ちなみに今天理本通りを神殿に向かって歩いています….


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筑波山へ行ってきました 

今日は仕事で筑波山へいってきました.要は引率業務ということです.
筑波山へは小学校3年生のときの遠足以来です.歩いて登った記憶がありますが,今回はケーブルカーで山頂までいきました.

なかなかスケジュール通りにはいかないもので,山頂でお弁当を食べるといくらもしないうちに下山するようでした.山頂は関東平野が一望できるという話でしたが,霧がかっていたということもあり,また時間的に余裕がなかったということもあり,見ることができませんでした.
しかし,往復で30分以上は歩きましたのでいい運動になってよかったと思います.(体重がここ数日で1kg増えたもので・・・.)

今日は,これから病院の某プロジェクトの合宿であります.名目だけでふたを開けると飲み会だったという可能性もありますが・・・罠かもしれませんが,参加してきます.というわけで,ゆっくりブログを書く時間がなく,これで終了します.


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母の誕生日 

今日は母の誕生日でした.

教会には現在,母と私と次弟しかおりませんので,私が仕事から帰ってから3人で食事にいきました.次弟の内定祝いも兼ねて私が2人にごちそうすることになりました.母は外食をすることなどほとんどありませんのでとても喜んでくれました.ピザが食べたいというのでピザとパスタのお店に入りました.次弟と二人ならまず入らないお店です.なかなかオシャレな雰囲気のいいお店だったのですが,私も次弟も普通にジャージにパーカーといういい加減な格好です.娘でもいれば話も弾むのでしょうが,わがやは男だらけ,普通に注文して次弟と料理をつっつきあい,店を去りました.しかし,母は満足気でした.これまでの道中があったから今を喜べるのだとしたら,その道中には大きな意味があったと思えます.祝福と共にこれまでの道中への労いもしたいものです.

また,私の誕生日や母の日にも書いたことですが,誕生日などの記念日は,その人が去年も迎えたこの日をまた今年も迎えられたことに感謝することも大切です.もちろん普段から感謝をした方がいいのですが,こういう日だからこそ,母が変わらずそこにいることを神様に感謝したいものです.

さらに,私達が変わらずにいる母に感謝の気持ちを表すことができること,そのこと自体も感謝に値することなのです.それは,家族がたすけあって母を支えてきたこともあるでしょうし,母自身が家族のため,自分のために毎日を一生懸命に生きてきたことでもあるでしょう.そして,何より親神様のご守護あって,生かされてこの日を迎えられているということを忘れてはいけないと思うのです.

父が直接できない分,これからも家族で母を大事にしてあげたいと思います.娘はいませんが,わんぱくだった5人の息子は力強く頼もしく成長し,これからも父が守り母が継いだ教会のたすけとなってくれることと思います.これが母にとってはいつになっても最高のプレゼントかもしれませんね.


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次弟の就職内定 

次弟の内定通知が今日届きました.
次弟は介護の専門学校に通っていまして,来年度より介護福祉士として働く予定です.学校の紹介で面接にいったところへ一発で決まるとは,日頃の種まきの賜物か,ありがたいことだと思いました.

私は院卒の1年目の就職先を決めるのは大変でした.もはや今となっては何箇所落ちたか忘れましたが,5箇所以上は軽く落ちた覚えがあります.介護職と心理職では求人の数も違いますが,一度で決まったことはやはりすごいしありがたいことだと思います.本人の努力ももちろんありますが,私は神様がいいようにしてくださったことに感謝しています.教会から車でわずか20~25分ほどの距離ですので,私よりも近いです.祖父が通っている病院に併設されている施設であることも不思議な縁を感じます.

私が1年目に教育相談で担当した小中学校は父の母校でした.このときも不思議な縁を感じたものです.神様は人生の色々な局面で,色々な縁を感じさせてくれるものだと改めて感じました.


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USBあったか手袋 

こちらによくコメントをくださるyoshiさんのブログの昨日のエントリに以下のような記述がありました.

あああああ・・・暖かいお部屋でPCやりたいですぅ。。
PCやってる人は、指かじかむのかなぁ。。
なにか工夫してるのかなぁぁ

というわけで,以下の商品を紹介させていただきます.
USBあったか手袋

USBポートに差し込むだけで暖かくなるという優れものです.今ならキャンペーン中で2480円だそうです.980円なら購入を考えてもいいですが,ちょっと手が出ません.部屋を暖めると電気代がバカになりませんが,これなら省エネになります.私は持っていませんが,使っている方もいるかもしれませんね(←いないか・・・).
yoshiさんよかったら試しに使ってみて感想を聞かせてください.

他にもこんなものがありました.
USBあったかマウスパッド

USBあったかマウス

USBあったかスリッパDUAL

今日は3エントリしていますので,他の記事も忘れずにお読み下さい.

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お道の通り方 

私の信仰する神は親神天理王命と申します.親神様は人間が「陽気ぐらし」をするのを見て共に楽しみたいゆえから私たち人間をおつくりくださいました.神人和楽の世界を望まれたのですね.

ですから天理教は「陽気ぐらし」が目的です.人間みんなが明るく仲良く勇んで日々をすごすことが究極の目的です.どんな中も明るく通れる教えです.

ご利益信仰ではないので,病気もしますし,死にもします.天理教は病を治す教えではなく,病の根を切る教えです.心の切り替えをする教えです.病気や怪我や心を悩ます出来事(身上・事情)は神様からのお手紙です.親がわが子をかわいいと思うように,親神様も私たち人間(子ども)をかわいいゆえの親心からお手入れをくださいます.病を通して自分自身の日々の心遣いやおこないを振り返ることができ,そこから心の成人をさせていただくのです.

たとえば風邪をひいたとき,皆さんはどう捉えますか.ああついてないだとか,最近の不摂生のせいだとか思うことでしょう.確かにそう思う気持ちもあるかと思います.しかし,そこで日々の自分のおこないを振り返ってほしいのです.

「最近自分は感謝の気持ちを忘れていなかっただろうか.自分が健康でいられることを当たり前と思っていなかっただろうか」と.(この部分について説明するには「かしもの・かりものの理」という教理について説明しないといけないのですがこれはまた今度解説します.)私たちは身上や事情を通して神様の思惑を知り,そこにある守護や喜びを味わい,それにそって自分のおこないを動機づけていくことができるのです.つまり感謝の心を忘れずに神様がお喜びになる人だすけの道を歩ませてもらうことができるのです.

また,その後回復に向かったのならば風邪で済んだという意味でそれはありがたいことだと思います.悪化して長期間寝込んで生活に影響が出たり,もっと重篤な病にかかったことを思えば大難を小難で済まさせてもらったことになります.そこでまた神様に感謝して通ることができるのです.よいことも悪いことも,すべて神様からのお手紙なのですから,その意味を考えてみると苦悩の中にも何らかの意味を見出すことができるはずです.そして喜びを見出すことができれば明るい陽気な生き方が自ずとできてくるでしょう.
それはとても建設的な生き方だと思います.

悪いことが起こると人はどうしても悪い方向へ考えがちです.物事を悪い方向へ考えてしまう認知の枠組みを「否定的自動思考」と心理学ではいいますが,これがなかなかやっかいで,この思考はときに抑うつ症状や不安を引き起こす原因となったりします.また必要以上に自分を責めたり,自分を低く価値づけたりして,自分の能力を出し切れず,切り開ける道も切り開けなくなるようなことにもなりかねません.ですから,神様へ思いを向けないまでも,人生に起こってくる様々な出来事を捉えていくのに,このような考え方を参考にするのはいいかもしれません.


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祖父が山口に行きました 

今日,祖父が山口の娘のところへ冬を越しに行きました.
昨日,おばさんが山口よりはるばるやってきて,今日祖父と共に帰っていきました.

うちの教会は雨漏りや隙間風が多く,冬は寒くて仕方がありません.年寄りにはかなり厳しい環境です.ですから,ここ数年は冬になると祖父母は暖かくなるまで山口で生活していたのです.今年もまた行きました.

伯母さんは遠くに嫁にいったので,自分の親の晩年に今までできなかった世話をできることをとてもありがたいと以前言っていました.何でもいいように成ってくるのが天の理ということでしょうか.


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大祭 

今日は大祭でした.朝から晩までかなり忙しかったです.不便なところなので基本的に車での送迎が多いということも忙しさの要因の1つなのですが,遠いところから足を運んでくださるのですから,こちらの苦労などなんのそのです.

今日は大祭ということもあり,つとめ人衆がすべて埋まりむしろ余っていたくらいでした.年に1回か2回しかない快挙です.私はおてふり⇒地方⇒おてふりとつとめさせていただきました.

直会も参拝者と食べるヒマはなく,周囲の片付けや参拝者に持って帰っていただくお下がりを作ったりで忙しく,それが終わる頃には最初の帰宅者がいて,駅まで送りに行ってました.その後もすぐ運転があり,私が夕食にありついたのは7時で,その頃には20年来の方1人が残っていただけでした.

かなり忙しい1日でしたが,教会に多くの方が参拝してくださって本当にありがたかったです.明日は仕事ですし今日は早めに寝ることにします.


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続・大祭準備ひのきしん 

今日も午後から有給休暇をとりまして,大祭の準備です.家へ帰ると会長と長弟で赤飯をふかしていて半分ほどできていたので残り半分もふかしました.全部で6升です.

ふかした赤飯は冷ますのでしばらく放置です.
日参の子が今日も来てたので,少し話をしてから調餞を一緒に手伝ってもらいました.
やりながらかしもの・かりものの理について簡単に話をしました.「なるほど」と言っていました.

今回は大祭なので御供え物が多いです.さらに,昨日買い物から帰ってきた後で信者さんが畑でとれた野菜をたくさん御供えしてくれたので,神餞場は野菜でいっぱいで,調餞終わってもかなりの量の野菜が余ってしまいました.もちろん御供えいただいた野菜は優先的に盛らせてもらいました.

あと赤飯詰めや余った白菜を漬けたりなど色々忙しくしてました.赤飯は45食分詰めました.(そんなに参拝者はいませんが,配ったりもするので多めに作るのです.)

夕方から親戚のおばさんが煮物作りに来てくれましたし,会長も助かったことと思います.
私もけっこう疲れましたが夜はしっかりジョギングをしました.もはやこれは日課ですね.苦痛でなくなりました.

明日は大祭です.日頃のお礼と思って勤めさせていただきます.


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大祭準備ひのきしん 

今日は午後から有給休暇をとりまして,大祭の御供え物を買いに行きました.そのまま買い物に行った方が楽なのですが,祖父が家でヒマをもてあましているので,一度帰ってからです.帰ると,もう庭で待っていたので出発しました.

大祭は月次祭よりご神餞の台数が多く,親神様が19台,おやさまが15台,御霊様が15台です.

教会の主力機体PLEOに満タン積み込むことになりました.帰ると最近日参をしている子が来ていて一緒に荷降ろしを手伝ってくれました.三方や八足ふきなどひのきしんしてくれたようで本当に助かりました.平日はうちの教会は男手がいませんので,ありがたいです.素直ないい子なんです.私が帰って来るのを待っててくれたようで一緒にコーヒーを飲んで帰りました.私が会ったのは2度目ですかね.

夕づとめ後はお供え餅を作りました.私と次弟で作ったのですが,次弟の腕はまだまだです.粉をつけすぎるのです.おそらく一番上手なのは長弟ですかね.餅作りが終わると今日のひのきしんは終了です.

私は4日間やっていなかったジョギングをしました.疲れました.
明日も半休で,午前中に会長と長弟で赤飯を炊いてくれるので,午後からは調餞と赤飯詰め,その他諸々です.


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九州へ 

12,13日と2日ほど留守にしていました.携帯で更新する余裕はなかったです.

職員旅行だったのですが,熊本・大分・福岡の3県を一泊二日でまわるというハードスケジュールでした.移動は九州へは空路で,そこからはバスです.移動時間もかなり長かったですね.
熊本城,水前寺公園,阿蘇山,別府温泉,地獄めぐり,湯布院,太宰府天満宮と行ってきました.
かなり疲れましたが楽しかったです.

今日は仕事だったので相当しんどかったです.早く寝ることにします.


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旧ブログ記事の転載を始めます 

旧ブログの方にも私が言いたいことを数多く書いているので,こちらにも随時掲載していきたいと思います.以前より読んでくださっている方は,アクセスしたら前読んだ記事だったということもあるかもしれませんがご容赦ください.以前と捉え方・見方が変わった部分は改変してエントリしますので,また読んでいただければと思います.

こちらの過去ログに貼り付けてもいいのですが,過去ログを遡って読む方がどれだけいるのかが未知数ですので,改めて新エントリとして掲載していきます.


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友人からのコメント 

未読の方はまず以下のエントリをお読み下さい.
虐待について(その1)虐待の分類
虐待について(その2)虐待にかかわるとき

虐待についてのエントリについて児童相談所で働いている友人からコメントが来ました.
法改正で市町村も通告窓口になったこともポイントかな 虐待問題は抱えこまずまずは周囲に相談すること 虐待とはこどもの立場で判断するという視点が大切かな 重大なケースはともかく軽微なケースは支援者がいかに保護者の心情を理解し気長に支援ができるか そして支援者会議などを通じて周囲がよきスーパーバイズを与えられるかではないかと考えてます
通告イコール即解決でなく支援のスタートと考えてもらうとありがたい 学校や保育園などはこの点が理解できず何でも児相が強権的に親指導をすると考えてるところが非常に多いです
なるほど.抱えこまずまず周囲に相談することが大事なようです.相談することで解消される部分もありますものね.そういった社会的資源が周りにあるか,そしてそれを有効に使えるかがポイントになるでしょうか.通告=支援のスタートであるとすると非常に長い道のりになります.しかし,それをして余りあるほどの子どもの将来がかかっていると考えればその行為にも大きな意味があります.しかし,支援者の負担も相当のものなので,かなり大変な仕事を友人はやっているなぁと思います.

たまに電話すると,休日にもかかわらず職場にいることが多いです.ほんとおたすけだと思ってやってるよと友人は言っていました.本当に立派な人だすけになっていると私は思います.それに,そこで培った経験は将来彼が自教会を継いだとき,大きな芽を出すことでしょう.『一粒万倍』です.


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今日の振り返り 

今日は仕事が終わってから先生に指導を受けに行ってきました.

とても勉強になりよい時間を過ごすことができました.病院では白衣を着ているので一見何でもできるように誤解されるかもしれませんが、なんのことはないまだまだヒヨッコです.わからないことだらけで自分の対応やスタンスに自信がもてないことも多々あります.そんな中この機会は大変貴重です.この時間によって私は未熟ながらも臨床家であることを保障され、自分にできることをまたやってみようと思えるのです.

教会もこれに類似した感覚―すなわち神とつながることによって誰かのために尽くす役割を担い生かされている存在であることを実感し、自分にできることから始めようという勇み心を与えられる―を提供できるといいのかなと思います.

険しき道ですが.


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ひのきしんとおたすけ 

今日は仕事が休みでした.

午前中は長弟が手伝いに来てくれて教会の屋根裏部屋の片付けをしました.軽トラックに2回ほどクリーンセンターに捨てにいきました.1人では大変ですので,いつもながら長弟が手伝いに来てくれて本当に助かりました.

午後はおたすけです.これまで会長が2度ほど会っている方です.私が仕事が休みで家にいる今日訪ねてくることになっていたのです.1時頃という話だったのですが,結局来たのは3時頃でした.普段は会長がすべてやっているので,私が同席するのは恥ずかしながら初めてといってもいいくらいでした.詳しくは書きません.結局今月の団参でおぢばに行くことになりました.ありがたいことです.今月は私は祖父を連れて一足先に行くのですが,帰りの便は一緒ですし,末弟がおさづけの理を拝戴しに一緒に行くので末弟が面倒を見てくれるでしょう.

私はまだお道のおたすけ人としてのスタンスは何も確立していませんが,これから少しずつでもやっていくのだろうなぁ,いややっていかねばならないのだろうなぁと思います.心理臨床での経験をいかにその中に盛り込んでいくかが私の課題になります.それぞれの教会がどのようなやり方でおたすけをしているのかがわからないのですが,教会にもカラーというのがあるように思います.同じ教会であっても預かる人が違えば色も違います.うちの教会は今どんなカラーでこれからどんなカラーになっていくのでしょうか.

信仰とは最終的には人と神とをつなぎ,その人の行動を動機付けるものであると思いますが,初期の段階では教会を預かる人との人間的関係の中で形成されるものでいいと今の私は思います.それは教理が最優先されるということではないということです.素晴らしき教理でもそれを語る口は一人の人間であるのですから,その全人格をもって対象者と関わっていく中で対象者の中に少しずつ理解されていくものなのかなと思います.まだ抽象的で漠然としたものですが,自分の人間的成長と共に私のスタンスも確立させていきたいと思います.


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核保有発言について 

核論議 中川政調会長、改めて必要性提起 自民に不協和音(産経新聞) - goo ニュース

核論議の必要性を提起する中川氏に私は憤りを感じざるを得ません.
世界唯一の被爆国として原爆の恐ろしさを体験している日本が,また,軍国主義からの脱却に成功し平和の道を歩んでいる日本が,破壊兵器の象徴であるかのような核を保有する必要があるのでしょうか?今更表明するまでもありませんが,核を持つことはもちろん,そのような論議がされることさえ私は反対です.政治や経済には疎いですが,善悪の判断くらいはできます.

今もなお原爆の苦悩と闘っている人だっているのに,よくもそのような発言ができるなぁと私は思います.人を公の場で批判するのは好きではありませんが,彼は軽率であると思います(月並みですが).そしてそのような発言を容認する姿勢を示す総理にも私は疑問を抱えざるを得ません.北朝鮮が核保有問題で世界を騒がしている中,日本が核保有の論議があがることさえ間違っているのではないかと私は思います.日本は唯一の被爆国として世界に核の恐ろしさを伝え,核廃絶への道を支持していく立場にあるべきです.それが,原爆で命を落としていった人への手向けだと思います.

お道的に考えても,世界は争いなく仲良く陽気にくらすことが望ましいですから,核保有は問題外であると思います.すべての人が自分の器以上の欲を持たず,与えられた中で喜んで通れるならば,殺戮が行われるほどの争いごとは必要ないと思います.それができないことは悲しいことです.


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虐待について(その2) 

未読の方はまず以下を閲覧下さい.
虐待について(その1)虐待の分類

昨日は虐待の分類について書きましたが,今日は実際に私たちが「児童虐待に関わるとき」について書いていきたいと思います.

これは大きく分けて以下の4つに分けられるのではないかと思います.
①当事者として,②当事者の家族・親族として,③一般市民として,④援助者として.

まず,①当事者として
これは昨日の記事のコメントでさなさんも示唆されていることですが,他人事ではありません.虐待行為に至る可能性は誰にでもあります.私に限ってと思うかもしれませんが,自分がやっていることが実は虐待に該当すると知らない人は数多くいるかと思います.そして,被虐待体験は一般に世代間連鎖を招きますので,虐待を受けて育った子どももまた将来虐待行為に至る可能性があります.世代間連鎖については旧ブログに2回ほど記事を書いたので,後日こちらのブログにも掲載しようと思います.

②当事者の家族・親族として
身内が虐待行為をしている場合,ある種のジレンマに曝されることになります.虐待が行われていることを知りながら,それを黙認しているケースも多々あるのではないかと思います.「家の者がそんなことをしているなんてとても言えない」「こんなことが世間に洩れては親戚中の笑いものだ」「一族の恥だ」「こちらまでとばっちりをくらってはたまらない」など明らかによくないことが行われていることを知りながら,社会生活や世間体の不利益を考えて通告できない場合です.子どもの心や身体に傷として一生残り,下手をしたら将来を,あるいは命さえも奪ってしまう行為と,通告によって今受ける恥とどちらが大事なものかは一目瞭然です.それに,次に書きますが虐待は通告義務があります.

③一般市民として
これは多くは近隣住民,園児や児童の保護者になると思うのですが,近所で尋常ではないと思われるほどの怒鳴り声や泣き声,物音(破損音など)が聞こえる場合,見かけた子どもが普通に生活していたら負わないであろう明らかに不自然な傷やアザなどを負っている場合などが該当します.先述しました通り虐待は児童虐待防止法により通告が義務づけられています.それも確定でなくとも「虐待を受けたと思われる児童」を通告する義務です.通告者は通告されませんので匿名性は保たれます.(といっても,明らかに通告者であることが当事者に見抜かれてしまう場合もあると思いますが.)また,結果として誤りでも刑事・民事の責任は問われません.つまり,迷ったらためらわず通告を!ということです.虐待が誤りだったときには被通告者は羞恥心や被侮辱感などの精神的苦痛に曝されることになりますが,被通告者の人権侵害と,虐待が真だったときの子どもの人権侵害は比較にならず,後者の方が明らかに大きいという位置づけのようです.

④援助者として
これは児童相談所や市町村の福祉窓口や教育相談所,医療機関(小児科,精神科など),学校などの教育機関などが該当します.つまり子どもを扱うあらゆる機関が児童虐待と無縁ではないということになります.私が勤めている精神科領域でも親が虐待者であるケース,思春期・青年期以降の患者が被虐待体験をもつケースなど,児童虐待にまつわる問題に出会う可能性は多くあります.虐待は大変な問題であるので,一人で抱えるのではなく,地域の関係機関と連絡を密にして連携をとることが必要です.そして,子どもの現実生活に注意を怠ってはいけません.これが援助者としての役割であると思います.

以上のように,私たちが児童虐待に出遭う可能性は1つに限りません.出遭ったときには子どもの身体と心と人生を救うために,立ち上がりたいものです.

次回は,虐待への対応について考えます.


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虐待について(その1) 

PCのマイドキュメントを整理していたら虐待についてのレジュメが出てきたので,書ける範囲で情報を提供しようと思います.私は虐待の事例には特に関わったことはありません.教会後継者である友人が現在児童相談所で児童福祉司として働いているので,彼が詳しいのですが,私の拙文でご容赦ください.

さて,虐待は今の時代よく耳にする言葉となりました.ニュースでもよく報道されています.漠然と想起されることは,養育者が子どもを殴ったり,蹴ったりなど苦痛を与える姿であると思います(痛々しいです).ですが,せっかくなのできちんと知っておきましょう.

児童虐待は,①身体的虐待,②ネグレクト,③性的虐待,④心理的虐待の4つに分類することができます.

身体的虐待とは身体に直接暴力を振るい,傷を負わせたり,またはその恐れのある行為です.具体的に記述すると生々しいのでしませんが,身体に直接痛みを与える行為全般です.

ネグレクトは養育拒否や保護の怠慢とも言われ,適切な衣食住の世話をせずに放置したり,子どもの健康と発育発達を損う行為です.成長に必要な食事をきちんと与えなかったり,同じ服を毎日着ることを強要させたり,義務教育を放棄することを強いたり・・・など身体に直接傷は与えませんが,正常な発達と健康を妨げる行為のことを言います.発達の遅れ,栄養失調,脱水症状,不潔,凍傷,熱中症,感染症などに曝されます.特に,乳幼児は自活することができませんので,彼らへのネグレクトは必然の死という状況を招きます.

性的虐待は,子どもの成長段階に不適切な性的接触をすることです.何もわからないうちでもよくないことであることは伝わります.それは大きな傷として心に残ります.問題行動,自傷行為,自殺企図,妊娠,性非行,PTSDなどの危機に曝されます.また解離性同一性障害(多重人格)の多くは幼少期の性的虐待が背景にあると言われています.あまりに過酷な状況に本人の自我が耐えられず,何も感じない,何も見ていない,何も知らないと現実を否認して次第に別の自己を作り出さざるを得ないのでしょう.それほどの苦痛なのです.

心理的虐待は,ことばや態度で子どもの心を傷つける行為です.悪いことをしたときに叱ることが必要なこともありますが,それが度を超えている場合も含まれるでしょうか.DV(ドメスティック・バイオレンス)はその間にいる子どもにとっても苦痛なため,心理的虐待に含まれます.心理的虐待を受けた子どもはおびえ,無表情,多動,強い攻撃性などが見られると言われています.

今述べたのは単なる定義上の分類であって,どの行為が悪いなどの重み付けはありません.子どもをこのような状況に曝すこと自体があってはならないことです.神様より授けていただいた子どもを,かけがえのない命を大切にできない人が後を絶たないのは悲しいことです.

続きは後日・・・.次回は私たちが虐待に関わるときについて考えます.


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生きる意味はすでに与えられている 

昨日のエントリで「陽気ぐらし」について話しました.

私たちが親神により創造されたことを真とするのであれば,この世に生を受けて存在している時点で私たちは生きる意味を神様より与えられていると言えます.「生きる意味の喪失」状態にある人が後を断ちませんが,彼ら彼女らは自分自身の存在意義を未だ知らずにいると言えるでしょう.生きる意味を忘れた,あるいは生きる意味が見つからない人たちに是非「陽気ぐらし」という言葉とその意味を知ってほしいと思います.もっともその意味を了解できるのは親神に対する信仰心があるからでもあるので,そのことが心に修まるには相応の時間がかかるのかもしれませんが・・・.

実存分析の創始者である心理学者のV.フランクルも「意味への意志」を唱え,どんなときでも人生には意味があることを訴えています."それでもなお"人生はその人にしかなしえない仕事を待っているのです.つまり,人生の方から意味を与えられているのです.ベクトル的には神から人間は意味を与えられているということと酷似しています.

人が今この場に生かされている,生きていることには意味があるのです.失った意味を取り戻すために,あるいはまだ見ぬ意味を発見するために,お道を知ってみませんか?


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陽気ぐらし 

お道が目指すもの―それは親神様が人間を創造された目的に一致します.つまり,「陽気ぐらし」の実現です.親神様は私たち人間が「陽気ぐらし」するのを見て共に楽しみたい故から人間世界を創られたのです.

では,親神様が私たちに期待される陽気ぐらしとは何でしょうか?

陽気ぐらしとは明るく勇んだ心で,他の人々と互いにたすけあって,共に喜び,共に楽しみ歩む道であると思います.これは,ただやみくもに陽気におもしろおかしく自分だけが楽しく人生を送ればいいということではありません.自己中心的な心遣いや行いは慎み,人のたすけとなる中に陽気な心と喜びを見つけ,お互いに立てあってたすけあいながら,共に生きていくことが陽気ぐらしであると思います.そして,その姿こそがお道が目指すものであり,私たち人間の生きる目的であると思います.

どうか日々の暮らしの中に親神様のあたたかい親心を感じ,喜べることを探して,陽気ぐらしの実現につとめてみてください.世の中の見え方がきっと変わってくるはずです.そして,物事もよい方向に運んでくるかもしれません.


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10月体重報告 

10月体重推移さて,恒例の体重報告の日がやってまいりました.

10月1日は1日だけ体重が跳ね上がった日でして体重が66.4kgありました.その前後が65.2kgと65.4kgなので,そのあたりの体重が始まりと思った方がいいかもしれませんね.初めの頃はおもしろいように減った体重も停滞期に差し掛かり,気持ちが萎えかけたこともありました.それでも有言実行を心がけてきました.その体重は10月31日現在で64.2kgになりました.

そして,なんと今朝の計量では63.8kgを記録しました.
当初の目標は64kgまでの減量ということであったので,一応目標値をクリアしたことになります.ただ,ここでやめてはまた元の体重に戻ってしまうので,問題はこれをいかに維持していくかということです.30分の有酸素運動,筋力トレーニング,飲酒なし,間食なし,これらを一生続けていくことは不可能です.今のところは習慣になってきてそれほど苦痛でもありませんので続けていくつもりですが,厳冬になれば運動する意気は萎えます.どうしましょう・・・.

まぁとりあえず報告としてはこんなところです.

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