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神のご守護も受け取り方次第(1)繰り返し述べることですが,身の回りに起こってくることは神様からのお手紙であると思わせていただいております.そのときそのときの必要に応じて,かわいい子どもの心の成人を期待されての節を与えてくださり,そこから自分自身の信仰・悟りの振り返り,心遣いの振り返りを通して自分の心と身体を人のために使うことを学んでいき,その中に喜びや感謝を見つけていくことで心が成長し,ご守護いただけることがあるわけです.しかしながら,その道を歩んで,完全なご守護をいただけることが篤い信仰なわけでもなく,信仰が足りないからご守護がいただけないわけでもありません.そんな人間の尺度で測ることのできる相対的なものではないと私は思いますし,そもそも常に親神様に感謝すべきことは存在すると思います.つまりは,鮮やかなご守護だけが神様のご守護というわけではないということです.父が生前おさづけを取り次ぐ際によく言っていたことで,当ブログでも幾度か述べていることですが,「鮮やかなご守護をいただけることもあるし,薄紙を剥ぐように少しずつご守護をいただくこともある.ただどちらも神様のご守護であるから,喜んで通るように」と.この父の言葉は深い意味をもっています.
つまりはどんなときでも,どんな状態でも感謝すべきご守護があるということです.もう少し言うと,たとえ状況が変わらないように思えても,そこにはそれ以上に悪くなっていないというご守護が,さらに言うと,たとえ状況が悪くなっているように思えても,そこにはなおその進行を遅らせてもらっているというご守護があるかもしれません.このように書くと,では最悪の状態の場合,どこにご守護があるのだと思う方もいるでしょう.
私の父も急性心筋梗塞の突然死でしたから考えました.どこに親神様のご守護があるのだろうと.父は太く短く生きたいと生前言っていたようなので,病の床に長期間臥しての出直しよりは長く苦しむことなく出直しを迎えられたことがご守護だったのかもしれません.たとえば,生きたかったのにその思いが叶えられずに出直した人がいたにしろ,本来ならばもっと早く出直していたのを少し生きながらえさせていただいたのかもしれません.
つまりは,受け止め方,心へのおさめ方によっていかようにも感謝や喜びを感じられる道はあるということだと私は理解しています.そして,そのような心を培っていくことこそお道の信仰における個体内の心の成長かと思います.(個体間とすると人だすけの心などより色々なものが必要になってくるかと思います.)
お道は病だすけの教えではなく,心だすけの教えだと私は思います.今置かれている状況に喜べる心を培っていくための信仰であると理解しています(もちろん中には理解しがたいこと,変えていかねばならないこともあります).病気だってしますし,死にもします.ただその中に神様が私たちの心の成人を期待されての何らかのメッセージがあり,それに気がついて心に修めていくことで人間としての成長を遂げることができるのだと思います.そのメッセージは私たち個人や家族のその時々の節目や状況に合わせて必要な身上・事情として伝えられるので,時には八方塞と感じたり,無理難題に思えることもあると思います.しかし,その中に成人への道があるのだと思います.
お道は素晴らしいと改めて思わせていただきました.
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