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おつくしの意味(1)前回,おつくし=金品ではないという話をしました.
逸話篇においても,おやさまはご恩返しの手段としては金品よりも人だすけをさせていただくことの重要性を説かれています.ここでいうご恩返しとは真実の心を尽くすということでしょうから,おつくしと同義として捉えて差し支えないと思われます.
「金や物でないで.救けてもらい嬉しいと思うなら,その喜びで,救けてほしいと願う人を救けに行く事が,一番の御恩返しやから,しっかりおたすけするように.」(72 救かる身やもの)
しかし,一方で逸話篇にあるように,おやさまは「金銭は二の切り」とも教えられ,大難小難の理とし金銭を惜しまず施すことの重要性を説かれています.欲を離れて各人の真実の心でもって「おつくし」の手段として金品のお供えをさせていただくことも大事なことなのでしょう.
「命あっての物種と言うてある.身上がもとや.金銭は二の切りや.今,火事やと言うたら,出せるだけは出しもしようが,身上の焼けるのも構わず出す人は,ありゃせん.大水やと言うても,その通り.盗人が入っても,命が大事やから,惜しいと思う金でも,皆出してやりますやろ.
悩むところも,同じ事や.早く,二の切りを惜しまずに施しして,身上を救からにゃならん.それに,惜しい心が強いというは,ちょうど,焼け死ぬのもいとわず,金を出しているようなものや.惜しいと思う金銭・宝残りて,身を捨てる.これ,心通りやろ.そこで,二の切りを以て身の難救かったら,これが,大難小難という理やで.よう聞き分けよ.」(178 身上がもとや)
これまでの話を整理するに,「おつくし」とは先述したように人のために真実の心を尽くすことであり,その手段としての尽くし方は様々であります.殊,身上・事情のたすけの願いに関しては二の切としての金銭の施しは大難小難の理という重要な意味を持つと同時に,親神様の望まれる人だすけ―人のために心を尽くすことが大切であります.一方,親神様への「報恩感謝」に対しては金銭よりもむしろ人だすけ―人のために心を尽くすことが大切であると言えるでしょう.そして,願いであっても感謝であっても人のために心を尽くすことが大切という点は共通していますし,そもそもこの教えは感謝ありき,常に注がれている親神様のご守護に感謝するところから始まりますから,たすけを願う場合であっても,まず現状与わっているご守護に感謝を捧げることが先行します.その上での願いです.つまり,願いには自ずと感謝が含まれてくるのです.このように考えると,二の切の金銭のおつくしも大切でしょうが,それ以上に,金銭に限らず人のために心を尽くすことが最も大切であるということが理解できると思います.
繰り返しになりますが「おつくし」とは人のために真実の心を尽くすことであります.その肝心要は心のあり用です.心ゆえ無形であります.親神様がちゃんと見ていて,天の帳面につけてありますからおつくしの形にこだわる必要はないのだと思います.この道は教えを聞くことで心が勇めないといかんです.人によって立場・状況は変わりますから,その人が勇めるよう「おつくし」の意味を伝えたいものです.
この道を伝える者が「おつくし」の意味を勘違いしてしまうと,せっかくの素晴らしい教えが世間から誤解される恐れがあります.おやさまの教えは間違いのないものであるだけに,そうした誤解が起こらないよう私たち教えを継ぎ伝える者は神意を人間思案からではなく,神一条に思案する必要があると思います.どうあれば親神様・おやさまはお喜びになるか,その元は神意が説かれている「みかぐらうた」「おふでさき」「おさしづ」の三原典に発します.加えて天理教教祖伝や逸話篇を親神様・おやさまの思いを知るのに参照することは大切でしょう.人が言ったことをそのまま鵜呑みにするだけでなく,それが神意に沿うかどうかを常に考える姿勢を持つことが大切だと思いました.(切に感じながらも私自身も勉強が足りませんのでこれは自分に対する戒めでもあります.)もっとも,それを経ても我が身かわいさから人間思案が混じるのが人間ですから,互いに談じ合い,神意を求めていくことが大切なのだと思います.
おさしづに以下の一節があります.
「互い/\知らし合い,互い/\の研究諭し合い道という」(明治24.11.25)
青年求道者講習会の講義録とのことですので,私を含めてこれから道を求めていく人たちがこの講義録を読んで何かを学ぶ際に,親神様の思いに沿わない間違った解釈をしてしまっては申し訳ありませんので,至らないながら私の考えるところで述べさせていただきました.これは今の私が考えるところでありますが,今後原典を知るにしたがって変わっていく可能性もあります.これが正しいかどうかはおやさまの道すがら,原典で繰り返し述べられているをやの思いと照らし合わせれて判断していただければと思います.
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(1)にありました引用文の中の
「心定めが実行されない場合が多い、おつくしは惜しみ心があっても形のものを出すからたすけていただける」
これは、誤解されやすい文章ではないかと思います。
まず心定めを実行できるように談じ合い諭す、励ますなどが
先で、言葉は悪いですが手っ取り早く[形]で誠意をみせなさい、みたいに感じます。
それに神様は必ず心通りのご守護を下さりますから
「惜しみ心があっても・・・」
惜しみ心も必ず受け取ってくださりますよね。
その点も注意しなければならないです。
不勉強で申し訳ないですが、「おつくし」という教語は
どこから生まれたのでしょうか?
私は「おかきさげ」だと思うのですが、ご存知でしたら
教えてください。「おかきさげ」の「運ぶという,尽すという。運ぶ尽す中に,互い扶け合いという。」このあたりだと思うのですが、そうだとしたら「互いに」とあります。
今一般に「おつくし」と言われているものとは
程遠いと思うのですがどうでしょうか?
それと、天理と刻限サイトにこんなページがあったのでURLを張ろうと思ったのですが
直接そのページに行けないようなので。ニュースレターの2002・10.15 「教会の過去と現在」です。
こちらを読んでなるほど、と思いましたので、よければ参考になさってください。