今夏の
道の心理臨床家の集いを迎えるにあたって考えていたお道と心理臨床について,今の自分が考えることを綴ります.だめの教えと対人援助の学問ですから,そもそも異なるのですが,互いに活用できる部分もあると思います.今回は異同について書いてみたいと思います.また,これは今の私自身が考えることで今後いかようにも変わってくるものでもあります.
まず,重なる点を2点先に挙げておきます.1つ目は人の援助に活かせるということ.2つ目は自分が上手く生きるために活かせるものであるということです.しかし,世の中の道理・真理を説いているのがお道の教えであり,一方,心理臨床学は人間の心を研究する一学問でありますが,つきつめればこの世界に見せていただいているものはすべて親神様からのかりものと考えられますので,お道の教えの実践に生かすために親神様のお与えくださったものという点ではそもそも区別されます.
続いて,異なる点を挙げていきますと今思いつく限りは4点ほどあると思います.1つ目は基本的枠組み,2つ目はモデル,3つ目はライフサイクル,4つ目は援助などのあり方です.
お道は全人類の陽気ぐらしによる救済を目的としていて,自分自分が対象ではなく基本はすべての人々であり,すべての人が仲良く陽気にくらすために自分がどうあるかという「全ありての個」という捉え方があります.その一方で,心理臨床の理論は基本的には個についてを扱っていることが多く,個が適応するために全との関係を扱うことはありますが,あくまでも個が充実するための全であり,これが全が充実するための個というお道とベクトルがまったく異なる点ではないかと思います.つまり,お道は皆の陽気ぐらし実現のために個々が存在しているというのが基本的な枠組みであり,心理臨床は個の自己実現のために全との関係をどのように生かしていくかというのが基本的な枠組みであるように思います.
個のあり方についても決定的な違いがあり,お道には陽気ぐらしの雛型としてのおやさま50年の道すがらが示されていて,個が何を目指せばいいのかの道がはっきりと共通のモデルとして示されています.それに対して,心理臨床にはこうした雛型はなく,個が自己実現のために必要に応じてモデルを探していくということがあるように思います.人間の真にあるべき姿,陽気ぐらしを導く心のあり方が雛型がない分,心理臨床は自由度は高いと言えるかもしれませんが,親神様が望まれる生き方にたどり着くのは容易ではありません.
また,お道は天然自然の理の教えであり,出直しの教理をはじめとした,一代に限らない命の連鎖を説いているため,ライフサイクルは一代で完結するわけではありません.個は先祖代々続く命の連鎖,自身の生まれ変わり出変わりの魂の連鎖の中に位置づけられ,人生の何時でも次の人生,次の世代へつないでいくというライフサイクル論から生への強い動機付けを得ることができます.一方,心理臨床一般の理論はこうした概念がなく,ライフサイクルとして1人1人の人生を対象とします.個は必ずしも連鎖の中で存在するわけではありません.この点が異なります.
援助に対しても,お道のおたすけの目指すところは心だすけ(身上・事情だすけも含む),長期的には信仰によって身上・事情の根を切るということが目的としてあるかと思います.当面の問題が解決してもいのちの切り替えのために丹精し,関わり続けることになります.したがって,お道の教理は当事者の人生に大きな影響を及ぼします.一方,心理臨床は目指すところは主訴の解決(適応の改善,症状の緩和・改善など)であり,長期的にはパーソナリティの変容などの課題に取り組むこともありますが,職業的役割関係の中での援助であるため,主訴が解決すれば一般に関係は終わりになります.人生における一時的な関わりとなりますが,やはり大きな影響力を持つとは思います.しかし,当事者の主訴の解決は必ずしも親神様の思いに沿うわけではないという点があります.天の理に明らかに沿っていないと思われてもそれが本人にとっての解決であるならそれでよしとする,ある意味それが職業的役割関係の限界なのかもしれませんが.
もっとたくさんあるのでしょう.ざっと書きましたが,以上がお道と心理臨床の異同について今の私が考えるところです.どちらの経験も未熟ながら最近思うことがあります.それは,心理臨床でも何でも援助によって人の適応や問題は解決したり,上手に生きられたりするようにはなるが,元にあるいんねんの根,身上・事情の根を切ることは天の理に沿ってこの心と身体を使わせていただき,おつとめによる命の切り替えをしていくことによってしかなし得ないのではないかということです.(もっともこれは私が本当に未熟がゆえになしえないのかもしれませんが.)
なぜなら,ここもまた未熟さ全開なのですが,おやさまがおつとめで命の切り替えをしていくということを教えてくださったからです.おふでさきには
このつとめなんの事やとをもている よろづたすけのもよふばかりを(02.009)
とのよふなむつかしくなるやまいでも つとめ一ぢよてみなたすかるで(10.020)
このみちがたしかみゑたる事ならば やまいのねゑわきれてしまうで(04.094)
しやんせよやまいとゆうてさらになし 神のみちをせいけんなるぞや(03.138)
など,おつとめややまいについて色々な言及があり,おつとめをしっかりつとめ,親神様の思いに沿ってこの道を通るならば,どんな病でもたすかり,病の根は切れると教えてくださっています.そもそもこの病さえ,親神様が皆が陽気に通るための道を教えてくださっているお手紙なのですから,元の親である親神様の示される通り通らせていただけば根が切れるのも了解できます.親神様は人間が憎くて身上・事情をくださるのではありませんからね.子どもかわいい親心からなんとか互いにたすけ合える心になってほしいと思って道教せしてくださるわけです.そういうわけで,適応をはかるなら心理臨床の援助でも可能ですが,元の根を切るにはお道の信仰とおつとめが大事なのだろうと私は思うのです.
関連記事になります.
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お道と臨床と(1) ⇒
お道と臨床と(2) ⇒
お道と臨床と(3)
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私は「天理教の教会長は教養としてみなさん臨床心理学を勉強しておくべきだ!」と考えていますし、逆にユングの心理学などは宗教的な要素がいっぱいだし、まおさんみたいに心理臨床に携わる方々のスタンスにおいて、なんらかの全人格的精神的“骨・柱・芯”は絶対必要でしょうから、それがおやさまの教えであれば最高だと思います。少なくとも私はそれを理想としているつもりですが…。(^_-)-☆
よって将来、「天理教型のカウンセリング」なんてのが流行っても良い訳で…f^_^;。頭の硬い教会本部が許さないとは思いますが…。
いずれにしても、「人だすけ」「人間支援?」を目的に頑張る人達としては共通?でしょうし、そこに「ぢば」と「おつとめ」が外れなければ、それはどんな立場にあろうが“お道”であり、親神様の“よふぼく”なんだと私は思いますね。これからの“よふぼく”は、もっともっといろいろな社会の重要なポストで活躍していってしかるべきだと私は思いますし、「一新興宗教団体」で扱われるような、狭い世界にのみいてる必要はないと断然考えます。世界は親神様からの“かしもの・かりもの”なのでしょうから。もちろん「ぢば」の“神聖性”は死守されるべきでしょうが!
「ひのきしん」は「ボランティア」とは違う!などと偉そうに言ってる前にf^_^;、「今、目の前で困っている人のために最善をつくせ!」だと考えます。