ずばり!宇宙葬はいくらかかる
宇宙葬の費用は打ち上げ費用のほかに記念品や証明書等を含めて約100万円ほど。打ち上げを見学する際は旅行費用が別に必要です。
「自然へ還る」とはいっても、海への散骨や樹木葬に比べると費用はそれなりにかかります。その費用、ズバリ105万円(消費税含)。この中には打ち上げ代、遺骨を納めるカプセル代のほかに、記念誌や打ち上げの様子を撮影したビデオが含まれます。
100万円と聞いて「高い!」という人もいれば「宇宙へ行くのに100万円は安い!」と感じる人もいるでしょう。打ち上げを希望する日本人は年々増え、最初の年はたった1名だけだったのが、最近では200名募集のうち日本人は50名ほどに達したとか。
現実生活の中ではお道の話をすることはおろかリーフレット配りさえ躊躇があったということは私に大きな影響を与えています.インターネット上でお道の話をすることには躊躇もありませんが・・・.
信仰とは本質的には神と自己を結ぶものでありますが,神と自己を結ぶ=神の思いに近づくことと思います.それは世界だすけの道であり,より多くの人に救かってもらいたいという思いを実践にうつしていくことです.自分がお道の信仰のおかげて救かっていると思うのであれば,それをより多くの人に伝えていくことはやはり大切なことなのではないかと思います.
たとえば,○○社の××製品を買って使ってみたら,とてもよい商品で買ってよかったと思うのであれば,それを自分だけ味わうのではなくより多くの人に味わってほしいと思うのがたいていの人の感覚であると思います.そして,試しに使ってみなよと近所の人や知人,親戚などに勧めるわけです.
信仰も同様なのかもしれません.よいものだから人にすすめるというごく自然のことです.ですが,簡単にはいかない・・・.観念的なものなので数字で証明しにくいということもあるかもしれません.また,宗教への偏見も多くあることと思います.見知らぬ人へのにをいがけは商品をすすめに家を回る営業マンと構造的には一緒ですから,簡単には成功しないのも当然かもしれません.
それでも,そのために費やした時間と尽くした心は親神様は受け取ってくださり,いつかその芽が出るのだと思います.会長がリーフレット配りは種まきだと言っていました.リーフレットから電話をかけてくる人はほとんどないけれども,まったく関係のないところから電話があってにをいがかかることもある,それも普段の種まきのおかげということだそうです.はっぴーさんも「にをいがけはおやさまへのお供え」とのコメントをくださいました.なるほど,理に適っています.また,さなさんのコメントにありましたように,「1000人に1人くらいは電話くださる方もいる」とのことですので,それ自体にも伝道の意味はあるのだと思います.ですが,基本的には見返りを求めるのではなく,自分自身あるいは教会の種まきとして位置づける方が私は納得がいきます.
今日の話はまとまりませんが,私は生まれながらにして素晴らしい宗教と出逢い信仰をしていると思いながら,それを人に伝える機会を持たず,また持とうともせず,自己愛的な生き方をしていたのかもしれないと思ったのです.そして「そのうち自分も」「いつかやろう」と思っているだけで刻が過ぎていることにも気がつきました.すぐに実践というわけにはいかないでしょうが,今までよりはほんの少しでもお道の勉強やにをいがけにつながることをさせていただこうと思いました.本当に自分を振り返るよい機会を親神様は下さったと思います.
今日は午後からリーフレット配りに行ってきました.支部で何人かが集まり,とある団地を回りました.
手にリーフレットを持ち,団地内を歩いてポストにそれを入れて回るわけですが,自分は何も悪いことはしていないのに,妙に居心地が悪いのです.よかれと思ってリーフレットを配っているのに,なんだかとても悪いことをしているような気分になるのです.人の気配がある階段近くのポストはとばして次のポストに歩いていく自分の足取りがそれを物語っていたでしょう.きっと迷惑がられるんだろうなぁとか,読まずに捨てられちゃうんだろうなぁとか悪い考えが頭をよぎりましたが,その考えを振り払い,たとえ1枚でも目を通してもらえればそれでいいじゃないかと思い続けました.ですがやはり勇むというよりはいずんでいたような気がします.
これが何かのチラシ配り―たとえば割引券や広告などを配るアルバイトであれば,何の抵抗感もなくこなせたことでしょう.なぜチラシ配りは大丈夫なのに,天理教のリーフレット配りには居心地の悪さを感じるのでしょうか?そこにはおそらく社会的認知度が大きく影響していると思います.宗教の認知度は低く敷居も高いです.このことが自分がマイノリティであるという認識を団地の中で強く実感させ,受け入れられにくいと私に思わせます.そして,天理教は私のアイデンティティ(※)の重要な要素ですので,そのような実感をひしひしと感じることに居心地の悪さを感じたのだと思います.結局は私の未熟さなんですが・・・.(アルバイトであればそのチラシの扱われ方によって自分自身に何の影響もないので居心地の悪さは感じないわけです.)
そんなわけで,私は自分自身がまったくの裸で無力であるように感じました.病院で仕事をしていれば,こちらから足を運ばなくとも患者さんの方からやってきてくれます.白衣を着ていれば,たいていの人が訊ねたことに答えてくれますし,こちらの話も聞いてくれます.信頼を得られれば悩みも打ち明けてくれます.しかし,今日その場にいた私は,人に対してまったくの影響力を持たず,そして自分のやっていることにむしろ心許なさや後ろめたささえ感じていたのです.これまでにもにをいがけをしたことはありますが,今日ほど深く感じたことはありません.
一般的に宗教が敬遠される時世の中で,私は信仰はむしろ必要だと思っていて,その良さを少しでも伝えたいと思い,こうしてブログまで書いていますが,それをいざ現実社会の中で広めるための実践となると自分はあまりにも無力であると思いました.そんな自分をとても小さく感じました.
リーフレット配りの真の意味は伝道にあらず,他者に対しての影響力以上に自分自身に対しての強烈な仕込みになる,と思いました.裸の自分を知り,心を低く通らせていただくのにもってこいかもしれません.その心は神様が受け取ってくださるでしょうし,にをいはあとからついてくるものなのかもしれません.今日のリーフレット配りで自分は多くの有形・無形の存在に支えられてこの社会で生かされているということを改めて実感できました.
今回私は自分自身の未熟さを痛感したわけですが,このようなことを感じることなく,勇んでにをいがけをされている方はすごいなぁと思います.にをいがけをされている方,正直どのようなことを感じながらされていますでしょうか?
※アイデンティティとは自分らしさのことで,「自分とは何か?」「自分はどんな人間なのか?」「自分は何のために生きているのか?」などの問いに対する答えに該当すると思うとわかりやすいかもしれません.
解離性障害の歴史的背景
病的解離の臨床的記載は17世紀まで遡ることができ、19世紀には多数ある。19世紀末の症例と現在の症例を比較しても強い臨床像の一致がみられる。解離性特性の中核(健忘、病的解離、トランス)が、時代と文化を超えて同一不変であることは、病的解離が精神の病的症状総体の基本形態の1つであるからと考えられる。19世紀のピエール・ジャネはとりわけ解離に関する外傷の重要性を断固追及しつづけた。第一次世界大戦後になるとジャネは不当に無視され忘れ去られたが1970年代後期からの解離に対する関心の高まりと、実用的な臨床定式、有効な治療法が要請される中で再び評価されるようになってきた。
DSM‐Ⅰ(1952)では、「ヒステリー」が「解離性ヒステリー」と「転換ヒステリー」に分類されていたが、DSM-Ⅲ(1980)では、従来のヒステリーの概念が捨てられ、「転換ヒステリー」は「身体表現障害」となり、「解離性ヒステリー」は「解離性障害」と改められた。従来の古典的なヒステリーで代表される「解離性ヒステリー」、「転換ヒステリー」は、現実の解決困難な問題を処理できないことや、自分の中で相矛盾し対立する同一性の問題が大きな原因であるとされてきた。しかし、現在の「解離性障害」は、幼児期の虐待や性的虐待が大きな原因になっていると考えられている。DSM‐Ⅳ(1994)では、これまでの「心因性健忘」を「解離性健忘」に、また「心因性とん走」を「解離性とん走」に、そして「多重人格性障害」を「解離性同一性障害」に変更し、それぞれの障害が解離された表象の程度の違いであるということをより明確にした。
解離性障害の診断方法
- 次元的方式
「解離体験測定尺度」(E.B.カールソン F.W.パトナム)を用いて、軽度のよくある解離現象と精神病的な解離現象について尋ねる。正常から病的に至る幅広い体験を一つの連続体とし、この視点から解離に迫ろうとするものである。- 記述的DSM方式
症状をカテゴリーから診断する。DSM-Ⅳでは「解離性健忘」「解離性遁走」「解離性同一性障害」「離人症性障害」に分類されている。DSMは成人中心に作られているため児童を評価するための方式が求められている。
治療法
解離性障害のほとんどは幼児期の虐待や性的虐待など、外傷性の精神障害に含まれるといわれる。よって、解離性障害の治療は、そのような心的外傷を客観的、現実的にとらえて治療に望むとともに、内的外傷ともとらえてそこに治療の可能性を求める必要がある。心的外傷を現実的な面としてだけにとらわれた治療を行うのではなく、それまでの人生を総括し自我の住む意識の場を大きく転換させる必要があると考え、症状の意味をクライエントの人生に生かしていくよう取り組む必要がある。
最初の解離性障害の治療目標は、健忘をなくすということになるが、この際、むやみに健忘を除くことは患者の防衛手段を奪うことで、精神にとって更に危機的な状況を作り出しうるということに十分配慮する必要がある。児童が患者の場合は遊戯療法などが適切である。遊びは児童の自己の感情を表現し、徹底操作して解消する場となる。外傷主題はプレイやアートやストーリーに表現され、陰伏的な形で治療することができる。この際、子供の自発性の尊重と、治療目標にあった治療の枠組みと治療者のイニシアティブが必要となる。
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Author:まお & あいこ
まお:お道を信仰するよふぼくであり,教会子弟です.現在は精神科で働いています.
あいこ:お道を信仰するよふぼくであり,まおと出逢って入信しました.現在は精神科で働いています.