信心と信仰の違いって何だろうと最近考えています.
原典に「信仰」という言葉はおさしづに「信心信仰」という表現で一度だけ,一方,「信心」はみかぐらうたに6回,おさしづには34回出てきます.逸話篇を見てもおやさまのお言葉で信仰という表現はありません.皆「信心」となっています.
このことから考えて,親神様の求められるものは信仰ではなく,信心ということが考えられるのではないかと思います.大辞林には次のようにあります.
「信仰」は宗教的なものを信じ尊ぶ自覚的な態度をいう.それに対して「信心」は加護を願って一心に神仏やその教えを信じる心をいう.
おやさまご在世当時は宗教として教えがあったわけではなかったから単に信心という表現だったのかもしれませんが,それだけではないように思います.漢字で見れば違いは「仰」か「心」かの違いです.神人和楽の世界,かしもの・かりものの理により心一つが我の理という真理,などから考えると,親神様の思いとしては親神様を見上げて尊敬するという人と神との間に絶対的な距離と上下関係を生む「仰」よりは,親神様の教えを心におさめ人をたすける心に成人させていただく,言わば神の心に自らの心を近づけていく努力を続けていくという意味合いでの「心」の方にあるのではないかと思うわけです.私という人間の身体にはすでに親神様の十全のお働きがあり,親神様と共にあるわけですから,神と「仰ぐ」姿勢よりも体内での親神様の働きに応えるべく「心」を親神様の思いに近づける姿勢の方が大切なのではないかと.後者の方が神人和楽な気がしますし.
これは私の推測に過ぎませんが,神言としてなぜ信仰ではなく信心なのかということの意味は考えてみると非常に奥が深いのではないかと思います.何かこれに関して話を聞いたことがあればコメントいただけるとありがたいです.
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