関連記事になります.
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お道と臨床と(1) ⇒
お道と臨床と(2) 私自身のお道と心理臨床の関係性について過去を振り返りながら綴ってみたいと思います.
きっかけというきっかけは特にありませんでした.高2か高3で進路について考えたとき,贅沢な話ですが最初はもう大学進学はやめようと思ったんです.勉強が大嫌いだったからです.そのことを父に言ったら,「それなら専修科に入れ」と言われました.それだけは勘弁と思った私は,ならば教師を目指そうと思ったんです.父が教員免許持ってたのだけれど祖父の道一条でつとめてほしいという思いからできなかったという背景もありまして.そんな中,所属教会の青年会講話で母が宮崎先生の話を聞いて,両親が「初代は情熱と根性でいいがこれからの時代は心理も必要,おたすけに役立つ仕事として学んでみてはどうか」とすすめてくれました.いずれ自分も将来教会長としてやらせていただきたいということは頭にあったので,学ぶなら人だすけに直結し,おたすけにも知識・スキルとして生かせることをと思い,臨床心理が候補にあがったわけです.つまり,臨床心理学をお道の上に生かす手段として学ぼうと思ったわけです.
当時,雅楽を大学でもやりたいと思っていた私は(関連記事:
私と雅楽),天理大に臨床心理があるからと周りの反対を押し切って天理大を受験することにしましたが,落ちたらいやだと思って間際になって社会福祉に乗り換えようとしたんです.どちらも対人援助という点で一緒だしと当時の私は考えました.しかし,そのときに父が「ダメだ,臨床心理を受けろ」と強く私に言いまして覚悟を決めて受験したわけです.ですから,そもそもの始まりは奇しくも宮崎先生とのご縁,そして今は亡き父が私の背中を押してくれたという経緯があったのです.
大学4年間は遊びほうけていた時代だったのでほとんど何も考えていなかったですが,大学院の頃にはお道の上に臨床心理学を生かすということと共に,心理臨床の上にお道の教えや自然の理を生かすということも考えるようになりました.これは卒後も数年思うこととなります.ただこのときは両立ということが頭にありました.もちろんおたすけが第一だけれども,今の時代,宗教は敬遠される傾向にあり,宗教との関わりを好まない人もある,そういう人には臨床心理学や心理臨床の経験を生かした援助をすればいいという二刀流,二足のわらじ的なことを考えていました.つまり,初めはおたすけの上に生かすという目的で学び始めたものが,いつの間にやら対等になっていたわけです.この時期には当ブログなども書き始め,自分のお道と臨床に対する考えを整理していこうと思っていました.しかし,なかなか双方のつながりのようなところまで考えるには至らなかったし,最近は日記と化してしまっているところもあり,事実上停滞を見せています.ところが,今年のみちのとも(立教172年2月号)に松本滋先生の講演要旨が載っていて,信仰と学問を両立させていこうと考えていた松本先生に二代真柱様が言われた言葉に,今更ながら心を打たれたわけです.
「両立ということではない.何事にもあれ,信仰がベースだ.そのうえに学問があり,芸術があり,スポーツがあり,あらゆる人間の活動があるんだ」
このお言葉を読んで,私は元を思い出したというか,ベースはお道だ,おたすけだ,信仰だということを再確認したわけであります.ベースがお道と考えると,今私がさせていただいている仕事も合目的的なものとなります.すべてはお道がベースであり,その上に心理臨床の実践があるわけです.どちらの知識や実践も互いに生かしていくことはできますが,あくまでもよふぼくという自分があっての心理臨床家の自分であり,心理臨床に携わることは神様の用材としての役割を果たすための1つの手段であります.また,最近会長である母よりよく聞くのは,信仰初代であり初代会長であった祖父の代には精神の病(統合失調症に限らず)のおたすけをたくさんお与えいただき,入れ替わりで何十人とお世話させていただいていたとのこと.そういう故からも,私にも教会のあるいは家族のいんねんとして心の病を抱える方とのご縁があり,今の仕事を神様からの御用と思ってさせていただくことが自らのいんねん切りになるのではないかと思うところもあり,心理臨床は私のお道の信仰という基盤の上に乗っかっている感じになっています.
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