心理臨床とは他者への臨床心理学的な知識や技術を生かした実践活動であり,信仰とは一個人の特定の宗教観・人生観に基づいた実践活動(精神的・行動的)と言えると思います.前者は疑問を持ち続けること(why do you think so?)が基本的態度としてあり,後者は対象を信じ続けること(I keep on believing)が基本的態度としてあると思われます.
なぜならば,心理臨床の実践は対象者に対する「なぜそう感じるのだろう?なぜそう考えるのだろう?」というWhyの問いを向け続けるところから始まります.(もっともこのWhyは対象者の理解という志向性から発せられていますが.)このWhyなくして心理臨床は成り立たないと思います.心理臨床では対象者に常に最大限の関心が向けられますが,関心を向けるということは相手の考え,感じ方,行動に対して不思議だという疑問を持ち続けることだと思います.あまりに素直に対象者の話や体験を受け入れすぎると,「そうだよね,もっともだよね」で終わってしまい,対象者についてそれ以上知ることはできません.それは対象者の気付きを促す機会の提供にはつながらず,対象者の悩みの解決にはつながっていかない可能性があります.だから,心理臨床では疑問を持ち続けることが求められると私は思います.
一方,信仰とは,信仰対象―仮に親神様としましょう―を信じることに始まり,信じることに終わると言っても過言ではありません.信じることの経過で「なぜ自分にこういう事態を与えられたのか?」「なぜこう教えられたのか?」と親神様の思惑という次元に対してWhyの問いを抱くことはあっても,親神様の教えや言葉自体に疑問は向けられず,それ自体は絶対的真実であります.その事態を説明できる親神様の教えや言葉が見つかったなら,やがてああそうかと信じることにつながっていきます.これが基本であり,そこにあるのは疑問を抱くよりもそれを素直に信じ実践する心であると思います.その真実を親神様は喜んで受け取ってくださり,そして,状況が変わっていきます(ご守護と言ってもいいかもしれません).やがては解決につながっていくこともあるでしょう.
そのように考えると,一個人の信仰の実践と他者への心理臨床の実践とは心構えとして相反する性質をもっているのではないかと思うのです.疑問を持つことと信じること.信じる態度は信仰の上では非常に大切ですが,殊,心理臨床においてはそれよりも疑問を抱く態度が大切で対象者の役に立つのではないかと思うのです.
しかし,別の見方をすれば,信仰においてもただ盲目的に信じるよりは疑問を抱いては教理の研鑽(神意の理解)によってその疑問を解決し,ということを繰り返すことにより,より揺るぎない篤い信仰につながっていくともとれるので,信仰においても疑問を抱くことは大切なこととも思います.また,心理臨床においても疑問を抱いて対象者の話を聞くことによってその疑問を解決し,ということを繰り返すことにより対象者との信頼が確立されていくので,結局のところ,疑問の先に信じることがある,あるいは疑問を向けながらより揺るぎない信仰・信頼が培われていくのであって,両者の態度は相反するものでもないのかもしれません.
ふと信じることと疑問を持つことについて考えさせられる機会があったので,まとまりませんが,雑記的に今の段階で思うことを綴ってみました.正しい答えなんてないんでしょうけどね.
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