今日は祖母の命日です.
1年前の2月26日祖母は84歳で出直しました.
同い年の祖父は今月85歳を迎え,今月も山口からおぢば帰りしたようで,元気だったと母より聞きました.
一昨年の年末より山口の伯母の家に祖父と療養にいっていました.祖母は癌が再発していたので,12月に送り出したとき,もうわがやの土を踏むことはないのだろうと覚悟していました.
2月下旬になって伯母が「そろそろかもね」という話をしていましたが,私はまだきっと大丈夫だろうと思っていました.でもいつ具合が悪くなるかわからないので会いにいくことにし,2月の本部月次祭に参拝し,夜山口の教会へ帰る車に便乗させてもらい山口に行く予定で天理に発ちました.26日の朝,天理に着き,朝づとめに参拝させていただき,詰所に行きました.叔父がきていたので部屋にお邪魔していたら山口の伯母より電話があり祖母が痙攣が始まったと聞きました.予定を変更し,一足先に叔父と山口に向かうことにしました
2時過ぎに山口の教会に着きました.参拝をしてさっそく祖母に会いにいきました.ベッドには黄疸で肌は黄色くなり,力無く横たわる祖母がいました.話し掛けると頷きはしますが発語はありません.祖父の話によると祖母は「26日の祭典が終わったら出直すのよ」と言っていたそうです.今日12時頃までは口を開いていたようですし,数日前から私が来るのを知っていたので「まお、まお」と呼んでいたそうです.これまでのお礼と教会は心配いらないことを伝えました.祖母は目をつぶったままたまに頷くだけでした.
傍らにいる祖父をみてさぞかしつらいだろうと思いました.祖父につらいだろうにと声をかけると「この年まで夫婦揃ってるのはなかなかありゃしない」と言いました.この状況にあっても受け取り上手な祖父に強さを感じました.祖父と叔父と伯母と祖母の寝るベッドの近くに座り,こたつに入りながら交代で祖母を看ていました.看護師をしている信者さんも容態を看にきてくれましてとても心強かったですが,やはり「今晩かもね」とのことでした.見舞う一方で今後のことも叔父と話し合わなければいけなかったのでした.
祖母が寝るベッドの隣に一緒に横になって祖母を見つめる叔父の姿を見て,刻がいくら経てど本質的に変わることのない「親と子」という絆を感じ,末っ子の叔父はどんな気持ちでいるのだろうと思いを巡らしたり,ここに父がいたらどんなにかよかっただろう,祖父や叔父,伯母もどんなにか心強かっただろうと思ったりしました.
そして,脈もだんだん弱くなり,午後11時20分過ぎ,いよいよ84年間お借りしたその身体をお返しするときがきました.叔父が祖母の手を握り,祖父,伯母,私と家族に囲まれながら,静かに息を引き取りました.よい出直しでした.長男である私が3年前に出直した父の代わりとするならば,祖母は3人の子と夫に囲まれて布団の上で息を引き取ったことになります.とても幸せなことです.山口から戻る車は結局日が変わってから到着したので,新幹線で叔父と先に来ていなかったら,祖母の最期に会えなかったわけですし,本当に神様がいいようにしてくださったのだなぁと感謝しました.
翌27日が通夜で28日が告別式でした.告別式では,祖母のそれぞれの孫代表が弔辞をあげました.思えば,祖母には3人の子どもに13人の実孫がいたのです.私は父の息子代表として言葉を述べました.出直し直後,あふれてこなかった哀しみがあふれ出ました.が,やはりあまり実感はなかったように思います.その後,少しずつ実感してきたような気もします.50日祭後納骨をして,今月1年祭を迎えたのです.
うちの教会の信仰は祖母より始まっています.祖母の10歳近く離れた兄がお道を信仰をしていて,その後祖母がお引き寄せに合い,続いて祖父ににをいがかかり,現在その環境で育った子どもたちはそれぞれが神様とつながる教会でつとめています.父は出直してしまいましたが,私はその思いを継いでいくつもりでいます.
祖母がお道にお引き寄せられることがなければ,私たちはこの素晴らしい教えの下で育つことはなかったのですから,本当に祖母への感謝を忘れてはいけないと思います.この教えの下で育つことがなかったら,きっと今の私とは違った性格の私に育っていたでしょう.今の私があるのは,お道の教えの中で育ってきたからであり,それは私たち兄弟が育った教会の礎をつくった祖父母によるものでもあります.御霊となった現在も,教会のお社にとどまり,私たちと教会を見守ってくれると思います.
1年を迎えたことから,祖母の出直しについて回想したことを綴ってみました.
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