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私と雅楽今日は父の命日です.父への感謝と尊敬をもって綴ります.
私は父を尊敬しています.しかし,それをより感じるようになったのは皮肉にも父が出直した後であったかもしれません.
うちのような小さな教会を支えていくことはすごく大変なことです.しかし,15歳から23歳で父が出直すときまで教会を離れていた私には,それを目の当たりにする機会が少なかったように思います.それは母からも時折言われることですが.
父は家族には寡黙でしたが,子煩悩でした.どんなときでも子どものことを一番に考えていたと母より聞いていますし,私もそのように感じます.しかし,怒ると目が三角になり本当に怖かったです.今でも兄弟で「父さん怒るとすげー怖かったよな」「あの三角の目ありえねーよ」などという話になることもあります.もちろんにこにこしているときも多かったですけどね.芯のあるどっしりした頼れる父でした.外でも優しく人の話によく耳を傾け,信頼される人であったと聞いていますし,出直し後,父の知人と接した上からもそうだったのかなと思います.
神様から様々な身上や事情もいただき,自身は苦労を抱えながらもそれを私たちに漏らすこともなく,私たちには笑顔で接し,お道の人間としての手本となってくれました.母より「神様から家族へのお手紙をお父さんが一身で引き受けてくれているから皆は健康に過ごさせてもらえてるんだよ」と聞かされ,大変だなぁと思うと共にありがたいなぁと感謝の念を抱いていました.
雅楽をすすめてくれたのは父でした.勉強だけで高校生活が終わるのは嫌だった私にとってそれは学生生活の楽しみとなりました.臨床心理への道を決定づけてくれたのも父でした.私は願書提出前に臆病風に吹かれ,落ちたら嫌だから社会福祉に進むと言ったときに「ダメだ.臨床心理へ進め」と尻を叩いてくれたのは父でした.あのとき,「おまえのしたいようにしたらいい」と言われていたら私は臨床心理士にはなっていなかったでしょう.父に感謝です.私が資格をとって働くのを誰よりも楽しみにしていたでしょうにその姿を見せられなかったことは残念でなりません.
子どもの人生の要所要所で父としての威厳を見せ,その役割を見事に果たしてくれていました.地元の高校へ行った兄弟2人が部活を辞めたいと言ったときも絶対に辞めさせませんでした.辞めるなら学校も辞めろと言ったほどです.その強さのおかげで彼らは部活を続けて,卒業時にはよい就職先に縁がありました.末弟の卒業時まで生きられなかったのは残念に思いますが,それでも末弟が就職も決まり,高校卒業間近でしたので,子どもたち5人が自分の力で自らの人生を歩むまで見守り育てあげてくれたことになります.その役割を終えての出直しだったのかもしれません.むしろ身上を抱えながらもそこまで生かさせていただいたことに感謝しています.
父に対して悔やんでいることがあります.私がまだ大学生の頃,教会に帰った際,父に「まお,一緒に酒でも飲むか」と誘われたことがありました.当時の私と言ったら,友人とバカ騒ぎする飲み方しか知らなかったもので「父さんと飲んでもつまらないからいいよ」と気乗りせず断りました.別に飲むのが嫌だったわけでもないですが,父さんとじゃバカ騒ぎはできないよなぁという浅はかな思慮からだったかと思います.私の方は何も気にしていなかったのですが,父はそれをけっこう気にしていて,以来私に飲もうと声をかけにくかったらしいのです.それでも,私がたまにビールを飲んでいると,「父さんももらおうかな」と少し飲んだこともありました.肝臓を患っていたのであまりお酒はよくなかったんですけどね.
出直した年の正月,元旦の献餞をした後,父が珍しく「よし皆で飲もうか」と誘ってきました.23歳になり,とうにバカ騒ぎなど卒業してまったり飲むことに慣れていた私にはむしろありがたい誘いでした.そして子どもたちとお酒を飲んだのです.思えばそれが父と飲んだ最後のお酒でした.このときのことを父は喜びながら母に話していたということです.それからわずか13日後に父は出直したのです.通夜の晩,棺の前で私は父のグラスを置き,一緒に乾杯をしました.そして父に語りかけたことを覚えています.「何でつまらないなんて言ったのだろう」「父さんもそんなのいつまでもひきずるなよ」などと悔やんだものです.もっと飲む機会を作ればよかった.声をかけてあげればよかったと後から後から悔恨の念が沸いてきました.生きていれば何度でも父と飲んで語りたい,そう思います.自らの思いを子どもたちに何も聞かさずに突然出直してしまったので,私にはその機会は今でも喉から手が出るほどほしいです.もはやかなわないことですが.しかし,これも親神様の深き思惑あってのこと,この節がまた教会の,あるいは各々の成人につながったに違いありません.
生前は苦労を重ねた父ですが,その中にも喜びを見つけて通っていたことと思いますし,その父の苦労があったからこそ,今の家族や教会の姿があるのだとしたら,御霊となった父は,その苦労の先に楽しみを見つけられたのだろうなぁと思います.また「苦労は先の楽しみ」という言葉は何も一代にして顕れるものではないのかもしれません.縁やいんねんありて紡がれし家族や教会ですから,それは先の代に実を結ぶということもあることと思います.
中島みゆきの「命のリレー」という曲の一節にこんな歌詞があります.
「この一生だけでは辿り着けないとしても 命のバトン掴んで 願いを引き継いでゆけ」
まさにそのことを示唆しているように私には思え,私はそれを聴いたとき涙しました.(通勤中だったので浸ってるわけにもいきませんでしたが・・・.)
こちらにこの曲の歌詞をアップしておきますのでよかったらリンク先を見てください.
父の出直しも成るべくして成っていることだと思いますし,その哀しき出来事にも意味を見つけ心におさめていくことが信仰と思います.それがあって今があるのなら,それは必要なことだったのでしょう.人生にifはないのですから.今あるご守護に喜びを見つけていくことが肝要かと思います.
話がそれましたし,まとまりを欠いていますが,父について思うことを連想的に綴ってみました.
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月並みなことしか言えないですが、今のまおさんの姿を見て、お父様は満足されていると思います。出直されて、今目の前にはおられないけれど、この世に生きている者が忘れない限り、その人は生きていますよね。
自分がこんなにまおさんの記憶に残って、さらにまおさんが自分から教えまで得ているなんて…お父様は大満足だと思います。
私の両親はまだ健在なので、まおさんの教えを受けて、もっともっと両親、祖父母、家族との時間を大切にしようと思います。忘れがちなことを思い出させてくれてありがとう。
今は、今しかないですよね。