今朝あいこより「昨日の午後3時から長男のうんちが出てない」とメールが来ました.入院していたときは1日に7~9回くらいしていたので,おかしいなと思いました.
便が出ないとは飲み食い出入りのご守護が十分にいただけていないことなのかなと思いまして,子どもを通して親神様が見せてくださっているのだと思いました.本来出すべきものが出てないってのは,本来出すところで何かを惜しんでうなぎのように滑らかでない部分があるのだと思い,それが労力なのか能力なのか,金銭なのか分かりませんが,うなぎをイメージしてちょっと考えてみました.振り返ると,実はちょっと気になっていたのですがそのままにしていたことがありました.無事長男が生まれたことのお礼づとめはしましたが,これから長い人生をお守りいただくのに理立てをしていなかったんですね.さっそくさせていただくことにしました.すると,3時間ほどしてからあいこよりメールが来まして「たっぷり出たよ うけた(笑)大笑い」とのことでした.鮮やかだなぁと思いつつ,親神様に感謝しました.長男の便が出ないということがなかったら,そのままだったかもしれないことをおかげさまで気づかせていただき実行させていただきました.さっそく長男から教えられました.やはり折にふれての理立ては大切なのですね.今書いていて,長男を授かる前も,これから子どもの分まで器を広げていかないといけないんだから今から少しずつ理立てさせていただこうと思ってあいこと始めたら,その月のうちに妊娠が分かったという出来事があったことを思い出しました.
ところで,「理立て」という言葉ですが,原典には出てきません.「理を立てる」こと,つまり親神の思召に添った天然自然の道を通すという意味合いだと思うのですが,現在はお守りいただくための先回りしてのお供えを指すことが多いのではないかと思います.つまり,二の切としての金銭のお供えということでしょうか.逸話篇には「大難小難の理」として教えられています.この道は形ではなく心,何よりも親神様は真実の心を喜ばれるのですから,この理立てということに関しても,旬のときに一名一人の真実の心でもって自然とさせていただくものと私は思います.その立てた心によって何かが切り変わっていくことも事実です.ただ教えを説く立場ともなると,その事実を知っているが故に,ともすれば親神様より与えられた心の自由をさしおいて,信仰生活の中で義務化あるいは強要という自然の理に沿わぬことをそれと気づかずにしてしまうこともあるのではないかと思いますので,そのあたりは十分に思案させていただかなくてはならないと思います.親神様が人間創造の際に,人間が五分五分と成人するのをゆっくりと楽しまれたように,また,おやさまが親心をもってゆっくりと優しく諭されたように,教えを説く立場の者はその重要性を折にふれて話す必要はあると思いますが,その話をどう受け取るかは心の自由において各自が決めることであります.すぐに理解できる者,時間がかかる者様々でありますが,親神様の思いにかなう心遣いや行いができるようゆっくりと辛抱強く関わる姿勢が大切なのではないかと思います.てっとり早く形が成ればよいのではなく,心が成人していくことを,自然と親神様を心に抱いた言動ができる人間に成っていくことを何よりも親神様,おやさまは喜ばれるということを忘れてはいけないと私は思うのです.私の立場ではまだ人に説くということはあまりありませんが,このことは肝に銘じておきたいと思います.
話がそれましたが,長男の便が無事出てよかったです.これから子どもの姿から教えられることがわんさかあるのでしょうね.父親,母親の皆様,子どもより教えられた経験があればどうぞ教えてくださいませ.
スポンサーサイト