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お道と臨床と~心づくりのたね~

お道(天理教)と臨床心理学の視点を含めて,まおという人間が考える日々の通り方や考え方について綴っています.日記風なこともわりとあります.

宗教は入るものではない 

よく「宗教に入る」という表現を用いる人がいます.私はこの表現に違和感を覚えずにはいられません.

本質的な意味での宗教とは,超越的な存在との関係において,あらゆる事象に究極的意味を与え,救済しうる,ある特定の価値観に基づいた信念体系であり,それを信仰として個人の人生ないしは生活において実践するものと思います.宗教という概念には儀礼と組織も含んで捉えられる場合が多いですが,最も重要なのは信念であります.

信仰の実践とは,言わばその宗教のもつ価値観が個人のパーソナリティに内在化し,個人が意思決定や行動選択をする際に,その信念に基づいて一貫した言動を導くことですから,「宗教に入る」という表現は適切ではありません.むしろ,「宗教が個人に入る」わけです.個人が宗教を自身の生き方の指針として,人生のよすがとして,自己に取り込むわけです.

「宗教に入る」と言うと個人が宗教に取り込まれる形となり,それこそ教団という組織的イメージの側面ばかりが強調され,その教団に隷属するという誤解を生みかねません.世間でこうした「宗教に入る」という表現がよく使われていることには,1つには宗教が本来,人間救済のための人間の生き方を方向づける「信念体系」であるという観念的側面よりも「宗教団体」としての組織的側面のイメージが浸透しているということがあるように思います.会員や年会費という概念が存在する教団もありますので,そのような側面が強調されてしまうのも無理のない話なのですが,本来はそういうものではないと私は思います.

このような組織的側面のイメージの浸透が生じる背景には,その宗教を信奉する指導的な立場にある者が,純粋なる教理の流布という観念的側面の伝達よりも信者数の確保,拡大といった組織的側面に固執している場合があるということもあるのではないかと私は思っています.

布教とは「教えを布く」,つまり「教えを広く行き渡らせる」ことであり,世の人々に素晴らしい生き方・考え方があることを広く知っていただくことだと思います.それは先述した観念的側面の流布であり,決して組織的側面の拡大ではありません.観念的側面の流布の結果として組織的側面の拡大が達成されるのであればよいのですが,もし,後者のみに固執した場合,それは単なる団体活動への勧誘となる可能性があると私は思います.そして,誘う方も誘われる方にもこのような意識が漫然とあることが,「宗教に入る」という言葉が多用されていることの要因ではないかと私は思っています.

宗教を信奉する者が目指すのは根本的には自分自身が素晴らしいと思うことを他者にも知っていただくことであり,引き入れることではなく,行き渡らせることだと私は思います.その点,お道の「にをいがけ」という言葉は的を得ていると思います.においとは自然と広がって良くも悪くも他者の関心をひくもの,言わば自然と行き渡るものです.屋台の焼鳥など意図的に仰いで客を引き入れることにも使えますが,本来は空気の流れと共に自然と伝わっていくものと思います.

特に,おやさまが自らひながたをお示しくださった「お道」は,現代社会では「天理教」という宗教法人として認可されていますが,おやさまが天理教という教団を作ったのではありません.おやさまはただ親神様の皆が仲良く助け合う陽気ぐらしという教えを私たち人間に伝えたかっただけだと私は思います.お道だけでなく,素晴らしい教えを説いた開祖は組織の拡大や維持よりもただ教えを行き渡らせたいという思い一筋だったことと思います.そのことを信仰者は忘れてはならないと思うのです.

したがって,私自身は「天理教に入っている」わけではなく,お道の教えを自らの生きるよすがとして取り入れ(至らないながらも)実践させていただきたいと思って日々を過ごさせていただいているわけですから,「私には天理教が入っている」―お道が入っている―お道が染み入るという表現の方が自己感覚に合うわけです.(染み方はまったく足りませんが….)皆さんはいかがでしょうか?

自分自身が「宗教に入っている」と思っている方は自らに「宗教が入っている」と感じられるように,これからの方は「宗教に入る」のではなく,自身に「宗教が入る」ように,それぞれ成長できるといいのではないかと思います.また,「宗教に入る」という表現を使っている方は,これからはその表現を改めてみてはいかがでしょうか?宗教は「入る」ものではなく,宗教の方が「入る」,つまり自らに「入れる」ものです.


宗教に関する関連記事です.是非閲覧ください.
信仰の本質~宗教というラベリングの影響
人をして宗教を知るということ(1)
人をして宗教を知るということ(2)
人をして宗教を知るということ(3)
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まおさんの言いたいことは良~く分かりますよ!(^0^)/
“末端教会?”で、純粋に信仰したい方々はえてしてそう考えておられるのではないでしょうか!私もその一人ですが。(^0^)/
「オウム事件」以降、こうした思いを強く意識された方はたくさんおられることでしょう。日本人の「宗教団体」というものに対する捉え方が大きく変わりました。(宗教=洗脳みたいな!(+_+))
それから宗教法人「天理教」という組織自体にも、本来の「信仰の本質」よりも「大教会」とか「上級」とか、組織の形態に囚われる信仰が大きくはびこっています。(それが“まとも”だとしか考えられない方々があまりにも多すぎます。(T_T))
親神様・おやさまの御教えを自らの人生において実践し、それが“にをい”という、ごくごく“天然自然”な形で広まっていくのが理想であることは間違いないことでしょう!
私達は「宗教法人・天理教」という「宗教団体」に所属しているのでしょうが(私はこれを見直す時期が来ていると思っています!個人の純粋な信仰がもっとメインに出来る、フラットな組織形態にしていった方が望ましいでしょう!まして“上級の会長”を「現人神(あらひとがみ)」にするべきではありません!そんなことは教えられていません!恩を忘れることとは違いますが。)、それに囚われること以上に、「純粋に信仰の喜び」を個々に培っていけたらそれで良いのではないかと思います!それでいいんじゃないかと。(^0^)/ 
いちいち「宗教に入る」と思っている人達の価値観まで、否定も出来ないでしょう。それも「信教の自由」なのですから。^_^;
[ 2008/05/01 01:03 ] [ 編集 ]
とても大切なことを考えさせてくださり、ありがとうございます。大いに感じることがあります。

金光教には、「信心はするのではなく、信心になるのだ」という考え方があります。

もうひとつ、「蔵・修・息・遊」という言葉を教えて頂いたことがあります。

「蔵」 頭という「藏」に御教えを入れる。覚えるということです。

「修」 その御教えを、体、心、生活でもって修める。

「息」 息の差引を意識することがないのと同じように、ごく当たり前に御教えを実践することができている。
このあたりで「信心になっている」と言えるのかも知れません。

「遊」 御教えの実践する生活、そういういのちのありようが楽しくて仕方がない、という状態です。

金光教祖の教えに、「神様を信ずる者は、何をするにしても遊ばせていただくのである。広前の奉仕で遊ばせていただき、商売でも農業でも遊ばせていただいているのである。みな天地の間に、うれしく、ありがたく遊ばせていただいているのである」とあります。

わたしの「うれしく たのしく ありがたく」もここから頂いております。

「宗教に入る」のではなく、「宗教が入る」。
それであってこそ、このようにブログでの交換(交歓)もできますよね。

[ 2008/05/01 01:19 ] [ 編集 ]
未信仰だった時代
信仰という言葉にすごいおもみを感じていました
神様は信じているけど
組織に所属していないと信者ではないのか?ということも考えました
神様を信じることと組織の成員になることは違うけど
組織の成員だとしても神様を信じていない人がいると
宗教に入るということばがでてしまうのかなぁ・・・・
[ 2008/05/01 07:18 ] [ 編集 ]
>IZAMUさん
おっしゃるとおり宗教に対する偏見はかなり強くあるように思います.お道の中にもがっかりするような教会もあります.はてなダイアリーのお道の解説はひどいものです.受け取り方の問題もあるのでしょうが,そういう経験をさせてしまう教会があるのが残念でなりません.自分自身がそうならないように信仰の意味を常々考えていきたいと思います.支持的なコメントをありがとうございました.

>西川さん
「なる」というと「そのものになる」というニュアンスがあるので,より高次の心に達するという意味合いがあるのでしょうか.そのことを遊ぶ―楽しく喜べるのであれば,それはとても素晴らしいですね.ブログタイトルにもそのような意味が意味が込められていたのですね.

>はなまるさん
所属するだけなら誰でもできます.自己に取り入れて実践することが信仰するということだと思います.だから難しい.けどその先に成人があると思います.
[ 2008/05/02 08:37 ] [ 編集 ]
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