先日の増田正義先生の講話で印象に残った話を私の中で私の理解として綴っていきます。例によって一度私の中で咀嚼されていますので,先生の話そのままということは困難ですのでそのことを予め述べておきます。
これは「ほっ」にも載っていた話ですが,「他者は郵便配達員」であるという理解の仕方です。
私たちは親神様よりこの身体をお借りし,心の自由を与えられて日々を送っているわけですが,自由が与えられている心ですから,どんなふうに思うも,またどんなふうに考えるもその人の自由です。神様の喜ぶような心の遣い方,つまり皆が明るく喜べるようにこの心を遣わせてもらえればいいですが,実際はそれがままならないこともあります。相手に言われたことによっては腹が立つこともあるわけです。
そんなときには相手のことを郵便屋さんだと思うのです。手紙を配達してくれる郵便屋さんに私たちは手紙を持ってきてくれたことに感謝こそすれども,その手紙の内容がたとえ自分にとって不都合だったり,腹の立つ内容であったとしても,郵便屋さんに怒りを向けることはないと思います。これと同様に,私たちの気に障るようなことを言ってくる人も神様からのお手紙を運んでくれる郵便屋さんだと思えば,郵便屋さんはただ神様からの手紙を配達しにきただけです。一刻は腹を立ててしまうかもしれませんが,後で思い直すことができます。言われたくない人から言われるから余計に腹が立つのでしょうが,あくまでもその人は皆神様からのお手紙を運んでくれる人で,たまたま配達人がその人だったのです。
この話を知っているか知らないかだけでも私は人生の質が変わってくるのではないかと思います。なぜなら,知らずにいてはこの考えに至る可能性は低いからです。知っていればいつそう思えるか分かりません。
増田先生のこのお話はより一般向けの話ですが,私は前にある会長さんから,「相手の肩の上に赤い着物を来たおばあさん(おやさま)が座っていて,相手にそうさせているのだから,心配はいらない。君が心をしっかり定めていれば必ず乗り越えられる」というようなことを言われて,大層心強かったことを覚えています。おやさまが私の成人のためにしてくださっていると思うことで,苦労もありがたく感じます。これが信仰の力かもしれません。
この人生において成ってくることは,皆神様の深い思惑があって起こってくることと聞かせていただいています。そして,喜んで受け取ったならば,それは親神様の喜ばれる天に届く理となるのですから,喜んで受け取りたいものですね。それが,先々の喜びの種になります。
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