かなり遅くなりましたが,榮島先生のお話第2弾です.
お世話した人の中に,逃げてきた一家がいて,しばらく滞在した後,去っていったそうです.後,突然,本部の南礼拝場に夜中にやってきて,大声をあげて倒れる一家がいまして,本部ですからすぐに境内掛がかけつけて身元を訊ねてくれるので,三輪ですというと,榮島先生のところに電話がかかってきて,夜中に迎えにいき,お風呂に入れて布団をしいて,ゆっくりしていってくださいと言うと,3ヶ月くらいゆっくりしていくということが4回ほどあったとのことでした.出ていくときにはいつも一言もお礼を言わず,暴言を吐いて出て行くそうで,「こっちは世話になんかなってないし,世話してるのはこっちの方だ」と申し訳ないと思いながらもついつい思っていたということでした.しかし,1つ不思議なことがあり,それはその家族が倒れたときに境内掛をしているのがいつも同じ人で同じ人から電話がかかってくるということでした.
さて,先生には娘さんが3人おられるそうですが,長女は好きになった人のところへお嫁に行くと言っていてほとほと困り果てていた時期があったそうです.そんな娘さんが就職した後,職場の宴席で隣を巻き込んでのカラオケか何かになったときに,偶然知り合った人がいて,その人というのがいつも電話をしてくる境内係の人だったということです.そして,経緯はよく分かりませんが,「あのような人が会長をしている教会なら喜んで養子にいかせてもらいます」ということになり,今は教会長として頑張ってくれているということでした.(会場からは驚きの声があがりましたね)
一番心配していた婿養子をいただくことができたのは,他でもないこちらが世話しただけで何も世話になっていないと思っていた例の一家のおかげだったのです.あの一家がいなかったら,婿養子はもらえなかったかもしれない,娘はどこかに嫁にいってしまったかもしれないのです.まさに,一家が引き合わせてくれた縁(一家を使って神様が引き合わせてくださった縁).そのように考えると,後にお世話になる一家に神様が先回りしてお世話するように仕向けてくださったのかもしれません.どんな人にでもさせてもらって無駄はないんだなぁ,今目の前にいる人が無関係と思えても,自分と縁があるから,自分がお世話させてもらう種があるから現れるんだろうなぁと思いました.そのお世話をさせてもらうことで成ってくる理,切れていく根があるのだろうと思いました.どんな縁でも大事に通らせていただきたいです.
第1弾はこちら.
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人をたすけてわが身たすかる
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