三日講習Ⅱではいんねんの話題が結構多かった気がしました.
(そもそもいんねんとは何かと言いますと,魂の持つある傾向(性質・癖)―とでも言いましょうか.原典にどういう説明がなされているのかは把握していないのですが,そんな感じかと思います.)
班の練り合いではいんねんという言葉にあまりいい印象を持ってない方もいました.私もそうでした.何か暗いイメージが伴い,間違って用いると相手を責めることになりがちなものという感じがして敬遠しがちでした.単に「縁」という言葉に置き換えて用いることも多いです.しかし,最近教理を知るにつれていんねんの教理はやはり大変重要なものだと思っています.でもやはり何か暗いイメージが伴う.だからこそ誤解なく理解し伝えなくてはならない教理であると思うのです.まぁどの教理も誤解なく理解し伝えなくてはならないのはそうなんですけどね.
いんねんに対して,そういう暗いイメージを持っている人がどれだけいるか分かりませんが,それはいんねんの教理をきちんと理解していないからかもしれません.そもそも人間には誰もが陽気ぐらしができるという「元のいんねん」があります.生まれ変わり出変わりの中で個人の心遣いによって,個人にいんねんが現れてくるわけですが,このいんねんは何も悪いものばかりではないのです.おさしづには以下のようにあります.
世界にもどんないんねんもある.善きいんねんもあれば,悪いいんねんもある.(M28.7.22)
どれだけいんねんじゃ,いんねんじゃと言うても,白いんねんもある,悪いんねんもある.(M31.9.30)
つまり,ほこりが積もり重なれば悪いんねんとなりますが,ほこりを払い徳を積んでいくことで白いんねんにもなるわけです.現れていることは皆親神様が個人の魂に合わせて見せてくださっているものであり,そのことをすべていんねんと呼ぶわけですが,とりわけ悪いいんねんばかりが話として持ち出されてきた背景があり,悪いイメージを持ってしまう場合があるのではないかと私は思います.また,白いんねんは単に徳という言葉に置き換えられて使われている感じもあると思っていて,いんねん=悪いんねんと捉えられがちな風潮が漫然とあるのではないでしょうか.いんねんの教えが間違っているとはまったく思いません.おやさまの教えに間違いはありません.間違いがあるとすれば,それを受け取り使ってきた人間の理解の仕方だと思います.
おやさまが教えられたこの道は知ることで人が勇めるようにならないかんと思います.そう考えるといんねんの話の取り次ぎ方にも工夫が必要だと思うのです.経験豊かな方はうまい話し方を知っているのでしょうが,少なくとも理解も経験も少ない私にとっては工夫が必要です.実践の伴わない理屈にすぎないのですが,いんねんの教理を取り次ぐ必要のある場合,同時に元のいんねんの話と白いんねんの話を十分にする必要があると私は思います.元々陽気に幸せに暮らせる資質を持っているということを伝え,加えてどんな人にだっていい経験,縁,与えはあるはずですから,そういうものがよい心遣いによって表れてきていることを話す必要もあるでしょう.その上で悪いんねんの話を持ってきてそれを切り替えるにはどうしたらよいかを説くという3段構えの姿勢が必要なのではないかと思います.(←もしかして当たり前のことだったりします?)そして,その話が相手に入るためには,やはり旬を待つ,伝えるべき時機を見極めることが必要なのではと思います.それは相手に受け入れるだけの器ができてくるということかもしれませんし,取次ぎ手との信頼関係かもしれません.
以上の手続きを踏まずして,家族のいんねんならまだしも個人の前世いんねんなどいきなり聞かされても得心するのは難しいのではないかというのが今の私の考えるところです.ある先生は「いんねんは諭すものではなく悟るもの」と聞かせてくださいました.なるほどと思いました.家族のいんねんはその流れは見えますが,前世からのいんねん(その人の魂が持っている性質・癖)は神様以外知る由はありません.それを一方的に決め付けてしまう人がいるとすればそれは間違いでしょう.
カウンセリングやソーシャル・スキル・トレーニングにおいても,相手に次のステップに勇んで進んでもらおうと思ったら,まず本人の資質を十分に褒める,できている部分,変わった部分などを十分に評価した上で,工夫するとよい点などを話します.これはその分野のみに限らず,学校教育だって子育てだって同じだと思います.まず十分なプラスのストロークをもらってこそ変えようという意欲,勇み心が湧いてくるのではないかと思うのです.信仰から遠い・浅い人ほど相手が受け入れやすい土壌をしっかりと作ることが必要な気がします.
なんてことを三日講習の練り合いから思いました.
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