宗教を信じる人は心の弱い人間か?
答えは"否"です.何かに頼らなければ生きていけない人間の弱さが作り出したものであるというようなことは信仰をもたない人がたまに口にすることではないかと思います.しかしそれは真実ではないと私は思います.
よく考えてみてください.信仰とは目には見えないもの,神という実体のない存在,そしてその働きを疑いもせずに信じるということです.これは何を意味するのでしょうか.
目に見えるものを信じることはそう難しくはありません.川に橋がかかっていれば,私達はその橋をためらいもなく渡るでしょう.青信号で一時停止することなく交差店を直進することができるのは,目に見える青信号の意味を理解して信じているからです.仮に青信号が信じられなくなって何回も左右を確かめてからでないと渡れないとなると精神的に不穏になってきていると言えるかもしれません.
目に見えるものが信じられないときには,不安が高まっていたり,飛躍した考えをもっていたり,考え方が偏りすぎていたりといった状態になっていることが考えられます.相手の態度は変わっていないのに自分のちょっとした振舞いのせいで嫌われたのでは?と心配になってしまったという経験がある人は意外と多いと思います.一般に私達は目に見えるものをそれなりに信じて生活していますが,それでも私達は目に見えるものを信じられなくなることがあるのです.
反対に,目が見えないとしたら私達は何を便りに生活していくでしょうか.私自身は結構に目が見えるご守護をいただいておりますので憶測にすぎないのですが,まず聴覚や触覚,嗅覚など他の感覚を便りにするでしょう.視覚を補償するかのごとく他の感覚が一般よりも優れていると思います.それに加えて介護者や手を差し伸べてくれる人がいるのであれば,暗闇の中,その人に自らの身を委ねるかもしれません.そこに本当にその人がいるかどうか,感じ取ることはできるかもしれませんが,確証はないのです.これを信じることにどれだけの精神力が必要でしょうか.おそらく目に見えるものを信じる以上に膨大なエネルギーが必要なはずです.これは人を信じることも同様です.信頼感とは費やした精神的エネルギーの上に成り立つものです.赤ちゃんなら母親が費やしたエネルギーと赤ちゃんがそれに応えるエネルギーの相乗効果で基本的信頼感と呼ばれるものが成り立つものですし,友人,恋人の信頼関係もお互いを理解するために長い時間とエネルギーを費やしていることと思います.
ここで最初のテーマに戻りますが,信仰とは神という超越的な存在を信じ続けることです.それは実体のない存在を感じ信じること,見えない働きを信じること,目に見えることが全てではないと信じること,そして,それを何時も信じ続けることです.おそらく膨大なエネルギーが必要なのではないかと思います.どんな道であっても成ってきた人生に神の思惑があることを信じてやまない.たとえ苦労の道中にも,私達人間をご守護くださり,苦労を節として成長させてくださっていると信じ通せること,これが心の弱い,あるいは精神力のない人にできるでしょうか.いや,できないに違いありません.
目に見えるものしか信じられない,それこそ哀しいことで心の弱さの反映なのではないかと私は思います.ですから,あなた自身に信仰があるのなら,心の拠り所であると同時に,自分には信じ続ける強い精神力があるということを忘れないでください.それから,信心がないのでしたら,超越的な存在を感じる努力をしてみてください.また,それに代わる信念を持ってください.
心理学者のオールポートが「個人と宗教」という著書で興味深いことを書いています.岩波書店出版です.訳書も1953年のため,絶版かもしれませんが,ネットオークションで出品されていることもあります.興味があれば是非読んでください.
神を信じること,それは心の強さです.
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