9月20日の天理時報(第4148号)に婦人会に関する記事が載っています.
会創立の目的について橋本よ志ゑ氏は明治31年のおさしづに言及し,「互い互い談じ合い,諭し合いをして成人すること」,「義理や体裁にとらわれず互いに寄り集まって,教祖のひながたを研究し,また先輩の足取りを学んで,たすけ一条の道を歩む決意と,たすけ一条の精神を定めること」と話されたとあります.
原典の勉強をあまりしてない私には確実なことは言えませんが,そもそも教会の元ととなった「講」をおやさまがお許しになったのも,おそらくは互いに談じ合い,諭し合って成人していってほしいという思いがあったのではないかと思います.
今の私たちの教会の姿に談じ合いは存在しているでしょうか?互いに疑問を対等に主張できているでしょうか?原典にある親神様の思いに沿うようつとめさせていただくことがお道の信仰と私は思います.同時に神様を祀らせていただている教会も親神様の思いに沿うようにあるべきと思います.個人の信仰を親の思いに沿わせていただくためにも,教会のあり方を親の思いに近づけさせていただくためにも談じ合いは必要でしょう.教会を預かる立場の者は家族やお参りに来てくださる方たちと練り合い,談じ合いをすることがどこまでいっても大事なのだろうと思います.うちの教会も心がけていきたいです.
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私は養子で御命を受けて教会に行きました。実は昨年6月まで、たんのう出来ずに、我慢我慢を9年通って参りました。言うも涙、語るも涙な9年です。そんな中、昨年の7月、前生因縁の話と道について、ある冊子を読み、心底感服致しました。自分は親不孝でした。前生からの気分が出ていてはこんな事をご用で見せられる。人様を集めるにも、声をかけるから集まるんじゃない。道を通っていれば、自然となるだろう。ならないのは前生に於いて、わがままな気分、自分さえばよいとした気分がある。そこを切ってしまう。どこまでも道の心でとおる。因縁を切って徳に変えていけば、願わずとも成ってくる。こんな話でした。私はすっかり間違っていました。申し訳ありませんでした。道がわかりませんでした。子は親を孝行するのが道。子はそれをしないで道はない。全くお詫びでした。かんろだいへお勤めに行きました。それから、今までの穴埋めから始まり、徳積み、親に喜んで頂く努力をしようと覚悟を決めたのです。道は神。理は神とありますように、お勤めをして、すぐに、2年くらい前ににをいがけで知り合った方から電話がありました。私は全く忘れておりましたが、途中で思い出しまして、今日、体験したことをベースにお話をさせて頂いて、その場で、入信をされました。神様は鮮やかだと、身震いをしました。
それでも、時々、親を馬鹿にする心が出ては、朝夕、お勤めでお詫びしております。
不思議とそんな中を通る中に、神様が「お道」と仰った事が少し分かりました。
神様の世界ですから、受ける側の心が大事です。
長くなりました。