悲しみにくれることは誰しもあると思います.それは肉親を含めた親しき者の死かもしれませんし,友人や恋人との決別かもしれません.あるいは,愛着のあるペットとの別れ,住み慣れた家からの引っ越し,長く続けてきた仕事からの退職,さらには何かの記念に買ってもらった消しゴムを使いきったときなど,自分との結びつきの強い対象との別れによって引き起こされるのが一般的であります.
悲しみにくれることを悲嘆(grief)と言いますが,ある対象の喪失から生じる強い感情ないし情緒的な苦しみとでも定義できるでしょうか.つまり,何か大切なものを失ったときに生じるその人にしか分からないつらい気持ちとでも言いましょうか.そして,悲しむことはその喪失に適応するために必要とされる身体的・感情的な過程であると捉えられています.
ですから,これらの喪失体験があったときに悲しみにくれるのは,ごく自然な過程であり,むしろ必要なことなのです.悲しくなんかない!と悲しみを否定したり,悲しいけど我慢しなくちゃ!と抑圧したりすることは精神的健康のためにはあまりよくありません.最初のうちはその事実を事実として受け止められず,鈍麻になることもあるかもしれませんが,少しずつその喪失が現実として理解できたときに悲しみはあふれるものです.
悲嘆から回復することで人はひとつの悲しみを置いておけるようになり,また新たな生活を歩めるようになります.「置いておける」というのは,喪失の悲しい気持ちやその対象への思いを忘れるわけではないけれども,いつもその悲しみと一緒にいるのではなく,折に触れて想起し味わうことができるようになるということです.喪失した対象への気持ちはずっと変わらないかもしれませんし,時間を経て変化していくものかもしれません.いずれにしても,その対象をかけがえのない存在として大切に思っていたことがあったという事実は悲しみが晴れても忘れないでいたいものです.
私も対象喪失と呼べる体験がこれまでに何度かありました・・・喪失は悲しいものですね.自分にとってその対象が大切であればあるほど,対象にとって自分が必要な存在であればあるほど.
次回は悲嘆とはどのような反応なのかを書きたいと思います.
(実はこの記事は半年以上前に記述されながらずっと下書き保存されていたものです)
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「置いておける」っていうの…なるほどな~って思ってしまいました。
時間が解決してくれるものですよね。