信仰すると,あれをしてはいけない,これをしなくてはいけないとか戒律ばかりが厳しくて不自由であり,楽しく生きられないと考える人もいると思います.幸福を求めていくのが信仰であるのに,窮屈な暗い気持ちになってしまうと考える人もいるかもしれません.
そう考えているうちは形だけの信仰であり,自らの意志によって神様とつながっている信仰ではないのかもしれません.自分自身で悟り,心に修めていくのであれば,それは有意味なものであり,楽しく生きることにつながっていくものだと思います.人から言われてしぶしぶやっているうちは,不自由に思ったり,不満を感じたりすることもあるでしょう.しかし,自分で悟り決めた道であれば,それは自分の意志で選択しているのですから不自由ではありませんし,たとえ不満を感じることはあったとしてもある部分では納得もできるでしょう.
そもそも,お道の説く生き方に戒律というほどの厳しい教えはないと私は思っています.人が陽気に仲良くたすけあっていくためのごく当たり前な姿を親神様がおやさまのお口を通してわかりやすく説かれているだけであります.しかし,人間誰しも間違いはあるもので,その姿を実践できないこともしばしばです.いや,些細なことを含めれば日常的にあると言っても過言ではありません.それは心のほこりとして私たちの心の隅にたまっていきます.
そのようなときには,親神様は神をほうきとしてその心のほこりを「そうじ」するように教えてくださっています.わが身勝手な行いや心遣いはしないにこしたことはないのですが,知らず知らずのうちにしてしまいほこりを積んでしまうのが人間です.しかし,神様は身上や事情を通し親切に私たちにお手紙をくださり,神様ですが,親でもあるので,子どもかわいい親心から私たちの心の成人のための道をきちんと用意してくださっています.その道をあくまでも自分で意思決定した上で歩んでいけばよいのですから,窮屈ということはないでしょう.おまけに,その道を歩むことで暗くなるどころか周囲をも陽気にさせる心を培っていくことができるのですから,まさに楽しく生きることができると思います.
さて,自分だけでなく皆が楽しく陽気に生きるための心得として,八つのほこりを次回から説明していきたいと思います.
※「お道の説く生き方に戒律というほどの厳しい教えはない」と記述しましたが,そのことについて補足を.
教会によっては組織上の厳しさを感じている方もあるかもしれませんが,それは人の「生き方」の教えではなく,組織の「在り方」の問題かと私は思います.ですから,そこは自分の「生き方」の指針になる信仰心にしたがえばいいと私は思います(簡単にはできないことでしょうが).あくまでも真の理の親は「親神様」であると私は思っています.親神様がおやさまのお口を通して私たちに伝えたかった姿の実践を心がけるべきだろうと思います.誤った姿が存在するのであれば,各々の信仰心と良心の上から「そうじ」していく必要があると私は思います.
スポンサーサイト