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お道と臨床と(1) 「
道の心理臨床家の集い 2009 in 天理 」の宮崎先生の講話では先生の生活史と心理臨床のつながりのような話がありました.非常に興味深く聞かせていただいたのですが,ここで先生個人のエピソードを語るわけにもいいきませんので,僭越ながら私の場合,お道と臨床はどう縁があったのかを綴ってみたいと思います.
まず,私自身信仰ということをいつ頃より意識し始めたのでしょうか.私は教会で生まれ育てていただいたので,お道と自分は切り離せないものでありました.幼少より親に教えられた通り,なんとなく信じていたという感じだっと思います.元々の性格がわりと強迫的なので,おぢばにいた高校・大学の頃は絶対に毎日1回は神殿に参拝に行くとか,神殿内では絶対に足を崩さないとか,寮時代に周りの友人がお道に反感を覚えている時期に頑なに神様を信じようとしていたような気がします.高3の秋頃に登殿参拝があったのですが,そのときは足がしびれてもなお正座を続け4時間足を崩すことをしなかったことを覚えています.ただ当時の姿勢を今思うと,心よりも形にこだわっていた時期だったかなと思います.
おぢばで住まわせていただいたときはあまり思いませんでしたが,おぢばを離れてからお道の組織面について色々疑問を抱え,おやさまが伝えたかった姿とは何だったんだろう?と考えるようになり,そこからが本当の意味で信仰とは何かということを考えるようになったのかと思います.おやさまが直接教えてくださった教え自体に疑問を抱えたことはありませんでしたが,おやさまが伝えてくださったことと今のお道の姿には相当な開きがあるんじゃないかという疑問の上に,自分自身が自身の信仰のあり方について考えるようになりました.また院生のときに父の出直しという節もあり,そのことも自分の信仰について考えるきっかけになっていると思います.
こうしておぢばを離れたことと,父の出直しの節ということがあって,私の信仰のあり方というのは少しずつ変わっていくことになります.ただ信じていたものが,自分でその根拠・理を聞き理解した上で信じるという過程をたどるようになります.そして,「親の思い」ということをよく考えるようになりました.親神様は何を望んでおられるのか,なぜ今この時にこういう状況を自分に与えるのか?など自分自身や家族,あるいはくらしの中の節々に見られることに対し,親心という視点を常に持つようになったと思います.そして,自分の行いや親への孝行ということが自分の先の人生のみならず先々つながっていく種になるということを真剣に考えるようになりました.この頃はもう私は社会人になっています.当ブログなどは私の信仰に対する姿勢を深めるのに十分な役割を今まで果たしてくれているように思います.かつての疑問はすべて解消されたわけではありませんが,大事なのは自分自身がどう神様と向き合うかであり,今の世上の姿,お道の姿もやがて変わっていくための1つの節でこの先いいように成っていくのかもしれないと思い,自分自身が原典に示される親の思いに応えていくことを目指してくらしています.
したがって,今現在,私にとって信仰とは生活の基盤であり,ある程度自分の意思決定や行動を動機づけるものとなっていると言えると思います(ある程度というのがミソです).人間思案がまだまだありますゆえ,その意思決定や行動選択が必ずしも神一条となっているかは疑問の余地が多くありますが.少なくとも私自身にとっては,人生を航海にたとえるところの羅針盤であり,夫婦や家族の羅針盤でもあると思います.また,自分自身を樹木にたとえるところの幹とでも言えるでしょうか.ありがたいことに,信仰が自分の基盤にあるということは言えそうです.
次回はまたそのうち.
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