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父⇒
父の誕生日⇒
年祭明日,父が出直して丸5年を迎えます.父親不在の生活にも慣れたものですが,生きていたらどんな感じだったろうかということを,晩年の延長から考えてちょっと綴ってみたいと思います.もちろん人生に「たられば」はなく,今あることに喜びを見出すことが肝要なことは承知ですが,1つの節目を迎えることから考えてみたいと思うわけです.
もし生きていたとしたら1月15日で55歳の誕生日を迎えます.ということは今日の段階では54歳です.在世時は教会長としてつとめる一方,家族の生活と伏せ込みのために早朝3時頃から市場にバイトに出ていました.教会に帰ってくるのは早くて朝の9時頃,配達など頼まれて遅くなると昼過ぎ,夕方くらいまでかかることもあったようです.
バイトのあと教会の御用や祖父母に頼まれたこと,数少ない信者さんのおたすけに出かけることなどあり,体力的にはかなり辛かったろうと思います.市場から帰って寝ずにそのまま一日動き続けるのも大変なことですが,いつ考えてもすごいなぁと思うのは,本部月次祭の際には市場で働いた後,車を運転して550kmのおぢば帰りをしていたことです.しかも交通費節約のために高速道路ではなく下道で帰るのが常でしたので12時間以上かかるのは当たり前であったと聞いています.往復して帰ると翌日にはまた市場の仕事があるので本当に大変だったろうなぁと思います.私が天理にいた頃に詰所に会いにいくと寝ていることが多かった記憶があります.それも無理のない話です.高校・大学・大学院と天理,おじの教会で生活させていただき,自教会を離れていた私は父の苦労というのを目の当たりにしていませんでしたので,当時はさほど深刻に受け止めてはいませんでした.これも今思えばもっと父の苦労をわかるんだったと悔やまれます.
仮に平成15年1月13日に出直すことなく生きていたとしたら,その後1年余りは相変わらず大変な生活を余儀なくされたろうと思いますが,平成16年3月には大学院を修了した私が教会に帰ってきて4月よりつとめに出ましたので,当時の私の稼ぎでは父のバイトの給料にさえ届きませんでしたが,父も少なくともバイトを減らすことは可能であったはずです.5年経った今の状況であれば,仕事をせずとも道一条につとめることができ,体調のことも考えながら生活することができたのではないかと思います.「あと1年半生きてくれたら楽をさせてあげられたのに」という思いは今でもあります.
お道の冠婚葬祭の儀の執り行い方についても折に触れて私に色々指導してくれたでしょうし,ときにはお酒を飲んでお道に対する父の考えなどを聞いて議論もしているだろうと思います.父がどんな思いで教会長としてつとめていたのかを知る機会を持たぬままでしたからね.私が臨床心理士として働くのを一番楽しみにしていてくれたので,お道と臨床とを成り立たせていくために色々アドバイスもくれたかもしれません.冠婚葬祭については近くの教会やおじ,上級会長に教えていただくことがありますが,やはり父に教わりたかったと今は思います.いないからこそ思うのでしょうけれど.いたらいたで口うるさいなぁと思うと思います.ないものねだりですね.
寡言でしたが芯がしっかりしていましたので(頑固さもあり),私たち息子たちに必要なときに必要な言葉をかけてくれたろうと思います.前にも書きましたが怒ったときの「三角の目」は未だ兄弟の中で恐れられています.ありえないくらい怖かったです.しかし,父親たるもの親として絶対譲れないところではそうした強さを発揮することも必要で,その強さがあったからこそ,私たちがそれなりにまっとうな道を歩むことができたのだと思います.父の強さは家庭内だけにとどまりません.私たち息子は5人とも皆成人しておりますが,まだ若輩ゆえ家に母親しかいないということはどうしても社会的に弱く見られやすいということが何かとあったように思います.「父さんがいたらなかったろうなぁ」と思うことはしばしばありましたので,父親の果たしていた役割の大きさというのを改めて実感することができましたし,それは自分がいずれ親にならせていただくご縁をいただいたときの道標となり,「父のように強くあろう」という意志を与えてくれるものであると思います.
とりとめないですが,思いついたことを書いてみました.
明日は母の実家の大祭です.母は参拝に行きますので,私は祖父の世話です.父の命日に父の父親の世話をさせていただける,イライラしてしまうこともときにはありますが,父にはいくら望んでもできないこと,父の役目を担わせてもらっていると思って,ありがたくつとめさせていただきます.祖父が生かされていることも本当にありがたいと思います.