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父の友人の身上7日の晩におぢばへと出発した私は,8日の朝,奈良駅へと着きました.そして,天理方面の電車を待っていると会長よりおじの心停止の連絡があり,次いで次弟より出直したとの報告を受けました.あまりにもあっさりと(そう私には感じられました)訪れた出直し.残念で仕方がありませんでした.そして,なぜこんなにもいい人が,まだまだ多くの役目を残した人がなぜ・・・という疑問を持たずにはいられませんでした.しかし,父のように突然死ではなく,数日間命を延ばしていただいて,その間に家族が集い,語り,まとまったのだとしたら,それもご守護でしょうし,何ヶ月も意識不明の状態になるところを早く迎えとりいただいたのだとしたら,それもご守護だと思います.何がご守護かは人間には計り知れませんし,それらは受け取りようなのですが,それでも悲しみは悲しみとして訪れます.この日,会長は病院に行き,御霊遷をして帰ってから合祀したと聞きました.
後日,通夜には会長と私と末弟が,告別式には会長と次弟が参列させていただきました.いい顔で眠っていました.おさづけを取り次がせていただいた人の死に顔は皆安らかだと聞きますが,本当に安らかな顔でした.
長兄のおじは,教会設立当初より教会に通いいただき,私の誕生より今まで私を含めた私たち兄弟の成長を楽しみにしていてくれ,私の結婚や教会継承についても楽しそうに話をしてくれていた人でした.父の親友だけあって,父の出直し後も参拝に来るといつも父の話や彼の実兄とうちの長兄にまつわる話をしてくれました.彼を通して父の在りし日の姿を描き,懐かしい気持ちになることもありました.父をよく知る人だっただけにより残念でなりません.先月の祭典で久しぶりに飲んでいき,来月も来ますと言ってニコニコして帰ったのに,それはもうかなわぬこととなりました.先日の月次祭では会長が祭典後改めて皆に報告しました.また残念に思いました.これから先,父がそうであるように何度もいないことを残念に思うときは来るでしょう.
しかし,折に触れて,「おじさんがいたら~だったろうに」という話を私たちが繰り返すことがその生かされてきた人生を,魂を,色あせさせずに保つことにつながるのだと思います.実存分析のV.フランクルの言葉ですが,「過去は失われて二度と取り戻せないのではなく,保存されて二度と失われない」のです.彼が生きてきた証は失われることなく,私たちの記憶に残るでしょう.共に生きてきた身体は神様にお返ししましたが,その魂は御霊はとして教会に祀らせていただきましたので,これからは父と共に私たちと教会の成長を見届けてくれることと思います.同時に,彼が残した家族のこともきっと見守っているでしょう.
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今生かされていること、その御守護を実感すると、かかわる人との出会いをもっと大事にしたい思えてきますよね。
出直されたおじさんのご冥福をお祈りいたします。またおたすけにいかれたまおさんもご苦労様でした。