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お道と臨床と~心づくりのたね~

お道(天理教)と臨床心理学の視点を含めて,まおという人間が考える日々の通り方や考え方について綴っています.日記風なこともわりとあります.

おぢば帰り(3日目) 

未読の方は以下を閲覧ください.
おぢば帰り(1日目)
おぢば帰り(2日目)

今日の記事です.

5時半に起きて朝づとめに参拝しました.Aさんがはじめてということもあり,まなびまでやりました.今日は7,8下り目でした.(私が苦手なところです.「このききろうかあのいしと」が難しい・・・.

朝食後,少し休んで部屋の掃除をし,11時頃詰所を出発しました.神殿で参拝をして本通りでお土産を買いながら,駅の方へ向かいました.そして駅を通り過ぎて昼食にとんよしへ行きました.とんよしも昔は本通りにあったのですが今は天大体育学部の方に移転したようです.高校生の頃はカツ丼特大も完食できたのですが,今は並で十分です.とんよしもオススメです.おぢば帰りの際は是非お立ち寄りください.

食べた後,急行に乗り天理を去りました.教会に着くとちょうど夕づとめの時間でしたので,夕づとめをつとめて神様にお礼を申し上げAさんは帰りました.

基礎講座を受けることもできましたし,無事初席者を出すこともできまして本当にありがたかったです.時間かかってでも是非Tさんにはよふぼくになっていただきたいと思いました.

そういえば29日はひのきしんデーでしたね.毎年近くの駅の草刈をしているのですが今年は残念ながら参加できませんでした.何か別の形でまた日々のお礼ができればと思います.

ちなみに今日は11000歩くらいでした.この2日に比べると半分しか歩いていません.少ない気がしますが普段仕事をしているときの倍以上は歩いています.これだけ歩いても食べてばっかりだったので帳消しはおろか体重は増えていることと思います.5月は健康診断もありますので気をつけたいと思います.また明日からはまた4000歩/日の生活ですが喜んでこの身体を使わせていただきたいと思います.
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おぢば帰り(2日目) 

未読の方は以下を閲覧ください.
おぢば帰り(1日目)

4月29日分の記事です.

2日目はせっかく関西まできたということで京都へ行きました.観光目的で京都へ行くのは中学校の修学旅行以来なので実に12年ぶりとなります.

二条城の前にある二条陣屋清水寺,ねねの道などにいってきました.

お昼は四条通にある天周という天丼の店にいってきました.12時前に行ったのに15人ほど並んでいたのでためらいましたがせっかくなので待ちました.30分弱待ちましたがとてもおいしかったです.私が店を出ると35人ほど待っていました.京都にお立ち寄りの際には是非たずねてみてください.おいしいですよ.

7時前には天理に帰ってきました.夜は久しぶりに天スタを食べました.学生の頃は天スタ,彩華,とんよしとこの三店は何十回といったものです.彩華ラーメンはいつの間にか神殿近くの店舗もなくなってしまったようで残念でした.

この日はなんと25000歩も歩いたのですが,昼に天丼,夜にラーメンでは25000歩も帳消しですかね.でもおいしかったのでよしとします.

おぢば帰り(1日目) 

4月28日分の記事です.

朝7時頃JR奈良駅に着きました.電車で天理へ行き,おつとめをしました.三殿をまわる時間はなかったのでとりあえず南礼拝場から教祖殿,祖霊殿を遥拝し,詰所へと向かいました.詰所に荷物だけ置いて9時過ぎに基礎講座の会場に向かいました.

9時半より基礎講座でした.私はもちろん一緒に来た人もはじめてです.ビデオと講話が交互におこなわれる形だったのですが,ビデオもわかりやすく,講話もとても穏やかに筋の通った非常にわかりやすい話をされる先生でした.一緒に行った人(以下Aさんと呼びます)もすごくわかりやすかったと言っていてよかったです.

11時頃終わったので,神殿まで歩き,朝はおつとめしかできませんでしたので,今度は三殿をお参りしました.12時過ぎに詰所へ戻り昼食を済ませて詰所で初席の説明を受け,別席場へと移動しました.

初席の人は手続きを済ませた後,お誓いをしにどこかへいってしまったので,私はその間待っていました.戻ったら一緒に部屋へ移動しいよいよ10年ぶりの別席となりました.約1時間半の話なのでなるほど確かに聞き漏らしは多くあります.そもそも人の集中力はそんなにもつものでもありません.9回ほど聞かせていただいてちょうどいいのかもしれないと思いました.

さて,別席後一度詰所に戻り,時間があったので天理散策をしました.私は7年も住んだ慣れ親しんだ場所ですがAさんははじめてなので案内しました.どこを案内したもんかと思ったのですがあまり思いつかず,石上神宮とおやさまのお墓地へと行きました.石上神宮は7年いながら私も初めてでした.お墓地はほとんど人はいませんでした.

その後,いつものように豊井の友人宅へお邪魔し,お父さんにおさづけを取り次がせていただきました.夜は高校の友人と飲みました.2年ぶりに会った友人もいまして楽しかったです.

とりあえずそんな1日でした.それぞれの出来事で思うところもあるのですがそれはまた別の記事に書きたいと思います.

母が会長になって4年になりますが,3人目の初席者を無事運ばせていただいて本当にありがたかったです.ちなみに万歩計は22000歩でした.こんなに歩いたのは久しぶりです.

近況 

携帯からでも更新しようと思ったのですが大変なので断念しました.帰ったらまとめて記事にしたいと思います.

万歩計をつけていったのですが昨日は22000歩、今日はなんと25000歩歩きました!!仕事していると4000歩程度ですので通常の5~6倍です!シャアザクどころではありません.とりあえず身体は悲鳴をあげていますが心はたくさん歩いたことに喜んでいます.

ではおやすみなさい.

おぢば帰り 

仕事終えて家に帰ると,食事・入浴を済ませて荷造りをしました.これから夜行バスで天理へ向かいます.明日は午前中に天理教基礎講座,午後から別席を運ばせていただきます.基礎講座は私も始めてたので楽しみにしています.同行者は初席ですので私も約10年ぶりに別席のお話を傍聴させていただきます.

おぢば帰り中の更新はするにしても携帯端末からになりますので,あまり詳しくは書けないかもしれません.あしからず.

家族成員の転居の変遷 

ふとうちの家族ってけっこう出入りが多いなぁと思ったのでちょっと振り返ってみます.

昔は9人家族だったのですが,今家にいるのは3人です.
かつては,祖父母,父母,男兄弟5人に加えて住み込みさんや預かった身上・事情者が出入りしてだいたい10人くらいは家にいました.大人に囲まれて育ったという感じです.

基本的に9人家にいましたが私が天理へ進学して8人になり,翌年長弟が天理に進学して7人になり,その翌年1学年上の長兄が就職して寮に入り6人になり,その翌年次弟が天理に進学して5人になり,一時は子どもは末弟1人という年もありました.その翌年長弟が帰ってきて6人になり,その2年後次弟が帰ってきて7人になり,その2年後父が出直して6人になり,末弟が就職して寮に入り5人になり,その翌年私が帰ってきて6人になり,1年後末弟が寮を出て帰ってきて7年になり,さらに1年後長弟が単身生活を始めて6人になり,間もなく祖母が出直し5人になり,続いて末弟も単身生活を始め4人になり,11月より祖父が山口へ冬を越しに行き,現在は母と次弟と私と3人で暮らしています.祖父母はここ数年,山口県の娘の嫁ぎ先の教会へ行ったり来たりしていますので数ヶ月単位で人数は変化していますが,だいたいこんなところです.

かつては10人も住んでいた教会に3人しかいないと寂しいものです.なかなか兄弟も5人揃うことはなくなってきましたしね.

たけのこのお供え 

うちの教会は30年ほど前に今の場所に建ちました.私の地区は創価学会の家庭が多く,近場にお道を信仰する人はいません.それでも,年月をかけて天理さんと呼ばれて親しまれている部分もあり,お隣さんはとてもよくしてくれます.野菜や料理のおすそわけをいただくこともあるのですが,会長はいつも「ありがとうございます.神様にお供えさせていただいて皆でいただきますね」と受け取っているようです.

昨日,また隣のおばさんがお初のたけのこをくださいました.いつもは「皆で食べて」と言ってくださるようなのですが,昨日は「神様にお供えして」と言ってくださったようで,会長が「いつもお供えさせていただきますと言っていただいてたら,初めて神様にって言ったのよ.ありがたいわね」と言っていました.

私はそれを聞いて日々の積み重ねの大切さを感じました.日々の声かけやおこないは小さなものかもしれませんが,積み重なれば人の認識に変化を引き起こすこともあるのだなぁと.神様を信じなかったり,宗教に対して否定的な人が多く存在する現代において,一人の人間から神様という言葉を引き出すことはたやすいことではないと私は思っています.もちろん元来信心深い人はいますが,そうでない人が多いのもまた事実です.しかし,誠真実の思いはいつしか神様がお受け取りくださるものであり,人の心に変化を呼び起こしうるものなのだと思います.

まいたる種はみな生えると教えられているように,小さな種でも喜んで蒔かせていただく.その小さな種を喜んで蒔く姿が後に実る果実をより豊かなものにするのかもしれません.また,農家の人は育てるときに「甘くなれよ」とか「おいしくなれよ」と声をかけるというのを聞いたことがあります.まさに声は肥えですね.声かけや喜びにあふれる姿はやはり実りをより充実させるということがあるように思います.私も小さな種でも声をかけて喜んで蒔かせていただきたいと思いました.

講義(第8・9回) 

以下は関連記事になります.
講義(1)
講義(2)
講義(3)
講義(4・5)
講義(6)
講義(7)

今日は2コマでした.

2コマみっちり講義をやってもよかったのですが,それでは双方疲れてしまうので,アートセラピーの講義を最初50分ほどでおこない,後半2時間をアートセラピーのグループワークにしました.

講堂へいくとすでにグループができていて,どうやって決めたのかを訊ねると,現在一緒に実習にいっているメンバーでグループを構成したようでちょうどよかったです.グループワークを通して得られるものもあったでしょう.

最初ウォーミングアップに回し絵をやりました.これは各自まず自分の画用紙に何か絵を描いて1分経ったら強制的に隣の人に回します.隣の人は自分の前にきた画用紙に何か絵を追加します.また1分経ったら強制的に隣の人に回します.と,この作業を繰り返すのです.1分という時間内に連想と作業の両方をこなす必要があるので決して長い時間ではありません.終了後,シェアリングをおこない,それぞれ感想を述べました.

次に,3分ほど黙想をしてもらい,自分自身の気持ちに注意を払ってもらいました.目を開けた後,焦点を当てて気がついた自分の気持ちをイメージとして画用紙に描いてもらいました.抽象的な絵を描いている人もいれば具体的な絵を描いている人もいました.終了後,またグループごとでシェアリングをしてもらいました.

次は,料理絵です.自分が食べたいものを1つ描いて,また絵を回していくのですが,絵を受け取った人はその人が食べたそうなものを,あるいはその料理に合うものを描き加えていくのです.お盆を最初に描いてもらったのですが,お盆のかわりに網を描いた学生がいまして,その学生の作品はバーベキューになっていました.最後に自分の絵に描いてある料理セットに値段をつけてもらって,グループごとにシェアリングをしてもらいました.700円~3500円くらいの価格が多かったでしょうか.0円という学生もいましてお母さんの手料理と言っていました.なるほど.

最後は共同画をやりました.テーマは私の方では特に決めずにグループに委ねて皆で模造紙1枚に作品を描いてもらいました.6グループあったので6つの作品ができましたが,グループごとで全然違いおもしろかったです.

と,そんな感じの2コマでした.本当は5月末か6月の実習のストレスが溜まってきた時期にやりたかったのですが,2コマの日が今日だけだったので仕方ありません.学生もすごく楽しんでくれたようですし,よかったです.

講義(第7回) 

以下は関連記事になります.
講義(1)
講義(2)
講義(3)
講義(4・5)
講義(6)

先週書き忘れたので今日まとめて書きます.

先週は防衛機制について話をしました.20数個の防衛機制について解説し,クイズ形式の問題もやりました.最後時間が足りなくなって答えを言いながら流したという感じでした.

18日で誕生祭の記事を書いたため忘れたのですね.

信仰のススメ 

未読の方はまず以下を閲覧ください.
次弟の身上より思う
神様のご守護

次弟のC型肝炎が治癒した出来事から,私は神様のお働きというものを感じたわけですが,信仰のない人にとっては到底理解できないことかもしれません.その場合,「運がよかっただけ」,あるいは「偶然」という言葉で処理されるかもしれません.

確かに,神の存在や働きを信じるということは非科学的なことではありますが,実はそのことはあまり問題ではないのです.このブログでもすでに何度か触れていることかもしれませんが,信仰をもたない人のために信仰をもつことの有効性を述べておこうと思います.

大抵の人の感覚において「不幸」と思われるような出来事について述べるのであれば,その出来事の生起という外的事実により,当事者を含めた家族がそれぞれの個人的体験において悲哀などの感情体験以外に何らかの神の思いを感じ,心の成長の道標となるものを確立したのだとしたら,そこに人生における創造的な価値を見出すことができたと言えると思います.そして,当事者のために祈り,練磨する経験があったのだとすれば,それは人格の成長につながるはずです.さらに,その出来事の解決という外的事実により,当事者を含めた家族がそれぞれの個人的体験において神の思いと感謝を感じ,そのご恩報じのための道―つまりは人をたすけようという志,あるいは人に喜んでもらおうという志を堅持して行動に反映させていくのであれば,それは道徳的観点から見ても,その個人の行動は評価されるべきものとなり得ます.

しかし,信仰がなかった場合,発覚の事実は単なる悲観のみに終わったかもしれませんし,治癒の事実でさえも安堵と喜びに終わってしまったかもしれません.個人的体験において幸福感が生じたということにおいては,信仰者と変わりありませんが,そこに外的事実に対する積極的価値や人格の成長,そこから導き出される行動に社会あるいは他者への貢献を生み出すことは通常なかなか達成されないのではないかと思います.

人生には様々な現象が起こり得ますが,その出来事が本当に神によってもたらされたものであるのかどうかは問題ではなく(私はもちろん神の働きによるものと理解していますが),その出来事が神によってもたらされたものであると信じ,その出来事に込められた神の思いや働きを感じることによって,人間としての成長の機会を得ているということがとても価値あることであり,信仰の有無にかかわらず皆に知っていただきたいことです.

ですから,何もお道に限らず信仰心が人間の心を正しい方向に導く限りは,信仰によって得られる恩恵というのは大きいと思います.中には信仰を持たなくとも,このように人生の様々な局面に積極的な意味づけをして自己成長の機会にすることができる人もいるでしょう.そのような人について心理学者のAllportはそれに変わる人生哲学をもっていると述べていた記憶があります.世界中の人間が信仰を必要とする中で日本人は特異です.特異ですが,宗教心はもっていると思います.信仰のない方は是非その眠れる心に触れてみることを私はオススメします.特に私がオススメするのはお道ですけどね.未読の方は是非カテゴリー「お道」および「お道×心理学」をお読みください.

超疲労 

疲れと所見が相当たまっています.
仕事充実しすぎてて,定時じゃとても終わりません.
体調と相談しながら残業しているのですが,なかなか消化しきれません.今日も記録が終わらず1時間ほど残業してきました.
PC開いてみましたがきちんとした記事を書く気力がないのでこれで終わります.とりあえずエントリーだけでもと思って書いてみました.

摂食障害の認知行動療法の研修 

今日は「摂食障害の認知行動療法」という講座を受けてきました.

案内には12:30~15:30と書いてあったのですが,受講してみると12:30~14:00の間違いだったようで,嬉しいような残念なような複雑な気持ちでした.この感覚は色々な人が体験する感覚と思いますが,勉強は必要なのだがやはりしんどいものだということを如実に表しているように思います.

講座の内容については専門的内容のため,特に綴りませんが,せっかくなので摂食障害ということについてごく簡単に述べておこうと思います.

摂食障害は文字通り食物を摂取することにおける障害であります.世間的には拒食症や過食症という言葉で知られているかと思います.

基本的には食行動や食に関する考え,ボディイメージの歪みです.拒食は食べない,過食は食べ過ぎる.どちらも食物が身体に吸収されるのを防ぐために自己誘発性の嘔吐を伴うことがあります.ボディイメージが歪んでいるので通常の人と痩せている,太っているの感覚が大きく異なり,圧倒的な肥満恐怖と痩せ願望に支えられて,痩せる努力をし続けます.思春期~青年期前期の女性に発症することが多く,病気との付き合いは長期に渡るのが一般的です.約1割の人は痩せの果てに死に至ります.多くの身体的・環境的デメリットがある中で,ある分野においてメリットがあるので(疾病利得),なかなか治らないのです.治ることは痩せている自分を捨てることでもあるので葛藤も大きいようです.

治療にはまず本人が治そうと思わないと難しく,本人だけでなく家族を巻き込んだ治療が必要なことが多いようです.本人や家族だけでなく,その治療に関わる医師や心理士などにも根気が必要と言われています.

綴ればもっとたくさんあるのでしょうが,とりあえずこのくらいで.興味を持たれた方はネットで調べてみてください.たくさん情報があると思います.

神様のご守護 

未読の方はまず以下を閲覧ください.
次弟の身上より思う

昨日の続きです.

そんなわけで昨日まで毎日お願いしてきたわけですが,昨日検査の結果が出ました.次弟は夜勤であったため,本人には会っていませんが,メールが来ました.

「陰性だったよ」とメールが来たとき,おいおいホントになくなっちゃったよと笑いがこみあげてきました.なんとなくこんな展開もあるのではないかと思っていましたが,本当にご守護いただけたのです.もう嬉しくて仕方がありませんでした.

今日次弟に話を聞いて明らかになったのですが,C方肝炎ウイルスが体内に入った形跡は確かにあったらしいのですが,抗体ができていたためキャリアではないということです.したがって,普通の人と変わらない,要するに何でもなかったことになります.通常,抗体を作るためにインターフェロンなどの治療をおこなうのだと思うのですが,医学的治療を何もせずして自然と治癒したのですから,神様のお働きを感じずにはいられません.

ああ,神様からのお手紙やったんやなぁと思います.次弟に「よかったな.嬉しかったろ?」と聞くと「僕は大丈夫だと思ってたんだよ」と言います.前日まで結果出てるんだし変わんないよと答えていたのに現金なものです.しかし,次弟も神様のお働きと声を聞いたでしょうし,これから神様にご守護いただいたことを忘れずに日々を勇んで歩んでいってほしいと思います.

以前も書いたことかもしれませんが,何も鮮やかなご守護だけが神様のご守護というわけではありません.父が生前おさづけを取り次ぐ際によく言っていたことですが,「鮮やかなご守護をいただけることもあるし,薄紙を剥ぐように少しずつご守護をいただくこともある.ただどちらも神様のご守護であるから,喜んで通るように」と.つまりはどんなときでも,どんな状態でも感謝すべきご守護があるということです.

お道は病だすけの教えではなく,心だすけの教えです.今置かれている状況に喜べる心を培っていくための信仰であります.病気だってしますし,死にもします.ただその中に神様が私たちの心の成人を期待されてのメッセージがあり,それに気がついて心に修めていくことで人間としての成長を遂げることができるのだと思います.完全なご守護をいただけることがすごいわけでもなく,信仰が足りないからご守護がいただけないわけでもありません.そんな人間の尺度で測ることのできる相対的なものではないと私は思います.神様が子どもかわいい親心からその個人や家族にお手紙として授ける思いです(関連記事;親神とはいかなる神か?).ですから,それを受け止める寛容さをパーソナリティに内面化していくことが肝要かと思います.言い換えれば抱えながらも喜べる道を確立していくこととでも言えるでしょうか.

まとまりませんが,今回のお手紙に込められた思いを心に修められるよう家族ともども成人させていただきたいと思いました.日頃からこの身体をお借りしているという意味で私たちは神様に多大な恩恵を受けていますが,今回の出来事で一生をかけて尽くすほどの恩恵を受けたと思います.出し惜しみすることなく使わせていただきたいと思います.ご心配いただいた方,ありがとうございました.

次弟の身上より思う 

少し前の出来事を遡って綴ります.

3月下旬,次弟が就職のための健康診断をしに近医にかかりました.このときは誰もあのようなことが起こるとは予想だにしていませんでした・・・.

数日後,診断書を受け取りに次弟は病院へ行きました.私は普通に仕事でしたし,健康診断の診断書をとりにいくという出来事にとりたてて関心はありませんでした.午前中の勤務を終えて昼食時だったでしょうか.メールが届きました.

会長からです.
「次弟 C型肝炎だったので泣いてショック受けてます」
私もビックリしました.食欲があっという間になくなり,昼食を終えると家に電話しました.
会長は「神様からのお手紙だよね.次弟にもっと神様の御用をやってほしいのかもしれないよ」と言います.確かに私もどんな出来事にも神様の思いがあるということは思っていますし,ブログにも綴っていることですが,正直その場ですぐに受け入れられるものでもありませんでした.当然「何で次弟が・・・」という思いがありました.

次弟だけではありませんが,うちの兄弟はよくやってくれています.今,教会にいるのは私と会長と次弟だけなので,次弟がいるおかげで日常助かっていることは多いです.そんな次弟がどうしてC型肝炎に・・・と思いました.その一方でだんだん何らかの神様の思いがあるはずと言うことも認知的には理解できてきましたし,次弟へのお手紙ということだけでなく,家族や教会へのお手紙だと思いました.その神様の思いを次弟が背負ったということにすぎないと.長男として色々考えることもありました.

昼休みが終わり,午後も仕事がありましたがなんだか落ち着きませんでした.とりあえず励ますために,帰りに小僧寿司でも買ってってやろうと思い,寄っていきました.私には肝炎にかかったという事実よりも,ショックを受けて泣いていたというのがかわいそうでなりませんでした.当然何ともないと思って気軽に受けた健康診断でいきなり肝炎を宣告されればそれはショックだとは思います.次弟の姿を想像すると私まで泣けてくる始末です.できることなら変わってやりたいと思ったものですが,私たち兄弟も感染している可能性があるので,変わるも何もあったものではありません.しかし,そのときはそんなことはどうでもよく,ただ次弟の身上が軽く済むようにということだけを願いました.

家に帰ると長弟も励ましに帰ってきていたようで一緒にいました.次弟の方はというと,意外ともう元気でした!!寿司も平らげましたし,いつも通りでした.もちろんショックは大きかったでしょうが.とりあえず専門的な治療のできる大きな病院に翌日行ってくるということだったので,さっそく私も理立てをさせていただき,お願いづとめやおさづけを毎日することとなりました.末弟もしてくれたようです.

次弟は本来は4月に入職だったのですが,2月中旬からアルバイトとして来てくれと言われてすでに1ヶ月ほど仕事に行っていまして,次弟は最後の春休みをとられたと不満を漏らしていた部分もあったのですが,職場からはなかなかいないタイプだと評価もよく,肝炎のことを話しても内定取り消しなどの処遇はありませんでした.もし,普通に4月入職だったら,次弟という人間を職場はほとんど知らないわけですし,「そういうことであれば,まずはしっかり治療してもらって・・・」のような形で内定が取り消しになったかもしれません.そう考えると,早くから仕事に行くハメになったのも神様のお計らいだったのかもしれないなぁと思いました.

翌日,病院へ行って色々な検査を受けてきたようです.結果は3週間ほど後ということでした.次弟は会長と話し合って,毎月の月次祭にはできるだけ休みをとるようにして参拝することを心定めしたそうです.就職したら休みを自由にはとれないから月次祭は出れないという感じだったのが一変したわけです.4月の月次祭も祭典つとめた後,夜勤に行きました.さすがです.

私も毎日お願いしました.「どうか肝炎が消えますように.肝炎ではなかったということが起きますように」と.心次第でどんな病もご守護いただけることはあろうと思い,そんなお願いをしたのです.それになんとなく神様はそう悪いようにはしないのではないかと思うところもありました.その一方で病から成人を期待される面もあるのかもしれないと思う面もありました.ただどちらであっても,神様からのご守護のあらわれであることには違いはありませんから,成ってきた道を精一杯通らせていただくのがいいのだろうとは思いました.

次弟自身は「どうせもう結果は出てるんだから.僕は覚悟はできているんだ」などと言いますが,私や会長はそうは思いませんでした.確かに検査結果はデータですでに出ているにしても,結果を耳にするまではどんなご守護がいただけるかはわからないと思っていました.確かに,時間軸で考えればそうなんですよね.こちらでどんなにお願いづとめやおさづけを取り次いでも,あるいは個人でひのきしんに励んでも,すでに出ている検査結果に影響があるわけないと思うのが通常の感覚です.ですが,そこで止まってしまってはせっかくの信仰を生かしきれていない.どんなときも信じるから信仰なのです.だからこそ普通の感覚では考えられないことも起こりうるのです.せっかくなので未読の方は過去記事「信じることの強さ」をお読みください.

量が多くなったのと,時間のこともあるので続きは明日書きます.

おやさまご誕生祭 

今日は4月18日,おやさまの209回目(ですよね?)のお誕生日です.

おやさまは寛政10年4月18日に大和国山辺郡三昧田にお生まれになりました.13歳で元のやしきである中山家に嫁ぎ,40歳のときに旬刻限の到来により,月日のやしろとして私たち人間に親神様の思し召しをお伝えくださいました.そして自らその生き方の手本を示され,私たち人間が歩むべきひながたの道をお諭しくださったのです.

明治20年正月26日に現身をお隠しになられましたが,存命のまま,たましいは元のやしきにとどまり,私たちを日々ご守護くださっていると教えられていますので,毎年4月18日はおやさまのご誕生をお祝いすべくおぢばで祭典が執り行われています.

今年も私は家でお留守番です.うちの教会からは会長と信者さん1名が帰参しています.その1名とは祖母の弟の奥さんで,毎年1回誕生祭にだけおぢばに帰ることができるのです.とても親切な方で私たち兄弟は子どもの頃からとってもかわいがってもらっています.

誕生祭には帰れませんでしたが,今月末の連休には初席者を連れておぢば帰りをする予定です.私にとっては初めての別席者です.10年ぶりに私も傍聴させていただきます.

人をして宗教を知るということ(2) 

未読の方はまず以下を閲覧ください.
信仰の本質~宗教というラベリングの影響
人をして宗教を知るということ(1)

結局,信仰がその人にとってどんな意味があるのかによって,その人の行動や考え方に及ぼす影響が違いますので,外発的な信仰ををもつ人の行為からその信仰対象となる宗教の善し悪しを判断・評価することはできないということです.

外発~内発のスペクトラムの中には宗教を利用する人から実践する人まで含まれています.このことが何を意味するかといいますと,たとえば教理から大きく踏み外す人がいたとしても彼の信仰が外発的なものであるならば,踏み外した行為は元々の彼の人格・価値観によって導き出されたものであるので,宗教の影響をあまり受けていません.なぜならば,彼は自分に都合のいいように宗教を利用するだけですので,信仰対象の思惑や物事の成り行きの意味について信仰的に考えることをしないからです.

ですから,カルト教団や宗教によって私腹を肥やそうとする代表などがいる教団はトップが外発的レベルの信仰しかもっていないのですから,やはり問題外かと思いますが,その他の比較的良心的な宗教の良し悪しを判断するにしても,一個人の行動だけで判断することはできないのです.あくまでも宗教は人がその宗教を内発的動機の下に信仰した場合に,信仰者の人格や行動に一貫性と寛容さを導くのです.

しかし,そうはいっても人は信仰スペクトラムのどこに位置するかわからない一個人の行動から判断します.ですから,自分が信仰者として公言する,あるいは周囲に知られているのであれば,なおさらそれにふさわしい生き方をしていく必要があるのだと思います.つまり,私たちの行動から他者は(正しい理解かどうかは別として)宗教を知ることができるということです.教会は当然その対象となります.

次回はお道に焦点を当てて考えます.

続きは以下を閲覧ください.
人をして宗教を知るということ(3)

継続1周年 

1年前の4月16日に継続的にきちんとブログを書こうと決心して,今日でちょうど1年が経ちました.

このブログは2004年の12月18日から書いていますが,2006年の3月までの1年4ヶ月の間にわずか60記事しか書いていません.

継続的に書くようになりちょうど1年になりますが,この1年で旧ブログ(お道と臨床と~心づくりの処方箋~)で162記事,現ブログ(お道と臨床と~心づくりのたね~)で219記事,併せて381記事(更新率104%)を記してきました.自分自身でやると決心したことももちろんありますが,読んでくださる方,コメントをくださる方がいてこそ続けてこれたことと思います.感謝しています.

さて,続けることはもちろん大事ですが,無理に書くのではなく,やはりそのときどきで書きたいと思ったことを書いていこうと思いますので,日々の出来事かもしれませんし,お道の話かもしれませんし,仕事の話かもしれません.また心理学的なことかもしれませんし,息抜きのガンダムについてのことかもしれません.何かのスイッチが入るとわりとやりこむ方ですので,時期的なものもあると思います.

そんなブログですが,今後も継続的に書き続けていきたいと思いますので,引き続き読んでいただければと思います.またコメント等お待ちしています.気軽にどうぞ.

ブラックホーク・ダウン 

夜の洋画を見ていたらこんな時間になったため,明日のためにもう寝ます.

戦争は本当恐ろしいですね.争いのない世になることを心から願います.憲法改正についての法案もこれから整ってくるのかもしれませんが,9条だけは絶対に守らなければならないと改めて思いました.人間同士が殺し合う戦争を容認する法律だけは絶対作ってはいけないです.

会長,コピー機の使い方を覚える 

今日は会長にコンビニのコピー機の使い方を教えました.
今年度から2年間,わがやは地区の総務になっていますので,回覧の書類作りなどの雑務があるのです.書類作成は専ら私の仕事ですが,回覧を回すのは会長の仕事です.コピーはどちらでもいいのですが,会長もコピー機の使い方くらい覚えておいてもらった方がいいと思い,行ってきました.多分覚えたと思います.

今日は屋根のペンキ塗りを次弟とやる予定だったのですが,夕方から雨との天気予報なので中止となりました.論文でもやろうかと思います.

万歩計生活 

最近万歩計をつけて生活しているのですが,朝起きて一日仕事して夜風呂に入るまでおよそ4000~4500くらいです.かなり運動量少ないですよね.で夜30分ジョギングをするとプラス3500~4000歩になります.それでも10000歩には届きません.

しかも万歩計ってカウントが10000歩でも10000歩歩いたわけではなく,万歩計が10000回揺れたにすぎません.椅子に座ってても思い切りのびをしたり,下に落ちたものを拾ったりしてもきっとズボンにつけた万歩計は振動を感知して1カウントするでしょう.したがって運動量は数値よりかなり差し引かねばなりません.

ところで,今日は何回か病棟を往復したせいか家に帰ってくると5000歩を超えていました.こうなると普段心穏やかな私も野心に燃えます.10000歩を超えたい!!という欲が出ます.

というわけで,夜30分走って10分ほど歩きました.帰って万歩計を見るとなんと9800ではなりませんか!!200足りん!!と思い,部屋で足踏みをして,ぴったり10000をカウントしたつもりが,見ると10003・・・.精度もさほど優れていないので誤差もあり,10000ジャストを見ることもかないませんでした.

しかし,10000歩超えたのは1つの達成感であり,よかったと思います.私の仕事では1日10000歩は困難ですが,せめて5000歩はいくように意識して身体を動かしていきたいと思います.

言葉を使わないコミュニケーション 

言葉を使ったコミュニケーションとは反対に,言葉を使わないコミュニケーションもあります.非言語的コミュニケーションは言葉を用いないので話し手,聞き手はおかしいです.しかし,意志を伝える相手がいなければ成り立ちませんので,送り手と受け手とでも言いましょうか.そのような二者以上の関係が必要です.

視線や身体言語(表情,身振り,態度)などは実に多くの情報を受け手に伝えます.言葉とは裏腹に・・・という経験,皆さんもあると思います.目は口ほどにものを言うなどの諺もあります.こうした非言語的コミュニケーションを上手に使えるようになると,人に言葉以上に多くのものを伝えることができるようになります.

挨拶をするときに頭を下げたり,手を振ったりすることも身体言語のうちです.言葉と一緒に使うことでより相手に印象付けることができますし,その言葉が真であることを自然に相手に伝えることになります.

ですから,上手な言葉かけや会話ができることも大切ですが,その際に自分がどういう身体言語を発しているかということも意識してみるといいと思います.自分でも気付かなかった癖に気付くこともできるかもしれません.

言葉を使ったコミュニケーション 

言葉を使ったコミュニケーションは話す人と聞く人,この2者によって成り立っています.たとえ何人いようと話し手に対して聞き手がいなければ言語的コミュニケーションは成り立ちません.言語的コミュニケーションは話し手と聞き手が交互に入れ替わることによって成り立っていると言えるでしょう.では,どういうコミュニケーションが好ましいのでしょうか.

精神分析の創始者として有名なG.フロイトは自由連想によって患者の語りを促しました.カウチに寝かして患者に自由に思ったこと感じたことを話してもらうという非常に簡単なものですが,どうしてそれで患者は話す気になるのでしょうか.フロイトは自分の姿が見えない静かで落ち着いた雰囲気を作り出しました.姿が見えなければ自分のどこを見られているのだろうということも気になりませんし,そうしたゆったりした雰囲気で信頼できる相手がいるなら何もかも話してもいいと思うかもしれません.カウンセリングでもまず相手の話を否定することなく保証された時間内はしっかりと聴くというところから相手が何を話してもいいんだという気になります.他人に受け入れられることを嫌うひとはそういません.まず,相手が話しやすい,のりやすい雰囲気を作ることを心がける必要があります.

思いがけずにという経験が皆さんあると思います.契約するつもりじゃなかったのにサインしてしまった,断るつもりだったのに引き受けてしまった,話すつもりのないことまで話してしまった,という経験,少なくとも最後の経験はあると思います.逆に最初のが思い当たる人は要注意ですが.これらはその場の雰囲気からそういう決断をしてもいいかなと思わせた話し手に功があるのだと思います.話し手の雰囲気作りが上手だった.だからいくらもなかったのがそういう気になったのだと思います.

話がはずみやすい雰囲気とは,相手の警戒心をとき,相手がリラックスでき話しやすいような雰囲気を作り出すことです.それには聞き手は自分のテリトリーで話すということも大事だと思います.慣れた自分の職場や部屋で話す方がリラックスできるからです.相手を説得したいときなどは特にそうです.アウェイよりホームの方がいいです.ホーム・アドバンテージというやつです.野球でもホームのチームは有利です.ファンの熱狂的な応援が入りますし,使い慣れたグラウンドですし,リラックスでき,自分の力を十分に発揮できるのです.ですから,自分のテリトリーに引き込むということも大事です.それに加えてリラックスのできる柔らかい椅子があるとよりgoodです.固い椅子より柔らかい椅子の方が相手の話を促すのに貢献するようです.

教会の神殿は畳敷きが多いと思いますが,柔らかいソファーで話ができる一角があるとプラスになることもあるかもしれません.我が家にはありませんが・・・.

このように言葉を使ったコミュニケーションは話し手と聞き手の二者関係の中で成り立つものですが,話がしやすい雰囲気を作るという外的環境の演出も必要であるので,話し方,聞き方を磨くだけでなく周囲の状況を感知して配慮する感性も磨きたいものです.

講義(第6回) 

以下は関連記事になります.
講義(1)
講義(2)
講義(3)
講義(4・5)

今日は久しぶりの講義でした.新年度になり,2年生は皆3年生になったようです.

講義内容は精神分析的自我論についてです.G.フロイトが確立した精神分析のパーソナリティに関する部分でして,構造論,自我,超自我,エス,防衛機制などの解説です.防衛機制の途中で終わったので,来週は今回の続きになります.

自我・超自我・エスの関係を説明するのに,以下のシーンの下線部セリフのアムロの心境に焦点を当てて説明しました.

「機動戦士ガンダム第2話 ガンダム破壊命令」

シャアの追撃を退け,木馬に着艦したアムロにブライト艦長が声をかける・・・.
ブライト「ガンダムの性能をあてにしすぎる.戦いはもっと有効に行うべきだ」
アムロ「な,な,なに?」
ブライト「甘ったれるな.ガンダムを任されたからには貴様はパイロットなのだ.この船を守る義務がある」
アムロ「い,言ったな」
ブライト「こう言わざるをえないのが現在の我々の状態なのだ.やれなければ,今からでもサイド7に帰るんだな」
フラウ「ブライトさん」
アムロ「やれるとは言えない.け,けど,やるしかないんだ.僕にはあなたが
ブライト「憎んでくれていいよ」「ガンダムの整備をしておけ.人を使ってもいい.アムロ,君が中心になってな」



相変わらず,臨床心理学の講義にガンダムを交えて話をする私でした.学生も分かりやすかったようです.女子学生もさすがにアムロの顔は覚えたでしょう.お道の話はできませんが,ガンダムの話は講義内容に沿っていればいくら話をしても問題ありません.

余談ですが,病院に帰ってきてから,院長に「女の子に囲まれてきたか」と言われ,「いや,目の前にはいましたが囲まれてはいないです」と答えると,「ドズルだって校長の立場で学生の中から嫁を見つけたんだからまお君も」と言われました・・・.そんな機会ないですってば.

※ドズル=ザビ・・・ジオン公国軍宇宙攻撃軍司令で階級は中将.部下思い,愛妻家.ソロモン宙域でMAビグ=ザムと共に散る.

相談することの重み 

面接の合間に時間があったので,ふと面接室での自分の座っている位置ってどんな風に患者さんに映るのだろうか?私だったら,何をセラピストに話すだろうか?と思い,普段患者さんが座る椅子に腰を下ろしてみました.

自分の位置はこういう角度で映るのか・・・と確認した後,自分の思考や感情に注意を向けて,どんな話をするだろうかと考えてみましたが,何もありません.特に話すことがないのです.誰もいない心理室で一人で椅子を移動している姿は滑稽だったかもしれませんが,私は人が他者に相談することの重さを改めて実感しました.

カウンセリングに来る患者さんは自分自身の目標のために,あるいは問題解決のために,毎週50分もの時間を割くのです.うまく言えませんが,それだけの時間を費やせるだけの悩みを抱えているということですし,それだけ時間をかけてでも何とかしたいという思いがあるということだと思います.それはこちらが思っている以上に重いことかと思います.しかも,(信頼関係はファーストコンタクト以降に徐々に形成されていくものですが)初回来談時には,まったくの他人に対して自分の悩みを打ち明けようというのですから,よほどの思いがあるのだと思います.それは常々意識しておかなければならないことですが,今日椅子に座ってみて改めてそのことを思いました.

これはおたすけにおいても同様かと思います.こちらからのにをいがけとなるとまた別ですが,相手の方からお道に,教会に,たすけを求めてきたとするならば,その人の事情・身上には相当の重みがあるということです.ましてや,まったく知らない門を叩いてきたということであれば,その抱えたる悩みたるや簡単には理解できないものかもしれません.それを引き受けてたすかっていただくには,私たち引き受ける側にもそれ相応の器や経験が必要ということだと思います.

なんだか自分で書いててとても大変な気がしてきましたが,ひとつひとつの相談の重みをしっかりと感じて器や経験を培っていく必要があるのだなぁと思いました.イマイチ納得のいく文章が書けていませんが,夜も更けてきたことですし,まだ明日の講義の準備が終わっていないのでこれで終わります.

今日は椅子に座って重みを感じたということを言いたかったのでした.

月次祭 

今日は4月の月次祭でした.

13人でつとめさせていただきました.私はいつも通り,おてふりと地方です.もう自教会でおてふり,地方,笛以外をやる機会はないような気がします.講話はよい話をいただきました.

長弟はいつも通り最後までいてくれ,今日は泊まっていくようです.次弟は夜勤だったので上半下りをつとめた後,準備をして出かけました.写真をうっかり撮り忘れてしまったので,残念ながら今日は画像はありません.

何はともあれ変わらずにまたこの日を迎えることができてありがたかったです.明日からまた仕事5連勤ですが勇んで通らせていただきます.

「祭典」カテゴリー追加 

月次祭の記事ごとに,過去の祭典にリンクを貼っていくと冒頭のリンクだけでかなりの行を使ってしまうので,「祭典」というカテゴリーを追加しました.祭典のみ,教会の御用とは別に分類されますので,リンクを貼らなくとも過去の祭典をすぐに見れます.

月次祭準備 

調餞明日は月次祭なので今日は月次祭の準備をしました.

普段は17日なのですが,4月に限り18日の誕生祭団参と重なってしまうゆえから月次祭は9日となっています.

今日は2名の方がひのきしんに来てくださいました.午前中にお供え物を買いにいきまして,午後から調餞などをしました.

今回お供えさせていただくのは,白菜,キャベツ,大根,玉ねぎ,かぼちゃ,きゅうり,小松菜,バナナ,りんご,パイナップルです.

明日は年度初の月次祭ですので,勇んでつとめさせていただこうと思います.

まおのバイト歴(1)魚市場 

さなさんのコメントで時給の話が出ましたので,この機会に私の今までのアルバイト歴について回想してみたいと思います.

初めてのアルバイトは父が働いていた魚市場でした.私が高校に入って間もなく,いよいよ教会が食べていけなくなり,父はアルバイトを始めたのです.(それまでは父の交通事故の保険と信者さんの真心のお供えの一部でなんとか生活していました.)

私が働いたのは高2の冬休みと高3の冬休み,春休みでしたかね.時給1000円とよかったのですが,朝3時頃からのバイトでした.眠いのなんのって.年末年始は夜11時頃からだったのでなおつらかったです.でもこれで大学時代一人暮らしをする支度金ができたのでした.

父はよくやっていたなぁと思います.朝バイトに出て,午前中あるいは配達で午後までかかって帰ってきて,その後で教会の御用に出かけたり祖父母を病院に連れて行ったりしていたのですから.市場明けに下道を通って15~18時間のおぢば帰りもザラでした.いや,自分の手でお金を稼ぐようになってはじめてわかることだと思いますが,本当,父を尊敬します.父はやはり私にとってよき父だったなぁと今更ながら思います.
市場は父の出直し後も,大祭と年末には刺身を買いに行っています.父と共に働いた懐かしい場所です.

さて,話がそれたので戻します.なんだか長くなりそうなので,とりあえず1つずつ紹介していくことにしますね.今日はここまで.

へとへと 

このようなタイトルでは神様に申し訳ないのですが,本当に今週はへとへとであります.

今日は知能検査(WAIS-Ⅲ)を3件やりました.1件やるのに検査自体が70~100分ほどかかります.それに多少の問診と終了後の採点を含めると1人にだいたい2時間くらいはかかることになります.検査に要する時間は,皮肉にも知的能力が高いほど時間がかかります.検査者も被検査者も互いに消耗するわけです.1件やるだけでお腹いっぱいなのに3件やったので後半は頭が重かったです.

しかも心理士のやるテストってほんと診療報酬において高コストがのぞめないんですよね.これだけやっても1検査あたり280点ですので,収益はわずか2800円.時給にしてわずか1400円程度しか稼げないことになります.患者さんからしたら安く済むのはありがたいことですが(3割負担で840円,自立支援法適用の1割負担で280円),経営側からすれば費用対効果において非常にマイナスな部門になります.しかも,その後更に結果の処理をして所見を書くのにまた時間を費やすのですから,完全に赤字部門です.心理士を一人雇うということがどれだけ大変か電卓を叩けば明らかですよね.いや,ほんとありがたいです.利益を出すのは難しい部門ですが,必要な部門ではあります.さらに今年は非常勤を一人増やしてくれたのですから理解ある事務長と院長に感謝です.働かせていただいてへとへとだと弱音を吐いていては申し訳ありませんね.明日乗り切れば6勤が終わり,連休になりますので,勇んで(できるかな?)つとめさせていただこうと思います.ああ,休みが恋しい・・・.

あれ,仕事で頭を使いすぎてへとへとだということを書いて就寝しようと思ったのに,別のことまで書いてしまいました.

人をして宗教を知るということ(1) 

関連記事になりますので,未読の方は以下を閲覧ください.
信仰の本質~宗教というラベリングの影響

以前に,宗教というラベリングのみで否定的に捉えるべきではないという話をしましたが,今日は逆に人から宗教を知るということについて考えてみたいと思います.

世の中には様々な宗教があります.世界三大宗教であるキリスト教,仏教,イスラム教,その他にヒンドゥー教などなど・・・未開文化であれば自然崇拝(アニミズム)もあるでしょう.日本をとってみても様々です.仏教には幾つもの宗派があり,神道では八百万の神が存在し,江戸末期の日本三大新宗教と呼ばれる天理教,黒住教,金光教,そして以後の新興宗教とたくさんの宗教があります.(近年の新興宗教は社会的に問題を起こす教団が多く,宗教全般が一般に敬遠される傾向にあることは否めません.)

さて,このように様々な信仰対象が存在するわけですが信仰のレベルは様々です.一言で「信仰」と片付けてしまうにはあまりにも幅があります.つまり,信仰対象あるいは信仰をどのようにパーソナリティの中に取り込んでいるかということで信仰のレベルは変わるわけです.

単に「家族や親戚が信仰しているので付き合いで」という人もいるでしょうし,「ご利益ありそうだし」「保険みたいなもんだよ」「助かりたいから」という現世利益的な人もいるでしょう.このあたりの人は心理学者のAllportによれば「外発的に動機づけられた宗教」と呼ぶようです.つまり自己の外にある利益のための信仰です.反対に「人だすけのため」「感謝のため」「心づくりのため」と「内発的に動機づけられた宗教」をもつ人もいます.つまり,自己の内に根付きその人の行動を導く信仰です.そしてAllportは「外発的宗教をもつ人は宗教を利用するが,内発的宗教をもつ人は宗教を実践する」と述べています.

単に宗教信仰といっても,その人がその宗教に対してどのような姿勢で向き合っているか,つまり意味づけによってその水準は全く違うわけです.そして内発的に動機づけられた宗教とはパーソナリティにおいて一貫した傾向を示す,すなわち個人の人格形成に大きく影響を与えるということです.自分の行為の基準が信仰対象の思惑,あるいは教義に基づいているのだとすれば,それは内発的と言えるかもしれません(教えの実践ということです).

信仰をもっている方は自分がなぜ信仰しているのか?という意味を是非考えてみてください.それが外発的なものであるならば,信仰をスペクトラムとして考えると低次に位置すると考えられ,都合が悪かったり,願いが叶わなかったり,ご利益がなかったりすると離れていくでしょうし,内発的なものであるのならば,スペクトラムの高次に位置し,たとえ困難な状況に置かれてもあなたの行動に一貫した指針を与えうるでしょう.

あなたの信仰は何がための信仰ですか?


続きは以下を閲覧ください.
人をして宗教を知るということ(2)
人をして宗教を知るということ(3)
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