など,おつとめややまいについて色々な言及があり,おつとめをしっかりつとめ,親神様の思いに沿ってこの道を通るならば,どんな病でもたすかり,病の根は切れると教えてくださっています.そもそもこの病さえ,親神様が皆が陽気に通るための道を教えてくださっているお手紙なのですから,元の親である親神様の示される通り通らせていただけば根が切れるのも了解できます.親神様は人間が憎くて身上・事情をくださるのではありませんからね.子どもかわいい親心からなんとか互いにたすけ合える心になってほしいと思って道教せしてくださるわけです.そういうわけで,適応をはかるなら心理臨床の援助でも可能ですが,元の根を切るにはお道の信仰とおつとめが大事なのだろうと私は思うのです.このつとめなんの事やとをもている よろづたすけのもよふばかりを(02.009)
とのよふなむつかしくなるやまいでも つとめ一ぢよてみなたすかるで(10.020)
このみちがたしかみゑたる事ならば やまいのねゑわきれてしまうで(04.094)
しやんせよやまいとゆうてさらになし 神のみちをせいけんなるぞや(03.138)
とありますように,人間の親である親神様に私たちはたくさんの与えをいただいており,それを素直に受け取り感謝していく心になっていくことが大切です.たん/\となに事にてもこのよふわ 神のからだやしやんしてみよ(3.40)
とあります.すでに子どもの親になられた方は経験されていることでしょうが,親とは子どもに無償の愛を与え,自分に利益がなくとも子どもが喜ぶ姿を見て喜びを得るものと思われます.子が満足する,喜べるよう,させていただくことが親の役割,そして子が満足し,喜ぶ姿を共に喜べるようになることが「親心」であると思います.広く言えば,相手に尽くすことで自分自身が喜びを得る,それが親心です.これは何も自分の子どもに対してだけではありません.たとえ親にならずとも,人は誰に対してでも親心を使えるのです.言葉かけ,気遣い,贈り物,どんなことでも相手に尽くし,相手が喜ぶ姿を見て自分も嬉しい,楽しいと感じたならばその心は親心と言えるでしょう.子が満足して親と言う。どんな事も、成らん処育てるが親の役、親が腹を立てゝはどうもならん。これをよう聞き分けてくれ。(M31.11.13)
おやさまが教えてくださった親神様の教えは真実の教えであることは間違いありません。この人間世界は親神様によって作られており,天然自然の理によって物事がうまく運ぶようになっています。うまくいかないということは,今の天理教という教団の姿が人間思案によって親神様の目―天の定規と照らし合わせてずれているところがあるからに他ならないと思います。これは一信仰者の生き方とは別の問題であるかもしれませんし,それに加担している部分もあるのかもしれません。「いま一番求められているのは,教勢活性化のために何をすべきか,何ができるのか,その手がかりや"芽"となるものを探っていくことにある」
「現状に目をふさいで通るわけにはいかない。なぜ低迷しているのかというところから考え,なんとか歯止めをかけたい」
高い低いの理はあれど,何事するも話し合い、伝え合いが神の望や。十人なら十人,下は下の理がある。上は上の理を一つの心に結んで了う。おら気が合わんという事は言うたらよい。結構と思えば,俺はどうやと言えようまい。あんな事というは見て居られん。見苦しいてならん。綺麗なものなら,いつ\/までも楽しんで居らるやろう。めん\/心得てくれ。もうこれいつも変わらん。(M31.5.9)
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Author:まお & あいこ
まお:お道を信仰するよふぼくであり,教会子弟です.現在は精神科で働いています.
あいこ:お道を信仰するよふぼくであり,まおと出逢って入信しました.現在は精神科で働いています.