宮崎先生のお話の中に「心は自由(じゅうよう)」という話がありました.そのことから考えたことを綴ります.
私たち人間,身体は神様からお借りしていますが,心は自由をお与えいただいております.時として身体は自由がきかずとも心は何時も自由です.どんなことでも自身の受け止め方ひとつで喜びにも悲しみにもいかようにも変わります.
しかし,私たちの心は自由であるといっても,その自由さの中でだいたい決まった考え方,感じ方をしていくもので,知らず知らずのうちにそのパターンが,その人の癖として定着していきます.それは広く見れば性格という言葉に置き換えられるかもしれません.両親から受け継いだ傾向や育った環境,出会った価値観の取り込みにより,それらは形成されていきます.形成された性格の一面に癖もあります.
嫌気がさして癖をとりたいと思っても,これらの癖は一度定式化してしまうと変えていくのには勇気もいりますし,時間も必要ですし,本当に変わっていいのかな?という戸惑いや迷いがあることもしばしばでしょう.それももっともです.その考え方で今までの人生を歩んできたのですから.
しかしながら,その癖は変えないと同じことの繰り返しになることもあります.それもまたもっともなことかもしれません.同じような出来事に対して同じ癖で対処していては同じ結果になることは目に見えています.そんなときは,自分の心を変えていく必要があります.人は環境や他者の中で生きています.環境や他者を変えることができれば,自分の癖が出ることなく生活していくことも可能でしょうが,残念ながら環境や他者を変えることはできません.なぜって,環境や他者がそのようにあるのは,親神様によって私たち個人がその環境や他者をして自分自身を変化させる機会を与えられているからだと思います.
そのことを理解しているかどうかにかかわらず,やはり人は環境や他者を変えることはできないということを経験的に知っているので(あるいは知っていくので),結局は自分自身を変える努力をしなくてはならないということに気がついていきます.他者を変えようと頑張っている人も見かけますが,果たしてうまくいっているでしょうか.表面的にはうまくいっているように見えるかもしれませんが,陰では周囲から不平不満があったり,信頼されていなかったりと内実は円満にはいっていないことが多いのではないでしょうか.ワンマン社長などが典型例です.
一方,周りを変えようとするのではなく,自分自身の心の持ち方を変えると,不思議と環境や他者が変わってくることがあります.これが神様のお働きであり,同時に本人の努力の成果であると思います.ここでいう本人の努力とは,本人が意識しているかどうかにかかわらず,神様の子どもにかける思いに足る本人の心の持ち方や行いを指すでしょうか.
人は,適応のために自由を与えられている心に自らの努力で変化を与えることができるということです.せっかく心の自由を与えていただいているのですから,嫌な癖は取り除き,人を喜ばすことのできる心の遣い方をしたいものですね.
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