「教会と信仰」と題して,第54回青年求道者講習会の講義録があらきとうりょう238号に載っていました.気になる点があったので若干引用します.
やはり,おつくしをしなければ,たすけていただくことはできません.これは理屈ではありません.おつくしを一生懸命することで,神様の御恩も分かってくるのです.
(中略)
「おつくしは,嘘偽りのない真実や」と.身上などのふしに際して,私たちはよく,「これからは絶対不足しません」「これからは主人を立てます」「低い優しい心で通ります」「低い優しい心で通ります」などと心を定めます.しかし,こうした心定めは,神様に約束手形を出したようなもので,往々にして不渡りになります.ところが,おつくしはいくら惜しみの心があっても,形のあるものを出しますから,うそではありません.ふしに際しては,まずおつくしをすることです.おつくしをすることで,理立てとなり,自分が定めた心定めも実行できるようになっていくのです.
(中略)
おつくしをしてもらわなかったら,徳を積んでいただけませんし,信仰も切れてしまいます.
ここで言うおつくしとは「形のあるもの」と書いてますので,文脈的に所謂お供え(つまり物や金)のことを指しているのだろうと最初読んだ感じでは思いましたが,そう解釈すると親神様・おやさまの思いとは異なると思いますので,そう限定して捉えない方が親神様の思いに沿うでしょうし,理に適っていると思います.私の第一印象同様間違って理解する人がいるといけないので思うところを綴ります.
おつくしの本来の意味は「真実の心」を尽くすことであると思います.親神様への日々の感謝を込めて,また,たすけてもらいたい一心から,互いに仲良くたすけあう姿を見たいという親神様の思いに適うよう「人のために」「真実の心」を尽くすことがおつくしであり,その手段として金銭や物,時間,労働力などがあるわけです.それぞれの立場・状況が違うように,手段にもできるものとできないものがあり,尽くし方もそれぞれ異なるわけで,おつくしとは必ずしも金品のことを指すのではありません.大事なのは当事者が心を尽くして自分の精一杯のことをさせていただくことであります.惜しんでするようでは神様は喜ばれません.真実の心を親神様は何よりも喜ばれます.それは以下のおさしづからもうかがえます.
さあ頼もしい/\心供えば受け取る/\。泣く/\するようでは神が受け取れん。百万の物持って来るよりも、一厘の心受け取る。(明治35.7.20)
そして,尽くした分は受け取り働いてくださいます.逸話篇においても繰り返し「神の方には倍の力」ということで教えてくださっていますし,同様逸話篇に以下のお言葉もあります.
「そっちで力をゆるめたら,神も力をゆるめる.そっちで力を入れたら,神も力を入れるのやで.この事は,今だけの事やない程に.」(174 そっちで力をゆるめたら)
ここで比喩的におやさまが伝えていることは先述した人のために力・心を尽くすということでしょう.尽くした分は神様も力を入れて働いてくださるのですから,各人の置かれた立場・状況から精一杯のおつくしとして人のために心を尽くすことは大事です.ですから,おつくし=真実の心を尽くすことであり,おつくし=金品ではありませんし,そのような伝え方をしてはいけないと私は思います.
続きは以下をお読みください.
⇒
おつくしの意味(2)
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